あらすじ
太平洋戦争末期の沖縄本島の南部。この日本最大の激戦地で、逃亡の途中、兄弟たちとはぐれたわずか7歳の少女が、たった1人で戦場をさまようことになった。しかし、偶然めぐりあった体の不自由な老夫婦の献身で、白旗を持って1人でアメリカ軍に投降し、奇跡的に一命をとりとめた。この少女の戦場での体験をおった愛と感動の記録。
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恥ずかしながらこの本の存在を知ったのは最近のこと。戦争は人間を信じられないほど狂わせてしまう、著者の言葉通りの恐ろしさと悲しみがこの本の中にあった。生き続けられるだけ生きる、そうありたい。
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#白旗の少女
#青い鳥文庫
#比嘉富子
#沖縄戦
沖縄戦のことを知ると、本当に胸が苦しくなります。沖縄の平和資料館も苦しかった。でも戦争とはどんなにむごいことか、知らないと、繰り返されてしまう。6歳だった比嘉さんがたった一人で生き抜き、見た光景を教えてくれます。
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5月20
一度は読んで欲しい作品。
比嘉さんが生き延びたことは、本当に奇跡のようなことで、さまざまな人の助けがあったから。
当たり前に食べ物があって、寝るところがあって、それだけで素晴らしい。
白旗を作ってくれた老夫婦の想いが語り継がれてよかったと思う。生きていた証。
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七歳になったばかりの少女が、沖縄戦争に巻き込まれ、逃げる途中ですぐ上の兄が流れ弾に当り死亡する。二人の姉とも別れ別れになり、一人で逃げることになった。
その間、いくつもの死体を見ただろう。感覚の麻痺していくさまが苦しくなる。
最後の最後、ガマで出会った老夫婦から命を大切にしろと諭され、老人の褌の前垂れを切り裂き、三角にしたものを枝にくくりつけた。それを高く掲げて歩けと強く言い、少女・富子を外に出す。
終戦を迎え、投降するように呼び掛けがあったのを、老人が知ったからだ。
老人の教えの通り、富子は白旗を掲げて堂々と歩いた。そして、別れ別れになった二人の姉とも再会した。
後に、富子は白旗を掲げた姿をアメリカ軍に付いて行ったカメラマンに撮影されて、写真を公開された。そのカメラマンを探したら、関係者と会うことができたと言う。
実話であり、沖縄の戦場がいかにひどいものか、伝えるものだと思う。
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著者の少女の頃の沖縄地上戦体験を書いています。漢字も少なくて子供向きの内容に書かれていても生々しくて大人でも衝撃を受けるでしょう。表紙の写真の意味も当時にわかります。
4061485296 221p 2000・3・15 1刷
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・とにかく信じられない、衝撃の連続でした。
・ほんの6,7歳の少女が、たったひとりで?本当にひとりで?こんな過酷な状況野中で、3ヶ月ものあいだ、こんな生活やこんな立ち回りをしていたの?
・戦争を直接知らない私達からすると、信じられないようなエピソードが次から次に押し寄せてくる。でも写真が教えてくれる、紛れもない現実であり、事実であるのだと。
・この写真の少女、見たこともない武器で攻撃打たれると思って、だからこそそれに向けて笑顔で手を降るこの少女に、思いを馳せてしまう。自分だったら、大人の自分だとしても、そんなことぜったいにできない。
・どのエピソードも衝撃を受けるのだけど、やはりおじいさんおばあさんの白旗づくりの場面は、フィクションでも書けない鬼気迫る緊迫感がある。
・そして、2025年9月現在、著者の方がまだまだご健在であるということも、衝撃に拍車をかける事実なのである。
・多くの人に、長く、読みつがれてほしい本でした。
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当時7歳だった著者が体験した沖縄戦における実話。冒頭で、米軍が上陸する前のエピーソードで兵隊さんが著者に年齢を尋ねるシーンがあったが、7歳になったばかりだったので間違えて6歳と答えてしまった話が載っていたが、今で言えば幼稚園から小学1年生になった位の少女が、地上戦を一人で当てもなく逃げ、幾度となく死にそうになりながらも生き抜いた話である。
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戦後22年経った1977年、コザ市(現沖縄市)の洋書店で見つけた写真集の白旗を持った少女の写真。それは、沖縄戦終戦の日の自分だった。
この写真を撮ってくれたのは誰なのか。さらに11年後の1988年、撮影者であるカメラマンを探すため、プラカードを持って、ニューヨークの平和行進に加わったという話から、この記録は始まる。
「あのときわたしを撮ってくださったカメラマンは、いまどうしているだろう。もし、元気でいるのならお会いして、ひとこと感謝の言葉をつたえたい。」(p13)
それは、どんな「感謝」だったのだろうか。
少女が持っていた白旗は、沖縄戦の最後、ガマで自分を匿ってくれたおじいさんとおばあさんが、必死の思いで作ってくれたものだった。しかし、その白旗は、この写真が撮られた直後、日本人の男の人によってとりあげられてしまう。
あの一枚の写真は、苦しい戦争の最中に、自分を助けてくれたおじいさんとおばあさんが、たしかにいて、二人が作ってくれた白旗が、たしかにあったことの唯一の証明だったのではないかと思った。だから、あの写真は、「撮ってくださった」ものなのだと思った。
「ところが、しばらくすると白旗の少女について、いろいろな想像でえがかれたり、推測で物語られたり、真実とはちがう話が、一般につたわるようになりました。このままでは、あのおじいさんとおばあさんの愛が失われてしまう。」(p13)
この記録は、一枚の写真の白旗に込められた、体の不自由な老夫婦がくれた愛を失わせないために書かれたものである。
「物」を通じた、人の記憶や気持ちの大切さを伝える物語だと、ぼくは思った。
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わずか7歳の少女の沖縄戦争体験!
こんなことがあった、という事実だけで眼をそむけたくなるものがある。
人を、人の本質を見る目が育ったことだろう。
ちゃんと、こんな状況の中でも人を助ける人もいる。
わずか70年あまり前の話。
忘れてしまわないように!
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この写真は教科書で見て、著者の沖縄戦での経験やガマでの老夫婦との生活、白旗のを掲げる経緯は報道で知った記憶があります。今回改めて当時の事を読んで沖縄戦の悲惨さ、追い詰められた人間の恐ろしさ•••。著者に日本刀を振り上げた日本兵や仲間や民間人を手にかけた日本兵も、平時であれば普通のどこにでもいる善良な市民だったのでしょう。重症の仲間を苦しませたくない、米軍に無惨に殺されないため、他の人間を守るためと彼等なりの理由があったのでしょう。沖縄の犠牲を私たちは忘れてはいけない、改めて思いました。
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第二次世界大戦下の沖縄。戦地となり大量に人が死ぬ中で、奇跡的に生き残った著者、富子の実体験を綴った本。
自然な言葉で書かれており、小学校高学年から読めそう。しかし内容は悲惨でむごたらしい。当時の状況が目に浮かぶ。
ウジ虫のわいた水を飲んだり、兵隊さんの死体から金平糖をもらって食べたり、ネズミが落としていったサツマイモを食べたり。
家族とはぐれた富子は、最後、洞穴(ガマ)の中で見知らぬ老夫婦と過ごす。おじいさんは自分の最期が近いことを悟ると、富子にふんどしで作った白旗を持たせる。「これは世界に通じる安全の印だから。」と。
その姿がアメリカ兵の写真に撮られたのは、昭和20年6月25日。後の1987年に、著者が白旗の少女は自分がだと名乗り出て脚光を浴びたそう。
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おおよその概略は知っている、と思っていたが、読んで良かった。
少女(著者)が掲げている白旗が、どのようにして作られたのか。どうして手を振ろうと思ったのか。そこに、この体験記の真骨頂があると思う。
本人に自覚はなかったと思うが、ガマの存在、そのガマにいたおじいさんとおばあさんが諭す「人の命は、その人一人のものではなく、父や母、先祖から受けついたもの。命が一番大事(命どぅ宝)」の精神は、沖縄人ならではの古くからの教えだ。
また、敵と対峙する時こそ笑顔を見せろ、という父の教え。
そういった、戦争に関わらず人々の心に根付いていた気持ちが、少女を救うことになったのではないだろうか。
「白旗」は「しらはた」と読むのか。なんとなく「しろはた」かと思っていた。
「白い旗は、世界共通の平和のサイン」。
それは、命乞いや降伏のサインなのではない。平和を希求する、というサインなのだ。
日本国憲法は、この「白旗」なのではないだろうか。
少女のように、高く、大きく、笑顔で掲げていきたい。
Posted by ブクログ
子供向け新書の「青い鳥文庫」からの出版だったので、子供用に安易な表現に改定されているのか?と疑問を持ちつつ購入。
あとがきを読んだ限りでは特別な改定はされていないようだった割には、ほかの手記にあるような生々しい表現は殆どなかった。
6~7歳の子供が一人で鉄の雨を逃げ延びていたなんて、本当に信じられない。筆者も「本能」という言葉を度々使っていたけれど、本当にそうなのだと思う。動物や昆虫の動向を観察し逃げ延びるというやり方は、子供であったがゆえにできたことなんだろう。星明りだけでしっかり歩けたという記述もあったし、子供ゆえに体の適応も早かったのだろうか。
父親の言葉を思い出して、適宜実行しているところからも、思考能力の高い子供だったんだろうな、ということが分かるように思う。