【感想・ネタバレ】沖縄文化論-忘れられた日本のレビュー

あらすじ

歴史に翻弄されつつ古代日本の息吹を今日に伝える沖縄文化。その源に潜む島民の魂を画家の眼と詩人の直観で把えた名著

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Posted by ブクログ

ネタバレ

沖縄事前読書週間3冊目、この後少し間は開くかもしれないですが、次は柳田国男や折口信夫の『沖縄文化論集』を読もうと画策中。その後はネフスキーの『月と不死』かなあワクワク。

本エッセイは1959年の11〜12月の沖縄滞在をベースに書かれ、その後にイザイホーを見に行った1966年、本土復帰の1972年の増補も収録している。全編面白かったし、楽しく読めた。岡本太郎の文章読みやすい。あとがきの…沖縄の魅力にひきこまれ、私はほとんど一年近くもこの仕事にうちこんでしまった。それは私にとって、一つの恋のようなものだった…という熱量がしっかり伝わってくる。

「何もないこと」の眩暈
…この世界では物として残ることが永遠ではない。その日その日、その時その時を、平気で、そのまま生きている。風にたえ、飢にたえ、滅びるときは滅びるままに。生き次生きながらえる、その生命の流れのようなものが永劫なのだ。…美しいものではあっても、美しいと言わない、そう表現してはならないところにこの文化の本質がある。生活そのものとして、その流れる場の瞬間瞬間にしかないもの。そして美的価値だとか、凝視される対象になったとたん、その実態を喪失してしまうような、そこにわたしの突き止めたい生命の感動を見とるのだ。さらに強調していう。問題は石垣や裸足やクバ笠ではない。その美しさなんて、本質的にいってそんなもの、あろうがなかろうが、どうでもいいことなのだ。ただそれが媒体となり、それを通して直感し、感じとる、永劫ーなまなましい時間と空間。悠久に流れる生命の持続。(p.70-1)

この目まぐるしさはどうしたものだろう。…しかし勿論日本に限らない。世界じゅうのオーガニゼーション・マンが、自覚するしないにかかわらず落ち込んでいる絶望的なシチュエーションである。生命のリズムと時計の針との違和感。というよりも生命自体が画一化しているということだ。そういう矛盾がどこからくるかという問題は一応別として、ただ空しく一方的時間に飲まれてしまっては、生きている甲斐がない。(p.73)

八重山の悲歌
…歌というと、われわれはあまりにも、作られ、みがきあげられた美声になれてしまっている。美声ではない。叫びであり、祈りであり、うめきである。どうしても言わなければならないから言う。叫ばずにはいられない、出なければ生きていかれないから。それが言葉になり、歌になる。(p.105)

踊る島
…歓喜が全身をつき動かす。人は踊る。よろこびの極みが踊りであり、そのエネルギーの放出はまた強烈な歓喜である。心身が解き放たれ、自分自身を世界に向って惜しみなく投げ出す。それは自己拡大であると同時に、自己喪失といっても良い。際限なしにあふれ出る。その時人は世界を所有し、宇宙と同化する。踊り上がり、全身を空に投げ、くるくる廻る。世界は同心円を描き、すみずみまで輝いてこちらを包む。…そのような死こそ、そのような生こそ…。(p.121)

ちゅらかさの伝統
…災いとか伝染病を美称でよぶのは、なるほど、ひどく矛盾のようだが、しかしかつての島の人には切実な意味があったに違いない。複雑な心情である。…恐ろしいからこそ大事にする。人間が自然の気まぐれに対して無力であった時代、災禍をもたらす力は神聖化された。"凶なる神聖"である。それは"幸いなる神聖"と表裏である。(p.185)
…危機感、抵抗のピリピリした防禦反応が働いている間は、鹿鳴館精神も賢明な手段であったろう。しかしそれが鈍り、なれてしまうと、やがてだらしのない植民地風景になってくる。近代日本のカリカチュアーの一面である。そしてそれは今日なお続いている。(p.193)

本土復帰にあたって
…私は島ナショナリズムを強調するのではない。島は小さくてもここは日本、いや世界の中心だという人間的プライドをもって、豊かに生きぬいてほしいのだ。沖縄の心の永遠のふくらみと共に、あの美しい透明な風土も誇らかにひらかれるだろう。(p.205)

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2024年10月27日

Posted by ブクログ

ネタバレ

岡本太郎の返還前の沖縄への訪問。八重山、久高島の御嶽・巫女(ノロ)、風葬等の等の民俗等々を紹介。他の岡本太郎の著作に比べると、今一つ切れはないかなあ。

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2013年01月27日

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