あらすじ
宗教なんてインチキだ、騙されるのは弱い人間だからだ―「無宗教」を標榜する日本人は、たいていそう考える。しかし、そんな「無宗教」者も、「本当の生き方」を真剣に模索しはじめたとき、また、人の死など身にあまる不条理を納得したいと願ったとき、無宗教ではいられなくなってくるのではないだろうか。宗教に対する誤解にひとつずつ答え、そもそも宗教とはどういうものなのかを説き、「無宗教」から「信仰」へと踏みだす道すじを平易に語っていく一冊。
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Posted by ブクログ
○一方、「自然宗教」とは、「自然発生的」な宗教という意味です。自然を崇拝するという意味ではありません。「自然宗教の特色は、「創唱宗教」と比べるとはっきりします。つまり、教祖とよばれるような人はいないし、聖典にまとめられるような明確な教義もありません。たとえば、日本の「自然宗教」では、人は死ねば、一定期間子孫の祭祀を受けることによって「ご先祖」になることができるし、その「ご先祖」は、やがて孫や子となって生まれ変わってくるとか。このように、人は死んでも「ご先祖」になることができる、そして年中行事を通じて子孫と交流することが出来る、と信じられている所では、人は死後に大きな不安を抱くこともなく生きていくことが出来る。
○日本人の言う「無宗教」は、無神論のようにけっして宗教の全面的否定ではないのです。むしろ無宗教を標榜する人は自然宗教のきわめて熱心な信者であることが多い。そして興味があるのは、こうした「無宗教」を標榜する多くの人が、創唱宗教には距離を置く傾向が強く、しばしば創唱宗教には無関心になりがちだということです。
○このようにムラの和を第一とする考え方に立つ以上、創唱宗教に関心をもつことは、ムラの和を乱す行為につながることになります。したがって普通は人々は先祖伝来の習わしの中で暮らす道を自然と選ぶことになり、無宗教になることが当然だということになる
○しかし、自然宗教がいつまで生き続けることが出来るのか、ということになると大いに疑問です。つまり、今まで通り、自分たちの精神生活を無宗教の一言ですますことは、だんだんと難しくなっているのではないかと思います。もしそうだとすると、無宗教に代わるなんらかの新しい精神生活のありかたを、模索する必要があるのではないでしょうか
○人はどのような考え方であれ、それによって人生の意義や死後の安心が納得できるのであれば、その考えに従うものなのです。死ねば無になる、というのも、一つの納得の仕方なのです。死ねば一切が無になる、ということが科学的だから、という方もいらっしゃるでしょうが、果たして科学的に証明できることがらでしょうか。
○明治の宗教哲学者で、親鸞の仏教を近代に甦らせた清沢満之とおいう人は、宗教と科学がぶつかる場合には、科学は科学の立場で、宗教は宗教の範囲において、それぞれが解決するように試みるべきだと述べています。
○つまり、地獄・極楽の問題は、今日ではもっぱら非科学的だと頭から決めつけて取り合わないということが一般的です。しかし、問わねばならないのは、どうして昔の人々がこのような地獄・極楽という世界を必要としたのか、ということでしょう。
○佐藤によると、自然の悠久に比べたとき、自己のあまりのはかなさに愕然とした人間が、その悲劇を自然との一体感によって越えようと努力するところに生まれる境涯が、風流にほかなりません。風流はときにもののあわれ、とか無常感ともよばれてきたと佐藤はいいます。
○現代社会が、思想・信条の自由を前提にする限り、またそれがこれからの国際社会の約束である限り、宗教に対する正確な理解が欠かせないことはいうまでもありません。自分が無宗教であっても、そしてもはや宗教入らないと高言していても、宗教がどのようなものであるのか、十分な知識と共感がなければ、宗教の信者との共存はもちろん、多様な価値観の持ち主たちとの共存も、むつかしいことになるでしょう。
○因縁話が他罰から自罰への切り替え点になっている、という指摘は重要です。私の見るところ、内省こそ、すべての宗教の出発点。自らの内部の悪や罪、無力を自覚することなしに、宗教的世界は開かれることはありません
○それは、インチキ宗教とそうでない宗教とのちがいは、その宗教に近づいてみて精神が明るくなれば真正の宗教であり、逆に精神が暗くなれば、間違いなくインチキ宗教だということです
○呪術は、願いごとの実現のためには、神仏であっても脅迫するのです。神仏を脅かしてでも自己の願望を遂げようとする、その飽くことのない欲望実現の精神こそ、呪術の本質なのです。そこには自己を内省する精神はありません。自己はなによりもかわいい存在であり、その欲望の追求にはなんの疑問も発せられません。ひたすら欲望の実現だけを目指す宗教では、やがて人々は欲望のぶつかり合いの中で疑心暗鬼に駆られてくるでしょう。
○しかし、すでにのべてきたように、宗教は非常の言葉に耳を傾けることから始まるのです。非常の言葉に耳を傾ける人は、常識の立場に踏みとどまっている人から見れば弱い人に映るだけでしょう。弱いという判断は、あくまでも常識が下すものです。
○耐えるだけの世界!それは苦しみの世界です。この忍土である世間を、どのように耐えていけばよいのか。移ろうことなく、動揺することのない、確固とした基盤が必要ではないのでしょうか。そうした基盤に足をおいて初めて、耐え難い世間も耐えてゆけるのではないか。こうして老人は、本当にたよりになるものを求めて長い遍歴の旅に出たのです
○死が宗教への踏切板になるのは、死によって鮮明となってくる人間の有限性や、そうした有限性を自覚することがないところに生じる種々の苦や悲劇に逢着し、そうした苦や悲劇から抜け出たい、と切実に希求する場合なのです。そもそも、宗教は、絶対的な救済の原理を提示するものです。死の問題も解決はするが、それがすべてではありません。むしろ死によって象徴される、人間の有限性に発する苦の解決にこそ、宗教の役割があるのです。つまり、死はそれだけでは宗教への十二分な踏切板にはならないとおいうことです。
○大切なことは、人がそれぞれに固有であるのは、ひとえにその人が背負っている「業縁」が個別であるからだ、ということなのです。
○日頃、常に忙しく動き回っていて、手持無沙汰が一番恐ろしい人は、どのような心持なのでしょうか。本当は、心を紛らわせる手段をもたずに、ひたすら独りでいることがのぞましいのですが。世間に従っていると、心は世俗の塵にまみれて、迷いがちとなりますし、人と交際すると、発する言葉も他人のことばかり気にして本心をあらわすこともありません。人と面白く戯れたと思っても、争いとなっていることもしばしば。恨んだと思うと喜んだり、心はなかなか一定しません。また、思惑がやたらにはたらいて、損得ばかりが気になることです。そうした様は、迷っている上に酔っているようなものであり、その酔いの中でさらに夢を見ているというに等しいものです。忙しく走り回っているかと思うと、呆然として大事なことを忘れてしまっている、これが人の常態というものなのです。ですから、大切なことは、まだ「まことの道」には通じてないとしても、心身を悩ます条件となるようなことから身を遠ざけて、静かにし、世事に関与することなく、心を静かに保つことなのです。
○これからの時代は、無宗教というだけでは十分な精神生活が展開できないのではないか、実際、自然宗教の基盤であったムラ社会が崩壊している今となれば、ますます、無宗教でやってゆくことは困難となるのではないか、その上で無宗教に代わる道へのステップを模索することにした。