あらすじ
なぜ、人は争わねばならないのか
弘安四年、夏。博多湾に蒙古軍14万の艨艟(もうどう)が押し寄せた。
日本史上最大の国難――元寇。
そのとき石築地(防塁)の外、波打ち際にあえて陣を張った若き武士がいた。
伊予の没落御家人・河野六郎通有である。
かつて名門として知られた河野家は、いまや一族骨肉の争いに沈み、再興の道は遠い。
伯父と当主の座を争う六郎が、奴隷市で買い受けたのが、西域から流れてきた少女・令那と、高麗から連れてこられた青年・繁だった。
言葉も、信じる神も、肌の色も違う三人。
それでも伊予の家で、血のつながらぬ者たちは奇妙にひとつの「家」を築いていく。
血を分けた一族とは争い、血のつながらぬ相手と心を通わせる――その日々の先に、海の彼方から異形の艦隊が現れる。
河野家は寡兵で、博多湾の砂浜に陣を据えた。
身を守る石築地の「外」に。
退路を断つかのようなその構えは、後世「河野の後築地」と呼ばれ、史実に名を残す。
六郎はなぜ、あえて防塁の外へ出たのか。
神風が吹く、その前に、彼は何を守ろうとしたのか。
家か。国か。それとも、共に生きる者たちの命か。
『塞王の楯』『イクサガミ』の今村翔吾が、元寇、鎌倉時代、博多湾、海戦、異文化との共生を壮大なスケールで描く歴史小説。
「別冊文藝春秋」連載時から話題を呼んだ、著者渾身の歴史長編、待望の文庫化!
単行本 2024年5月 文藝春秋刊
文庫版 2026年7月 文春文庫刊
この電子書籍は文春文庫版を底本としています。
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Posted by ブクログ
新幹線の往復の時間で読む量として丁度いい本でした(荷物が重くなるのが嫌なのでこれ一冊)。諸事情あり大阪で1泊。
ストーリーとしては✶4.5?だと思ったのですが、今村さんの計らいを考えると✶5になりました。
読み始めた時からつらつらと考えていたのですが、意外に鎌倉時代を描いた作品は少ないように思います。本作は執権北条時宗の時代。もちろん主人公となる当時の伊予の武士である河野六郎の予備知識など何も無いまま読み始めました。
まず、そうだったのか?と思い知ったのは当時の幕府の御家人に対する統制力です。鎌倉幕府の権勢が日本全国にかなり根付いていたことが驚きでした。(どこからどこまでが今村さんのフィクションなのか良く分かっていませんが)その実力があったからこそ、鎌倉の後の時代、室町、戦国、江戸へと続いていく歴史の流れの基礎ができたのだという認識が、この歳になってようやく体得できた?のだと思います。(平安時代はそこまでの地理的範囲の統制はなかったと思ってます)。
特に「元」という外敵と国を挙げて戦うという事態は、それまで島国の中で国盗りをしていた日本人に「日本(日の本)」という、今でいう国という認識を植え付けたのではないでしょうか。(素人考えですし、それまでも倭国の中央集権化の切っ掛けとなった戦いは数々あると思いますが)。
極めて短絡的ですが、元寇で日本が(勝ったとはいえないものの)侵略されなかったことにより、日本は明治維新、そして現代に至ることが出来たのではないだろうか?なんて思ってしまいました。
しかし、今村さんの計らいが良く分かったのが「るうし」(ウクライナ)の「きいえふ」(キエフ)出身の少女と「高麗」(韓国)出身の若者の登場です。「元」と戦うに当たって、決して相手を殺戮することだけを考えて戦うということはせず、より広い視野をもって一人の敵兵に至るまで、同じ人間として扱おうとする気持ち。そして互いに反映したいという思いを主人公に持たせたことでした。
まだまだ考え方が浅いのかも知れませんが、何となく今村さん現在の日本・世界の状況に対する思いのようなものが感じられたので✶5となりました。
Posted by ブクログ
『海を破る者』というタイトルから、私は壮大な戦を描いた歴史小説を想像していた。
もちろん、その期待は裏切られない。息をのむ海戦や迫力ある戦の描写は圧巻で、最後まで一気に読み進めた。
しかし、読み終えて最も心に残ったのは戦ではなく、「人」だった。
この作品は、元寇という歴史を舞台にしながら、「人はなぜ人を人と思えなくなるのか」という普遍的な問いを描いた物語だったように思う。
六郎は海の向こうに思いをはせ、言葉も文化も異なる令那や繁を理解しようとする。言葉が通じないということは、単に会話ができないことではない。相手の思いや背景が見えず、理解できないということだ。理解できないものは恐れとなり、恐れは偏見を生み、やがて相手を「人」ではなく「脅威」として見てしまう。
この構図は、六郎と令那たちの関係だけではない。日本と元という国家の関係にも重ねられているように感じた。規模は違っても、本質は同じだ。理解できないから恐れ、恐れるから心を閉ざし、相手を人として見ることができなくなる。
そんな中で強く心に残ったのが、一遍の言葉だった。
「人は人が故に、時に人を人と思わぬ時がある。だがそれを是とすれば人は人でなくなる。またそれを是とするほど人は弱くはない。」
私は、この言葉に本作を貫く思いが込められているように感じた。
六郎が魅力的なのは、その強さだけではない。守るべきもののためには命を懸けて戦う。それでも最後まで相手を理解しようとする姿勢を失わない。その生き方があったからこそ、令那や繁も六郎を理解し、信頼を寄せるようになったのだと思う。そして河野家も二人を受け入れたことで、より強く結束していく。異質なものを排除するのではなく、理解し受け入れることが、人も共同体も強くする。そこに、この物語の大きな希望を感じた。
読み終えた今、『海を破る者』というタイトルも違って見える。
私にとって「海」は、日本と元を隔てる海原だけではなかった。言葉や文化、価値観、常識、そして思い込み。人と人との間に横たわる見えない隔たり、その象徴だったように思う。
六郎は、その海を越えようとし続けた。だからこそ人は人とつながり、互いを理解し、未来を切り拓いていける。その姿は、鎌倉時代を描きながらも、現代を生きる私たちへのメッセージにも感じられた。
だから私にとって『海を破る者』とは、海を越える者ではなく、自分の中にある常識や思い込みという広い海原を越えようとする者のことだったのかもしれない。
歴史小説として圧倒的に面白かった。そして読み終えた今もなお、私はこのタイトルに込められた意味を考え続けている。
Posted by ブクログ
以前、愛媛県立歴史博物館を訪れた折、河野氏の展示が結構あったのだが、村上水軍の親戚程度の認識しかなく、また一遍上人の氏だとは知らなかった。また訪れたらもう一度しっかり展示を見たい。
物語はすごく良かった。実のところ、海軍であれば水難事故にも敵を救うのは当然ではないかという気がしてしまったのだが、日本軍として戦うことのなかった時代、かなり勇気がいる行為だったのだろうなと思わざるを得ない。最後は泣いてしまった。
河野六郎は身内の争いに巻き込まれ、争いにお金が飛んでいくので家の維持もままならないほどであったが、海賊の取り締まりや漁業者の諍いの仲介などで財を少しずつ増やした。
一遍とは従兄弟でたまに伊予に帰ってくる。4年前、元が攻めてきたが、神風が吹いて敵の船団は沈んでしまった。だが次またやってくると一遍はいう。従兄弟のために情報を集めてくれている。
一遍は元からの使者が来たことを告げた。今回は少し豊かになってきているので、出陣要請があるだろう。三百石の大船を作っている。名前は道達丸。ついでに海賊も取り締まる。200石ほどの朱塗りの海賊船を捕らえた。もともとは宋にいたが、向こうにいると元に殺されるからという。瀬戸内に来なければ船を返してやると約束する。2度と海賊はせず、河野家は海賊を許さないと吹聴してほしいと。そして来るべき来襲に向けて鎌倉に差し向けたところ、領土の一部が返還された。
幕府より遣いが来て、西国の守りを命じられる。150石船が4艘作られていたが、他は漁船。とはいえ300石船の道達丸は全国から集まった船の中でも目を引いた。博多には御家人が参集している。砂浜には石築地がぐるっと作られている。
元軍がやってきた。石築地の後ろには御家人がひしめいている。河野軍は砂浜に陣を取った。河野の後ろ築地などと呼ばれる。
Posted by ブクログ
元寇に関する小説は読んだことがなかったので、非常に興味深かった。最後が史実とはだいぶ異なるようで、少し違和感を感じてしまったので、星は4つで。
昔も今も、なぜ戦争がなくならないんでしょうね。考えさせられました。どこの国でも,子どもたちには「暴力はいけないこと」って教えるのに。
侵攻、領土,攻撃、軍、てつはう(鉄砲)、現在、世界のどこかで起きている戦争、昔と全く変わってないじゃん泣。悲しい。
また、わたしが注目したのは一遍。
続けて、一遍踊って死んでみなby白蔵盈太を読んでみようと思います。
Posted by ブクログ
安定の熱量であり、面白さであった。元寇にて活躍した河野六郎は、武功や自分のことより何より人を信じ想いを大切にする、そんなナイスガイであった。
最後の戦いでは神風で救われることは分かりながら、絶望的な兵力差にドキドキし、楽しめながら読めた。
ただ1点、作者のこのような作風が大好きなのだが、ワンパターンだなとも思ってしまった。義に厚く気持ちを重んじる、そこが魅力的なところではあるが、初めて読む物語に何か既視感があるなーという感じではあった。