あらすじ
かつて社会にとって最も神聖な儀式であった「処刑」は、12~13世紀を境に、〝名誉をもたない〟刑吏の仕事に変っていった。
職業としての刑吏が出現し、彼らは民衆から蔑視され、日常生活でも厳しい差別をうけた。
都市の成立とツンフトの結成、それにともなう新しい人間関係の展開、その中で刑罰観はどう変化したのか。
刑罰観の変遷と刑吏差別の根源を追究する中で、庶民生活の実態を明らかにし、民衆意識の深層に迫る。
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Posted by ブクログ
大学時代に、屋敷二郎先生という法学部の先生の「西洋法制史」という授業を受講し、とても面白かったことを思い出した。私は社会学部だったので、法学部の授業を受けることは少なかったが、所謂法学部の細かい法律の解釈論ではなく、そもそも「法」ななぜ、どのように形成されてきたのかという通史を知ることができたことがその授業の核心だった。
本書は、言わずと知れた西洋中世史の巨人、阿部謹也先生の本であるが、刑吏の社会史を学ぶことは、まさに近代法以前の人と人との関係性やコミュニティの在り方について垣間見ることであり、示唆に富む。
本書で以下の文章を読み、映画のトワイライトウォリアーズの私刑(覆面をして4人で暴力男をボコボコにするシーン)や過去に読んだ『トンキンマンションのボスは知っている』における香港のナイジェリア人コミュニティの話を思い出した。
我々は今でこそ国民国家とか近代社会の枠組みの中で生活しているものの、アンダーグラウンドと呼ばれる国家の法域の外にでれば、中世的な人間の本質から免れることはできない。こうした近代法の枠外においては、法律とは異なる「掟」や「不文律」がある。
中世の世界は、今でいうところの公共性と呼べるような秩序を重んじており、秩序に対する侵犯に対しては、必要以上にボコボコにしたり、残忍な刑罰を処すことでその維持を志向していた。中世における処罰は、偶然刑であり、実際に罪を犯したことを殺すことは目的とされていない。秩序に対して毀損したり穢したりすることに対して、相応の処置を取ることは必ずしも死を目的とするというよりは、同レベルの仕打ちをすることで解消されるという感覚は、近代以降の人間には理解しにくいものかもしれない。
とはいえ、ラジオを聴けば、ウォーターサーバーの水を後1杯分残して、水を入れ替えていかない人への怒りが投稿されており、こうした公共や秩序へのゆるい破壊行為への怨嗟が根深いこと、さらにそれに対して注意して、対象者を徹底的に殲滅させるには自身の心理的負荷が大きすぎるため、何らかの悪事が偶発的にその人に振りかからんと願うことは、「公共への挑戦に対して偶然刑で処罰する」という心性が今も世の中の通奏低音として流れ続けているように思える。
また、別の側面としてコミュニティや差別の問題とも接続性のある議論だと思う。『トンキンマンションのボスは知っている』でコミュニティについて書かれていたのは、組合のようなものを作り、誰かが死んでしまった際に、本国へ遺族を搬送する資金を共済のような形で出し合うというものだ。日本の村八分でされ、残りの二分で葬祭は残っていることを踏まえると、中世における賤民が棺を誰からもかついてもらえないというのは余程差別されていると言えるだろう。アメリカ史でも黒人差別の問題は根深いが、人間はだれかを差別したりいじめたりしなければ、社会を構成できないのかという一抹の絶望を覚える。
また、おそらくこれから読み進める部分にあるが、刑法の概念が成立する前の中世の人々の法意識は極めて興味深い。ネット空間等、新興のコミュニケーションサイトではしばしば炎上や私刑等が発生するが、このメカニズムを理解するのに、中世史は参考になるのではないかと思う。
• これまで中世世界の光の部分については多くの研究者が紹介し、一般に知られるようになっているが、影の部分についての研究は大変乏しい。わずかな研究に導かれながら、一歩ヨーロッパ中世社会の影の部分に足を踏み入れるとき、私たちはそこに多種多様な人間の群を見出し、その広がりにまず驚かされる。
• 賤民が営んだ職業の分布から推定されるように、都市共同体や農村共同体から排除されたこれらの人々はかなりの数にのぼり、中・近世社会の隠された影の部分を構成していた。この影の部分が市民や教会などがおりなす光の部分と共に中・近世社会そのものを形成していたのである。そしてその影の最も深いところにあり、人々から最も蔑視され嫌悪されていたのが刑吏であった。
• 誕生の星に恵まれなかっただけでなく、老いたときの刑吏の悩みは死後のことであった。刑吏の棺をかつぐ者がいなかったからである。中・近世の農村の共同体も都市の同職組合も単に職業を共にする人々の団体であるだけでなく、出生から埋葬までを共に行ない、各同職組合がそれぞれの祭壇を特定の教会内にもっていて蠟燭の灯を絶やすことなく死者の供養をするための団体でもあった。同職組合には組合員だけでなく妻も子どもも加わり、生者と共に死者も共同体の絆で結ばれていたのである。同職組合員としての義務の最も重要なことのひとつに仲間が死んだとき墓地まで皆で棺をかついでゆくことが含まれていた。 しかし、同職組合に入ることを許されず、賤民として位置づけられていた刑吏の棺をかつぐことを《名誉ある》他の同職組合員たちは拒否したのである。刑吏の棺をかつぐことは直ちに賤民におちることとみなされていたからである。
• 『古代ゲルマン人における処刑』を書いたカール・フォン・アミラはこの点について異なった見解を出している。フォン・アミラはキリスト教受容以前のヨーロッパ世界における処刑のあり方を重大な平和の侵害に対する公的処刑と、一般の平和侵害に対する私的(氏族による) 処刑に分け、前者、公的な処刑は犯された平和侵害によってけがされた神への供犠として神聖な性格をもち、後者、私的な処刑は神聖な性格をもたないという。公的な処刑は復讐とは何の関係もなく、また以後の犯罪を防ぐための威嚇とも関係がない。公的な処刑によってゲルマン人の社会は彼らの生活様式から堕落した者をエネルギッシュに除去しようとしたのだという。だから公的な処刑は種族を純粋に維持しようという衝動から生じたものであって、人間の世界だけでなく、動物の世界にも及んでいたという。
• それではゲルマン人において死刑執行の目的は何であったのか、ひとつの例がこの間の事情を示している。盗みの現行犯として捕えられた盗人が自殺したとき、この犯人は生死を問わず証人をたてて絞首の刑を判決される。すでに自殺した犯人の死体が絞首にされるのである。フォン・アミラはこれを、公的な死刑の形式がみたされねばならないからだという。自殺する以前に犯した行為に対して処刑がなされる。これは儀式だから死体に対しても執行されるという。 こうしてキリスト教受容以前のゲルマン社会において、処刑は犯人を死に至らしめるためのものではなく、ひとつの儀式であったことが推察される。
本書の後半では、刑吏に対してなぜ差別的な目線が向けられるか、という点について、中世から近代への時代の移行や社会システムの変遷を一つの理由として挙げている。中世という分権的な社会のまとまりから、国家という集権的なシステムに社会が統合・移行されていく過程で、「暴力」の行使権が国家権力への巻き取られていく。これまで民衆が少しずつ持ち合わせていたものが、国家に吸収され、一元化されていくことへの潜在的な反感が、暴力を国家が専有していくことの象徴としての刑吏に向けられていったという解釈は非常に理解しやすい。
• 民衆は国家権力の具体的顕現としての処刑の執行に対して無意識のなかで激しい反感を抱いていたと考えられる。しかし裁判手続きを経て行なわれる処刑に対しては抗議の声をあげることができなかった。 観衆のなかにはもとより興味本位に、あるいはサディスティックな関心で刑場に来た者も少なくなかったと思われる。しかし刑吏に対する民衆の反感は彼らが国家権力の名のもとに行なわれる流血に潜在意識の底で激しい反撥をよせていたことを示している。この時代の民謡には民衆の英雄となる犯罪者がしばしば登場する。明らかに民衆の認めがたい犯罪のばあいも観衆は受刑者に味方することが多い。特に女性や子どもが処刑されるばあいそれが著しかった。
• 一四~六世紀の都市における刑吏の役割は全くみじめなものであった。裁判に対する民衆の不信が高まっているとき、刑吏は自らの手で無実の者の死を招き、自ら殺人者となる立場におかれたからである。 「彼はまさにその必要性が肯定されねばならない刑法体系の代表であった。しかもその体系がすでに時代に相応しくなくなっていたのに、それを攻撃することはできなかった。それ故に人々は潜在意識の底で刑吏を断罪し」(ゲルンフーバー『処刑と賤視』一六七ページ) 差別し、蔑視したとみられる。いわば刑吏は国家権力による露骨な裁判権の行使に対する、一四~六世紀の人々の不満の捌け口となっていたのである。
• 市民はその生活の重圧と生命の危険との原因がどこから来るのかを理解しえないまま、現実に行なわれている公開処刑で断罪されている受刑者におのが姿をみた。そのとき踝まで血に染まって死体の傍に立っている刑吏を、彼らは身ぶるいをしながら眺めた。彼らは潜在意識のなかで、刑吏に不正な裁判の執行官、国家権力の苛酷な手先をみたのである。しかし彼らは嫌悪の根源的な理由を十分には自覚しえなかったから、自分たちとは肌の合わない何か不気味な存在として日常生活のなかで刑吏との接触をさけようとした。 こうして刑吏に対する市民の嫌悪感は国家権力による公開処刑に対する市民の反感の無意識的表現であったとみることができる。人々は刑吏と道で出会っても顔をそむけ、刑吏の子どもとは遊ばないようにわが子に教え、すべてのツンフトから刑吏の一族を締め出し、結婚式などにも出席させなかった。これほど徹底的に彼らが嫌悪したもの、それは時に教養豊かでユーモアも解した刑吏その人ではなく、刑吏に象徴される権力そのものであった。
最後の文章まで読み、本書の核心的なメッセージがあったように思える。
中世から、現代との地続きである近代への時代が移り変わる際の重要なポイントは、まさに犯罪観の変化であったと言えよう。「かつては犯罪の行為が問題であり、犯罪者の動機などは問題ではなかったのだが、新しい都市法においては犯罪の行為よりも犯罪者の方に注目が向けられたのである。つまり犯罪の責任は個人にあるとみられ、犯罪者は倫理的に評価されることになった。人間は新しい都市空間のなかで互いの絆を合理的に結成してゆき、かつての呪術的・神的世界から解放され、犯罪に対しても呪術による社会の傷の治癒から個人の責任の糾明へと進んでいったのである。」
こうした変化は、民事法と刑法の分岐という法制史上のターニングポイントとみることもできるが、犯罪の責任が個人に帰属するという見方が支配的になった社会において、一つの犯罪が社会全体の問題であるという意識が希薄になっていくという現象も同時に起こる。この指摘は現代社会において強いメッセージ性を持つだろう。中島岳志氏の『テロルの原点 朝日平吾の憂鬱』という本があるが、1920-40年の間に起こった政治家や財閥のトップへの暗殺事件の犯人像を浮かびあがらせるとともに、当時の社会全体の苦しもも映し出すものであった。犯罪において、その犯人を生み出してしまう社会の歪みから目を背けることは、犯罪の再発を助長してしまう。一歩間違えれば、自分がそうであったという一定の共感性が、社会の基礎をなさなければ、根本的な意味での人と人の繋がりは、実現されないように思える。
「犯罪が社会的責任の問題であるということは、ひとつの犯罪が生じたとき、その犯罪に対してその社会の構成員は多かれ少なかれ何らかの責任を負っているということに他ならない。ところが一二・三世紀以後における刑法の展開は犯罪の責任を個人の動機と行為に求め、行為者を断罪して処理する道を開いた。 それはたしかに合理的な審判への道を開くものではあったが、それ以後たとえひとつの社会全体の歪みを一身に背負ったような犯罪者が生じたときでも、その犯罪は本人の動機と行為によって裁かれ、その社会全体を構成する人々は遠くからその裁判を遠望するのみで、自らかかわることは稀となった。ひとつの社会の歪みの表現としての犯罪の犯人はいわばその社会の歪みの犠牲者なのだが、彼は一人でその社会の歪みの全体を背負い、断罪され、刑場の露と消えてしまう。他の人々はこのような報道を目にしても自分とはかかわりのない出来事としてよみ、その日の仕事に埋没してゆく。おそらく潜在意識の底では中世都市の市民も犯罪が自分と無関係ではないことを知っていたが故に、全体を代表して犯人を処刑する刑吏に対しておそれをいだき、そのおそれが蔑視へと澱んでいったのであろう。 現今いくらでもみることのできるこのような光景の源泉は、おそらく一二・三世紀のヨーロッパの都市においてはじまったものであったと考えられる。」
<引用>
• 犯罪についての根本的な考え方の変化がこの間におこっていたのである。そして犯罪とは社会秩序のなかに生きている人間の行為についての判断を意味しているから、それは人間の社会的行為についての考え方の根本的な変化をも意味していた。 かつては犯罪の行為が問題であり、犯罪者の動機などは問題ではなかったのだが、新しい都市法においては犯罪の行為よりも犯罪者の方に注目が向けられたのである。つまり犯罪の責任は個人にあるとみられ、犯罪者は倫理的に評価されることになった。人間は新しい都市空間のなかで互いの絆を合理的に結成してゆき、かつての呪術的・神的世界から解放され、犯罪に対しても呪術による社会の傷の治癒から個人の責任の糾明へと進んでいったのである。共同体の秩序に背く行為を犯した者は今や倫理的律則によって個人として「罰せられる」ようになった。この経過は同時に人間が共同体のなかで個性を自覚せずに暮していた段階から個性を自覚するにいたる自我の覚醒の過程でもあった。人間ははじめて法の前に個人として登場したのである。
• かつて人と人を結ぶ関係の絆は神聖な法であり、犯しがたい権威をもっていた。しかしながら、キリスト教の浸透と都市の擡頭、市民生活の合理化のなかで人間の理性は新しい倫理を生むにいたった。権威よりも理性に基づく議論が重んじられるようになった。人間は善を求めて努力すべき存在とされ、その限りで自分が行なった行為に対しても責任をもつべき存在とされたのである。このような動きは新たに愛をテーマとし、新しい形式を生み出しつつあったトロバドゥールや新しい散文小説などの誕生にもよみとることができる。
• このような傾向のなかで法は一二世紀には民事法と刑法とに分れてゆく。V・アハターによると法におけるこのような分化はまさに哲学における経過と対応するものであったという。
• こうして一二世紀にはじまる「刑法の誕生」は近代社会の萌芽を告げる動きの一端であり、人間の自我、個性の自覚の一つの表現でもあった。人間が主体的存在であることが理解されたとき、当然人間は責任ある主体としてとらえられることになるからである。 紆余曲折を経ながらもここから近代学問への道はつながっている、とみてよいだろう。つまり一二・三世紀以降成立した刑罰観の延長線上にわれわれも生きているのである。このことを考えるとき、同時に無視してはならないのはまさに自我の覚醒、個性の自覚の表現でもあった一二・三世紀における都市法と合理的思考の展開のなかで刑吏が職業として成立し、しかも賤視されていったという事実なのである。
• しかし原理的な問題がひとつのこっていることも忘れてはならないのである。それは犯罪が共同責任であるという考え方が極度に薄れた結果生じたひとつの現象であったということである。 たしかに犯罪が共同責任として意識されていた時代には連座制のように犯人の違法行為の結果が家族や氏族の全員に及ぶという不合理な面があった。夫の罪を妻が償わせられたり、一族の一員の犯した犯罪のために一族全員が断罪されるという事態もしばしばみられた。犯人を主体的人間としてとらえ、個人に犯行の責任をとらせるという近代的刑法の萌芽はこのような悪弊に対して画期的な一歩をふみだしたのである。この点はいくら強調してもしすぎるということはない。 しかしながら多くの犯罪は社会的な行為であって、他の人間や時代環境とは全く無関係な、その個人だけの責任としての犯罪というものも考えにくい。