【感想・ネタバレ】羽生 21世紀の将棋のレビュー

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Posted by ブクログ 2024年04月06日

羽生善治さんの事は、将棋を中学生の時に授業と授業との間に友達とやっていた程度の私と(そしてやはり弱かった)、皆さんのイメージは同じではないかと思います。いわゆる天才。
その天才の考える将棋の概念を少し垣間見させてもらったような気がしました。
自分持っていたイメージと離れた考えであったところは非常に驚...続きを読むきました。

また保坂和志さんの分析する藤井聡太君の仮説の中身も読んでみたいです。

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Posted by ブクログ 2022年09月11日

★藤井時代だからこそ★おそらく1997年か98年に読んで以来の再読。将棋でのAIが一気に進み、藤井聡太が席巻する今になって、改めて保坂和志の分析と羽生の考えを読んでみたい。コンピュータは人間がプログラミングするもの、という前提があり、部分的な良し悪しを人間が判断して入力する考えだったろうが、現在のA...続きを読むIは人間の判断を不要にしてしまった。それだけに見方は変わっているだろう。

<以下引用>
――人間vsコンピュータとい図式で考えてしまいますが、そういう図式ではないんですよね。
羽生 コンピュータは人間が作り出すものですから結局は。人間が作り出したコンピュータvs人間なんです。
――そういう意味で、羽生さんが将棋の理論を教えるとすれば、どういうことを教えますか。
羽生 私はその辺は詳しくはないのですが、もし自分がやるとすれば、つまり定石とか詰まし方でなくて、この形の時はにはこう動かした方がいいとか、この形とこの形を比較したらこっちの方がいいとか。そういう部分的な良し悪しなり、部分的な形なり、こっちの方がいいケース、これはこっちの方がいいケースというのを膨大な量を入力していくのがいいと思います。
――それは駒の損得でもスピードでもないんですね。
羽生 そうです。場面、場面の形、形です。ただもちろんその中には駒得とかそういうこともあるので、形が悪くても駒得の方がいいという判断のケースとかも沢山いれていくのがいいのではないですかねえ。
――それはすなわち羽生さんの将棋の考え方に非常に近いのではないんですか。
羽生 そうです。つまり自分が将棋の形を考えるときにどういう判断をしているのかということをインプットしていくわけです。(「将棋世界」96年4月号)

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Posted by ブクログ 2014年12月18日

書道とも、ひいては「生」とも、親和するところがある考察だなと思った。

●以下引用

個性、スタイルとは、可能性を狭めるものだと考えている

個性とは事後的にしかわからない

寄せにおける最善手というのは、対局者が「考える」ものではなくて、「見つけ出す」ものなのだ。それは人間の主体的に任された自由な...続きを読む手順なのではなくて、局面に隠されている手順なのだ。

ねらいよりも深いところに一局の法則がある

曲というものの主導権は作曲者ではなくて、曲それ自体にある

絵画でも、詩でも小説でも映画でも、すぐれた芸術作品というのは、すべて作者の意図を超えて、その作品固有の運動・法則を持っている。作者の仕事とは、いわば、自分が作り続けているその箇所が、当面出来上がっているところまでの運動を損ねることがないか、目をこらすこと

芸術というのは、すべて作者個人の意図を超えて、作品固有の運動性を持つものなのだから、完成するはるか以前、作り始めてかなり早い時点から、作品は作者の手から離れている

作品が作者の意図を超えて動き出すときが、作品が声明を吹き込まれるとき

個人の、こうしたい、こうしたくない、という意図を超える

最前手はそこまで指した手が決めるもの

最善の手順が実現されていくことにこだわる

形勢判断にも棋風にも読みの根拠を求めず。ただそれが最善であるかどうかということだけを考えて読み続ける

すべての可能性を網羅しないで、不要なものを考慮の対象にしないで切り捨てられることは、将棋に限らず、何かに精通することにおいて、非常に重要な能力

これらの性質の異なる要素を、明快に、誰もが納得するように、客観的に、評価する方法はない

形勢判断は常に主観的なもので、曖昧さ、不確かさから逃れることができない

駒の幸せを考えていれば、駒から愛され、駒は自然と働いてくれる

非の打ちどころがなく論理的だ、しかし論理的でしかない

羽生は、網羅的な思考法とは違う思考法をとる。

カンは、通常の言語化の範囲を超えた、その人自身にさえも言語化しえない要素を見ている。つまりそれは論理の側にある。

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