【感想・ネタバレ】まじめの崩壊のレビュー

あらすじ

日本の経済成長を支えたのは、日本人のまじめさであった。数多くの場面で、この国ではまじめを前提として、さまざまな仕組みが作られ、維持されてきたのだ。しかし、社会を見渡すと、日本人のまじめさはすでに崩壊している。精神医学からの性格の変化、競争させない教育、アメリカに倣った拝金主義などを通して、なぜ、まじめが崩壊したのかを探っていく。そして、まじめを前提とした日本に、まじめの崩壊がどのような影響を与えるのかを考察する。

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Posted by ブクログ

「まじめの崩壊」というのは、どうして日本人は英語ができないかの論理に似ている感覚を持っています。日本人が英語ができないのは、英語ができなくても十分に生活できること。また、英語ができるからといって必ずしも尊敬されないからです。これと同じように、「まじめの崩壊」が起きるのは、まじめでなくても十分に生活ができるようになったから、そして、まじめな人が尊敬されなくなったからにほかならないと私は思います。この本でその理由が腑に落ちたような感覚を持っています。

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2015年02月12日

Posted by ブクログ

いままでの日本は「まじめ」であって、現在は「ふまじめ」であるという。「まじめ」がメランコリー・タイプ(躁鬱病から)、「ふまじめ」がシゾフレ・タイプ(統合失調症から)。著者のいう「ふまじめ」な日本人が多くなってきたというのは感じるが、ちょっと議論が情緒的にすぎる。実際の統計的データがないと雰囲気での議論で終わっているような幹事がする。

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2018年10月20日

Posted by ブクログ

時代背景に則して日本人の真面目さについて語っている。
真面目さとか不真面目なんていうのはその数がデータにしようがないため、その時代の印象で語られ過ぎている感じ、悪く言えば感情的に書きすぎている感じは否めないが、著者の言いたいことも十分理解できる。
一個人の考え方として参考にするにはいいと思うし、政府の不真面目さ、メディアの不真面目に関しては十分に共感できる。

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2011年07月27日

Posted by ブクログ

メランコ人間は自分が主役で躁うつ病に由来し、シゾフレ人間はまわりが主役で総合失調症に由来するという。メランコからシゾフレ化したのか。
ここまでを前段に、世界が一気に広がるのがポイント。
ウソの分析にはじまり、偽装事件からマニフェストがとりあげられ、義理人情、少子化、拝金主義と次々と取り上げられていく
まじめってなんだろう。。。

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2010年10月30日

Posted by ブクログ

日本は昔はまじめ社会だった。今は、不真面目な人の方が多い。かつてまじめだったのは、うつ病になりやすい体質のメランコ人間のほうが多かった。今は統合失調症的なシゾフレ人間が多くなった。その契機がバブル崩壊後のマネー敗戦後で終身雇用から成果主義への変化が、まじめでこつこつより、要領よく成果の上がった人が良くなってしまってからだとされる。それを進めたのがマスコミだ。まじめすぎることを非難し、おバカな娯楽番組ばかりを流し続けることが社会にシゾフレ人間を増やすことに大きな影響を与えている。
 不真面目な親が増えることによって教育のレベルも低下し、格差社会が広がっている。
 まじめ社会が崩壊すると、これまでの日本の高い競争力・優れた製品も作れなくなり、社会のモラルの低下、共同体の崩壊で高齢者社会も不安なものになる。
 今こそ、マスコミのいうことは信じるなという親になって、まじめ批判から不真面目批判を積極的に行う社会風土を作ら無ければならない。
 まじめな私には、しごくもっともな主張だ。
 ただ作者の和田秀樹氏は、いろいろな本を出しているにも関わらずあまりマスコミに出ていないのは私だけの感じなのか。

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

警察官や教師の不祥事、食品偽装、年金問題。いつから日本はこんなに「ふまじめな」国になってしまったのだろう。著者は、これを責任感が強く秩序を尊ぶ「メランコ人間」社会から周囲に合わせ他力本願的な「シゾフレ人間」社会への転換として説明している。著者の説明では、日本の社会はもともと公的規範についてはある種の「ゆるさ」を持っている。それはたとえば、交通違反の取り締まりが、ある種現場の警察官の裁量にゆだねられていたり、非合法すれすれの職種が公然と営業できていたりということをさしている。こうした「ゆるさ」の中で社会がこれまで秩序を保ってこれたのは、「メランコ人間」の責任感とそれに対する社会の信頼があったからだという。ところがある時期からこうした責任感とそれに対する信頼が失われてしまえば、結局そこには「ゆるさ」だけが残ることになるから、宗教心の薄い日本では、まじめに決まりを守るよりも、ずるく立ち回ったほうが得をする社会に容易に転換してしまうことになる。考えてみれば大分県の教員採用試験をめぐる不祥事にしても、おそらく同じようなことは昔からあったのだろう。しかしそれは「彼は点数は低いが立派な人物でありいい教師になることを保障できる」とか「あの方のおかげで先生になれたのだから顔をつぶさないように立派な先生になろう」とか、そういう責任感や信頼感の上にそれなりに機能していたシステムだったのかもしれない。ルールを厳格に運用することがよいのか、宗教教育や道徳教育を通じてもういちど「まじめさ」を取り戻すべきなのか、考えさせられる一冊である。(菅)

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2009年10月04日

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