あらすじ
たぐい稀なモラリストにして性の修験者斎木犀吉――彼は十八歳でナセル義勇軍に志願したのを手始めに、このおよそ冒険の可能性なき現代をあくまで冒険的に生き、最後は火星の共和国かと思われるほど遠い見知らぬ場所で、不意の自殺を遂げた。二十世紀後半を生きる青年にとって冒険的であるとは、どういうことなのであろうか? 友人の若い小説家が物語る、パセティックな青春小説。
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Posted by ブクログ
「おれはいまセックスとは何か? ということを考えているんだよ。おれはひとつのテーマについて永いあいだ瞑想するのがすきなんだ。それで三時間おれはセックスの問題について瞑想していたんだよ。考えてみろよ、昔はモラリストとかフィロソファーとかがいて、基本的な命題をじっと徹底的に自分の頭で追求したんだ。そして自分の声で表現したんだね。だから、その時代には、あの男は自然についてこう考えているとか、この男は悪魔の存在についてああいう仮説をたてているとか、町の人間がみな知っていたんだ。しかし今日では、そういうことはない。もう現代の人間どもは、いろんな基本的な命題については、二十世紀の歴史のあいだにすべて考えつくされたと思っていて、自分で考えてみようとはしないんだ。そのかわりに百科事典をひとそろい書斎に飾っておいて安心している。おれはそれが厭なんだ。本質的なことはみないちどおれの頭で考えて、おれ専属の答を用意しておこうと思うんだ。きみにしても、いま向こうからよぼよぼの婆さんがやってきて、わたしは癌なんだけど、死についてあんたの個人的な意見をきかせてもらえませんか? といったとすると困るだろう。おれは、そういうとき困らないように準備しているんだね。もうずいぶんいろんな命題について考えたし、それはノオトに記録してある。おれは、それをおれの生涯の仕事にするつもりなんだよ。そして死ぬまえに、おれの哲学的瞑想ノオトという、人事興信録みたいにでっかい本を出版するんだ」
「おれは十五歳の誕生日からずっと、いろんな命題について瞑想しては、自分自身の答をつみかさねてきた。おれはいまや、ありとあらゆるモラルについて、ありとあらゆる現象について自分独自の答をおれ自身の声でかたることができると思うよ。おれは自分の頭で瞑想し続けたし、自分の眼で観察しつづけてきた。おれはもうプロのモラリストだし、いわば公認のフィロソファーなんだ。ところがそのおれに今までのところ、公衆を前にして自分の瞑想の結果をかたる壇はあたえられなかったし、歩きながら崇拝者どもに説ききかせる柱廊も用意されなかった。おれは本を書くことも考えたが、それはあまりにも厖大な書物になりそうだし、どこから手をつけていいのかわからない。第一おれの思想は死んだ活字に語らせるより、生きた肉体で表現すべきものなんだ。そこでおれは結局、自分がこの現実世界をどのように生きるかということで自分の哲学的な瞑想の成果を証明していゆくほかないんだが、この二十世紀に生きている限りそれはあまりに限られたちっちゃな範囲でのことしかできない。ところが、いま、おれは劇場と劇団をもとうとしている。おれは自分のモラルのすべてをおれおよびおれの劇団員の生身の躰をつうじて表現できるだろう。あくまで具体的に、人間らしい表情と声で! おれの演出方法はこうだよ。舞台の俳優が勇気のある人間の役をやるとしよう。俳優はおれが作った勇気という命題についてのカードをすっかり暗記するまで読むわけだ。そして、かれはおれの勇気というモラルのお化けとなって舞台の上に立つわけさ!それは勇気という命題にとどまらない。この世界のありとあらゆる命題について十分な時間をかけて、このおれが瞑想をかさねた、確実な答とともに、おれの俳優たちは舞台で叫んだり動いたりするわけなんだ。いままでおれたちが見てきた、たいていの舞台はどうだったろう? どの俳優もみな確実なモラルを獲得してはいない。この現実世界に生きているナマの人間同様、なにひとつ自分独自のはっきりしたモラルをもたずに、あいまいに、行きあたりばったりに、任意に、偶発的に芝居している。いったいそれが、人間の意識のなかのもっとも意識的な演劇世界のヒーローたちのやることかい? おれたちは昨夜、サルトルの翻訳芝居を見たが、まったく見るにたえない、あいまいさのごたまぜだった。