あらすじ
人は自由意志に基づいて行動している、と誰もが思い込んでいる。しかし、実は選べないことの不自由さを人間は本源的に抱えているのだ。自分の性別や容姿だけでなく、心をコントロールすること―─例えば、劣等感や羞恥心を容易に断ち切ることの難しさを感じたりはしないだろうか。本書は、発達心理学と供述分析の視点から、自由と不自由の間で絡み合う心のメカニズムを解明する。著者は一九七四年の「甲山事件」という冤罪事件の弁護団との出会いをきっかけに、「なぜ無罪の人が自白をするのか」という問題を三十年にわたって追及してきた。取調室という空間では、たとえ拷問がなくとも、人間の心理は思いもしない方向に引き込まれてしまう、という。また、著者は福祉学部の教員として、身体障害や発達障害の子供たちと長年ふれ合ってきた。それらエピソードを通して、人間の自由を妨げる「見えない壁」を浮き彫りにする。従来の心理学の盲点をついた好著である。
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Posted by ブクログ
人間の自由意思の限界、不自由の由来について分かりやすく書かれている。
人間は身体を持ち、言葉を持ち、他社との社会があるがゆえに不自由。
講演の内容なので、とてもわかりやすく、人間について認識が深まった。
Posted by ブクログ
人には本来、個別的なものと、本源的共同性がある。
相手の視点に立ったり、その視点の交換を行って社会生活を営んでいる。
しかし、人は言葉を持ち、社会を形成し、神の視点を手にいれた。自由を手にした一方で人は限りなく不自由になった。
人の心がわかる本!というノウハウ本がブームだが、それだけ人の心がわからない人が多く、本が売れても、結局心がわからない人が減らないという要因の一端がここにはあるのかもしれない。
講義形式で、冤罪事件や自閉症等実体験に基づいた内容はとてもわかりやすい。
Posted by ブクログ
3回にわたる講義の形式で、人間の心の不自由さについて考察を展開しています。
第1回講義では、無実の人間がなぜ虚偽の「自白」をしてしまうことになるのか、という問題があつかわれています。取調室という異常な環境のなかで人間の心理がいったいどのような状態に置かれるのかということが、著者自身がかかわった事件を題材に論じられます。とくに興味深く感じたのは、無実のひとが取調べをおこなう刑事と犯行ストーリーを「協作」していくプロセスについての議論です。
そのことは、第2回、第3回の講義で論じられることになる、人間心理が「他者」ないし「社会」との密接なかかわりのなかに置かれているということにつながっています。
最後に、現代社会に生きる人間のアノミーについて語られ、「凛としている」と表現される清貧への著者自身のノスタルジーが告白されています。心理的には著者に共感できるのですが、単なるノスタルジーとしてではなく、そこにあったはずの倫理を現代社会の中で生かすための具体的な方法についてまったく語られていないことに、多少不満を感じました。
Posted by ブクログ
「人間学アカデミー」ということで、”講義”という形で書かれている。
?冤罪の起こる背景
本来無罪であるはずの人間が、何故罪の自白をしてしまうのか。
取調室という個室の中では罪を認めない限り自由を得ることが出来ない。
罪を認めれば楽になれる。
ただ、そのためにもっと先の未来ではその自白によって罰を受ける可能性もあるのに。
それは、現在拘束されていることによる辛さはありありと体感できるが、判決後の罰則(死刑とか)については「やっていないから裁判でどうにかなる」等の希望や時間的な距離で見に迫って感じられない。
また、いつまで拘束されるのか分からない「時間的展望の欠如」も要因としては大きい。
留置所に閉じ込められるのは想像以上にキツイらしい。
やってもいないのに自白するなんて考えられない!と他者が言うことはたやすいが、それは身において考えていないからそんなこと言えるんだ。ということらしい。
?羞恥心は何故起こるのか
例として四肢欠損の方の具体的な例がでているんですが。
義手を付けていた方がそれを外して外に出ようとした時、誰かに何か言われたわけでもないのに猛烈な羞恥心を感じ、人の目が気になってどうしようもなかった例が挙げられている。
何か言われても居ないのに他人からの何を感じるのか。
それは、人間が他者と話す時、自分がしゃべりながらもその声がちゃんと相手に届いているか、どう聞こえるか、聞く立場にもなり無意識に考えながら話すことを学んでいくことに関連しているそうで。
その学習を積んでいくことで自らの中に「内なる他人」を作り出し「こうしたらどう思うだろうか?」等推測できる。推測してしまうようになる。
そのため何も言われていないのに羞恥心を感じるらしい。
?本能による不自由と学習による不自由
本能は自然の作り出した巧みな生きる術ともいえるが、本能に縛られているからこその不自由もある。
フォン・ユクスキュル「生物から見た世界」という著書に記載されたダニは交尾してメスがオスの精子を受け取ると、灌木の木の枝に登り、その下を通る動物の体に飛び移って血を吸い、その血によって精子が解放され卵が受精し、メスは吸った血を卵から孵った子ダニに血を与え死ぬ。
そのダニには目も耳も無い。だが、動物の酪酸を感じ取る嗅覚を持っていて、灌木に登りその下に動物がやってくるのをじっと待つ。
そのダニが獲物がやってくるまでどれくらい待つかを実験したところ、ダニはじっとしてエネルギーを使わないまま18年も獲物を待ち続けることが出来たらしい。
人間からしてみたら食事をじっとまって18年だなんて考えられない。
他にももっと上手くいく手段があるんじゃないか?と思ってしまうけれど。
生きていくうえでの唯一の手段としてもった本能ゆえの驚異的な年数でもあり、逆にその他の手段を選べない不自由さでもあるって面白いなぁと思いました。