あらすじ
「古事記」「日本書紀」が国の成り立ちを広告的に書いたものだったように、広告はなにも資本主義に特有の産物ではない。だが戦後“生活の設計図見本”として人々に豊かな暮らしを予告した広告は、いまでは地球を覆うグローバリズムのしもべとなり、人間をどん欲な衝動的消費者に変える片棒をかついでいる。電球が1000時間で切れるよう設定され、自動車がデザイン変更を繰り返すなかで広告も“欲望の廃品化”に一役買ってきたのだ。 60年にわたり広告の最前線に立ち会った著者が語るその内幕と功罪。そして成長主義が限界を迎えたいま、経済力や軍事力のモノサシで測れない成熟した社会のために広告ができることを提言する。【目次】第一章 計画的廃品化のうらおもて/第二章 差異化のいきつく果てに/第三章 生活大国ってどこですか/エピローグ 新しい時代への旅
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Posted by ブクログ
先日亡くなった天野祐吉さんの(おそらく)最後の著作。
戦前戦後から高度経済成長、そして大震災までを生きた天野さん自身の人生史でもあり、その中でメディアや広告が果たした役割の変遷が並行して描かれる。
そんな中で、大衆社会の「いま」と切実な関係を保ちながら、人々の暮らしに対する想像力を切り開いてきた広告が、その本来的な意味を失い、大量生産・大量消費を謳う資本主義の道具と変質していく時代に対抗すべく、「広告批評」を創刊するに至ったという背景はとてもリアルだ。30年後に「使命を終えて」廃刊となった同雑誌のコンセプトは、初期も僕が読んでいた末期も変わっていなかったように思う。
翻って、ネットで誰もが批評家となることが可能になった現在、本当の「批評」とは何なのかということは改めて考えてみないといけないだろう。
天野さんに言わせれば、「広告」=「いかがわしさも人間臭さも併せ持った人間の写し絵」であり、それがいつの頃からか「暴力的な力」を持った権力に利用される手段となってしまった。そんななかで、非主流ではあっても、俗流化した資本主義的なモノサシでは測れない「個性」=「別品」の存在価値を認めるために徹底して反権力の立場に立つことこそ、批評の役割なのだと言っているように思う。それは、天野さんがいかがわしさを含めて人間の多様性を愛していたからこそ、だと思う。「本当の批評とは、その対象に対する愛なくしては生まれない」のではないか。