【感想・ネタバレ】滝山コミューン一九七四のレビュー

あらすじ

郊外の団地の小学校を舞台に、自由で民主的な教育を目指す試みがあった。しかし、ひとりの少年が抱いた違和感の正体は何なのか。「班競争」「代表児童委員会」「林間学校」、逃げ場のない息苦しさが少年を追いつめる。30年の時を経て矛盾と欺瞞の真実を問う渾身のドキュメンタリー。(講談社文庫)

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Posted by ブクログ

団地出身者として興味深く読んだ。

70年代の教育現場の一事例かもしれないが、政治学者の分析によって全体主義的教育実践が論証されている。いわゆるサヨク教育と呼ばれるのかもしれない。

少年の頃の違和感をずっと持ち続けて来た著者の救済にもなっているだろうと思う。

小学校は良かれ悪しかれ担任教員の主義主張が子どもたちの人格形成に与える影響について考えてしまった。

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2025年06月09日

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1974 年私は高校生で、滝山団地のある東久留米の隣の小平市に住んでいた。クラスメートに滝山団地の住民もいた。コミューン教育の存在は知らなかったが、世の中の権力に対抗する姿勢(ストライキなど)は確かに今とはかなり違っていた。

多摩地区では革新勢力は強く、一方で受験戦争も激化していた。ここに書かれている西武線沿線の雰囲気も(今も変わらない所も多いが)そのとおりだと思えて、一気に読んでしまった。

そしていま(2024年10月)NHKでは団地をテーマにしたドラマをBSでやっている。50代が「若手」扱いされる団地。ロケ地は滝山団地らしい。

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2024年10月03日

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p.23 最後 滝山コミューンの定義
p.179 最後 筆者の違和感

どこまでが事実で、どこからが自分の意見なのかということを明確に分けて書いているため、わかりやすい

民主主義という名のもと、教師主体の権威主義が横行していた1974年の滝山団地を切り取り、筆者の問題意識を検証する形で進むノンフィクション。圧倒的な資料をもとに一つ一つ丁寧にその時代を形作っていくプロセスは、研究として素晴らしいと言わざるを得ない。また、過去の事実の中でも特に自己の関心がある部分に焦点を当て、議論を進めることに客観性の欠如があることは認めながらも、まさに当時を生きた自分こそ社会であるとしたスタンスにも共感する。
自分が小学生の頃、このような民主主義という名のもと権威主義は横行していなかったか、もしそうだとしたら自分はそれに違和感を感じていたのか、改めて問いたくなる著書であった。
また、改めて教育とは、生徒と教師だけでない、多くの人々の影響、時代背景を現実へ映すものであると実感した。

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2018年06月21日

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個人的にも暴力機構に関しては敬してこれを遠ざけたいが、「ひのきみwて馬鹿だし」
 とか言ひかねない先生方が、ナチス・ドイツもやったやうな暴力機構補完の儀礼を行ふといふ、すごいものが展開してゐた学校での地獄の生活を振り返る。
 かの鬼のパンツ販売促進歌、も暴力機構補完のために使はれた、と言ふのは、なんつうか。
 最近遠山啓先生の本が本屋さんで売ってたようわぁといふか、当時の教育界で問題があるつうたら遠山先生くらゐなんだよなぁと言ふか。

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2018年05月02日

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理想を目指すのはどのような社会にあっても必要なことなのですが、それが行き過ぎると第三者の眼には奇異に、ときには恐怖すら覚えることがある。また、集団行動は美しさの内に狂気を秘めているように見えることがある。

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2014年01月12日

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 まず、装丁がすばらしい。
カウンターが示す1974とその数字のズレは固まった過去ではなく、つながりと変化の印。むちゃくちゃにセンスがよかったから、アヴァンギャルドな内容を若い研究者が書いているのかと思ってたんですが、読んでみると大学教授が自叙伝的に記す戦後民主主義の話でした。読んでいる途中思わず背中がゾクっとしました。装丁も内容もいいなんてなんてすばらしい本なんでしょう。
 民主主義の裏にある集団思想の影は、ニュータウンにある学校でのとっても局所的な、ある意味奇跡に近いような「優性な世界」。筆者は感情的な拒否しているけど、考えとしては否定も肯定もしていないように思う。僕も同じように思う。肌には絶対合わないけれど、集団を扱う上では成果を出せる主義思想なんだと思う。
民主主義とか大きな話はわからないけど、弱さについてどう向き合うべきなんでしょうか。

とにかくいい買い物でした。

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2013年10月26日

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 著者が生まれ育った東京都東久留米市にある滝山団地にあった、東久留米市立第七小学校(通称「七小」)を舞台に、当時の日本の社会や政治の時代の空気に反映された、著者が「味わった」出来事を綴った本である。
 当時の七小は団地に住む大人や当時の時流だった民主主義的教育を実践する教員たちの思想が如実に児童たちの行動様式に反映されていた。著者曰く、最も民主主義的な学校社会が形成されていた「滝山コミューン」であった。特に全国生活指導研究協議会の「学級集団づくり」による学級(学校)の運営が、団地という言わば閉鎖的なコミュニティと相まって、見事なまでに浸透し、「教育」と呼ばれる思想伝播が個人から集団へ、また学校全体へと波及していく様子が、学校での授業や学校行事を通じて見えてくる。
 そこで見られるのが、当時のある教員から波及した「民主主義的教育」と呼ばれうる〈全体主義〉が生徒に浸透し、著者がその息苦しさに苦しむ様であった。学校の中の社会も、当然ながら学校外の社会状況や社会思想から影響を受けている。著者の個人的な体験からの主観論の部分は確かにあるけれども、学校での〈全体主義〉の浸透で、その鏡ともいえる社会でどのような思想構造があったのかも時代背景を交えて記録されている。特に公立学校は、教育基本法や学校教育法、学習指導要領、自治体の教育目標を踏まえて学校目標が設定されているが故に、教育内容も当時の社会状況とは切っても切り離せない。この点は踏まえるべきだろう。

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2012年06月24日

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中学生の時に体験した悪夢の一端が書かれている本。。時代はだいぶズレてるし、地域も違うんだけど、こういう強烈な集団主義教育の根底にどのような思想があったのかを知ることができた。「ボロ班」とかあったよなあ・・・。

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2012年04月14日

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過去の物語か、今も現場で起きているのか? 「自由で民主的な、生徒が主体となって活動する小学校」での鬱屈した日々を、筆者が振り返る自伝的ノンフィクション。

筆者が小学生時代を過ごした1970年代の滝山・東久留米市立第七小学校では、若く熱意のある教員と、それを支えるPTAによって、全国生活指導研究協議会(全生研)の指導方針を軸とした「民主的教育」が追求された。班単位での生活指導、代表児童委員会による選挙と委員会活動、生徒主体の林間学校...。しかし、その中で連呼される「みんな」という言葉に違和感を抱き続けた筆者は、中学受験塾に自分の精神的基盤を置き、学校を批判する側にまわる。そして30年以上たった今になって、筆者は当時の関係者を尋ねてまわり、あの時あの小学校で何が起きていたのかを振り返って行く。

筆者が振り返る当時の様子は、今の学校現場とはかけ離れているようで、しかしどこか今もどこにでも見られる要素も残っていて、読んでいてうすら寒い思いを抱かせる。

僕は小学校の教員でもないし、勤務校もやや特殊な環境なので、事情がわからないところも多々ある。しかし読んでいて痛感するのは、小学生に対する担任の一時的な影響力は、中高に比べてはるかに強いのだなということ、そして担任の側でも「いい学級」を作ることへの欲望が強いのだなということだ。少なくとも「学級」というシステムが、個々の志向や能力を超えて、生徒や教員をそのようにふるまわせる構図を持っている。そのことに充分に自覚的でなくてはならないだろう。

第七小では、「いい学級」を目標に、日常的な班活動を基盤としつつ、合唱やキャンドルをはじめとした行事の工夫が小道具として配置され、抑圧的な空間が形成されていく。若く魅力的な教員の指導のもと、そのような学級づくりが完璧なまでに機能していくその様子、そして「自由」や「生徒主体」という言葉がどんな中身でも入れられるマジック・ワードとして機能する実例を見られたことは、教員としてとても「勉強」になった。

このストーリーはあくまで筆者の側から語られる一面的な記録にすぎない。当時の教員や生徒たちの思いには充分に踏み込めていないし、公正ではない。第七小の取り組みを評価するには、別の記録を見る必要もあるだろう。

しかし、日本の学校が「学級」という制度のもとで作られ、そこが権力発動の場となる生々しい実例がここにはある。学校空間を相対化し、適度に距離をとってその意味を問い直すためにも、教員は読んでおくといい本だと思う。それだけでなく、その中を生きることを余儀なくされている生徒にもおすすめできる一冊。面白いよ。できれば柳治男「<学級>の歴史学」とあわせて読むとなお面白いかも。

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2011年12月03日

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1974年。西武新宿線沿線の北多摩郡久留米町に開発された滝山団地。総戸数3080戸。開発前に約19600人しかいなかった久留米町の人口は10年後の70年には4倍の78000人となり市制を導入して東久留米市となり、北多摩郡は消滅した。そして著者がこの滝山団地から通ったのが東久留米市立第七小学校である。第七小学校は滝山団地の児童を受け入れ、全校児童の殆どが団地の児童となった。均質化された団地住まいの家庭の児童が大挙して通ったクラスは児童や両親の考え方も均質化していた。先ず始めにP.T.Aの民主化が行われ継いで団塊世代で先日まで学生運動をしていたような新任の教師が赴任して「水道方式」と「学級集団づくり」に基づく新しい教育方法を実践する中で達成されたのが「滝山コミューン」「民主的」という言葉を使いながらその中身は全体主義でソビエトや中国の共産主義の「悪い部分」を抽出したかのような「組織づくり」に著者は困惑と嫌悪を覚え、当時まだ少数派だった私立中学受験たのための学習塾通いに息抜きを見つけようとする。当時から30数年経ってから振り返り、検証する渾身のノンフィクション。

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2011年08月19日

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筆者個人の体験に根ざした半自伝的な一冊。

1970年代、都内の小学校で試みられた「自由で民主的」な教育。

それは個人の自由よりも集団行動を優先させた極端な民主化の姿でもあった。

集団行動に馴染まない筆者を追い詰めていく場の空気感が怖しい。

原センセよりは少しあとの世代ですが、やはり同じような雰囲気が、当時の公立小中学校にはあって、異常なまでに児童、生徒による「自治」が推奨されてたんですよ。生徒総会とか、生徒会選挙の熱狂が凄かった。

ただそれも、一部の先生方による強いられた「自治」だったのだなと、いまとなっては思う。

係を選ぶときに立候補させ「ダメな方」を落選させる消去法選挙。ベルが鳴ったら席に着く「ベル席」の仕組み(座ってないと減点)。非協力的な児童を責め立てて「自己批判」させる謎の空気。

当時はなんだかよくわからなかった「熱狂」の、思想的背景を知る意味で、ものすごく腑に落ちた一冊でした。

集団行動に馴染めなくて疎外されていく、原センセなのですが、鉄道趣味や、中学受験による塾通いで「外の世界」を持っていることが救いとなっていく。

学校や家庭以外に、第三の場所があることの大切さも教えてくれる一冊でした。

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2022年10月08日

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どうして日本人は保守もリベラルもいつのまにか権威主義、異質なものの排除という方向に向かいやすいのか… 戦後史における政治の時代と団地文化を関係付けた論考はとても面白かった。

その一方で筆者も自分で書いてはいるが、「学者が自らの体験をもって語った」という構造上、そこには小さくない歪み、思い込みが織り込まれている。言ってしまえば、「あなたの小学生の記憶、それも学校やクラスメイトに少なくない疎外感、反発を抱いていた状態での主観的な記憶がどれだけ真実性を含むか」という批判である。その点からも、筆者の記憶や日記だけでなく、級友や保護者たちの証言ももう少し欲しいところだった。

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2018年04月15日

Posted by ブクログ

私は著者よりもいくつか年下になるのだが、1970年代が小学生時代
だったのは一緒だ。クラスに班分けもあったし、卒業式では卒業生に
よる「呼びかけ」もあった。しかし、著者が経験したような集団主義
教育ではなかったと思う。

それは居住環境の違いなのかもしれない。住宅不足解消の為にと
東京郊外に作られた団地住民の子供が多い小学校と、東京への通勤
圏として発展しながら、昔ながらの地主さんなどもいたベッドタウンの
小学校。確かに地元にはいわゆるマンモス団地はあったが、学区が
違った。

ひとりの若い教師が担任したクラスで始まったのが、日教組の教師が
多く所属する全国生活指導研究協議会が提唱した集団教育主義で
ある。

そこでは個人は否定され、なによりも班だとか、クラスだとかの集団での
成果の引き上げが大きな目標となる。ソ連式集団教育を日本に根付か
せようとした試みだ。

確かに学校生活は集団生活である。だが、ある集団を競わせることは
当事者には相当なストレスをかけるものではないのか。事実、後年の
著者のインタビューに問題のクラスに所属した女性は小学生であり
ながら、体に変調をきたしていたと告白している。

政治的には保革伯仲の時代だった。だからこそ、ソ連式の集団教育の
実践も可能だったのだろうし、団地という画一化された空間に住んでいた
子供たちが多かったからこそ、受け入れられたのかもしれない。

児童の自主性を尊重するのも結構だが、林間学校も運動会も児童の
代表が組織する実行委員会が取り仕切るってのは、民主的でもなんで
もないんじゃないかと思ってしまったわ。

そして一番怖いと思ったのが、小学生にして他の児童から著者が自己
批判を求められたこと。読みながら「連合赤軍小学生版かよ」と呟いて
しまった。

息が詰まると思う。なんでも競争、なんでも連帯責任、なんでも減点制。
挙句、減点が多いと「ボロ班」とか「ビリ班」と呼ばれるなんて。そりゃ、
嫌だから懸命になるわなぁ。今考えれば集団によるいじめにしか思え
ないけれど。

この集団教育だけではない。子供は教育方法に振り回され続けている
のじゃないかな。詰め込み教育がいけないと言われ、ゆとりをもった
カリキュラムになったら「これだからゆとりは」なんて言われちゃう。

どの世代も、その時々の教育を受けた子供に罪はないと思うのだ
けれどね。

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2017年08月24日

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東京都東久留米市に存在する滝山団地。高度経済成長のさなかの典型的なベッドタウンとして開発された郊外団地の一つであるこの地において、1974年にある教育改革が行われようとしていた。

社会学者の原武史が自らが体験したその教育改革を「滝山コミューン」と名付け、いったいそこで何が行われようとしていたのかを自伝的に語るドキュメンタリー。

大きくこの改革は既存の算数についていけない小学生を対象とする「水道方式」という指導法と、自由で民主的なクラス作りを目的とする「学級集団づくり」という2つで構成される。一見まともなように見えるこの方式が、小学校という極めて閉鎖的な集団の中で変質していき、次第に生徒を追い詰めていく様子が克明に描かれる。この変質は程度の違いこそあれ、中国共産党による「文化大革命」を部分的に想起させるようなグロテスクさを有し、そのグロテスクさを甘美なものとして指導する一部の教師には吐き気すら覚える。

この本が面白いのは、「政治の季節」と呼ばれた1960年代の社会主義的ムーブメントが一見終わったかのように見える1970年代においても、都会から距離のある郊外においては、ごく一部まだ生き残っていたという事実を描きだす点である。その点で、別の観点からの日本戦後史を描きだすことに本書は成功している。

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2016年07月02日

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ネタバレ

本当にこれだけのことを(日記をつけていたにしても)記憶できるものなのか?まずそのことが驚異だが、コミューン体験によほどのこだわりがあるのだろう。著者と自分を少し重ねて小学生時代を追憶した。

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2014年01月13日

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ネタバレ

東久留米市滝山団地にある小学校で、著者が生徒として体験した「集団主義教育」の実践を批判的に描いたドキュメンタリー。1970年代初めは政治的に保革伯仲だった背景を受け、自由で民主的な教育を目指すという名目で左翼的な手法が取り込む運動があったらしい。自分の小学生時代とはかなり異質な教育手法に少々驚き。

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2013年01月27日

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とても近い場所、近い時代の、
小学生だったこともあり、
大変興味深く読みました...。
勿論、
ここまでのことはありませんでしたが...。

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2013年01月22日

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自分かと思うくらいに似たような体験が綴られていて一気に読んでしまった。
著者は団地という特殊性をコミューン形成に結びつけていたようだが、
実際には全生研の影響を受けた教師が牛耳る学校はどこも同じような状況があったのではないかと思う。

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2012年07月22日

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てっきりJ.G.バラードの『ハイ-ライズ』みたいな小説かと思ったられっきとしたルポルタージュだった。まだ序盤だけどかなりおもしろい。殊に自分は西武池袋沿線でこの本の舞台となっているひばりヶ丘もまったく無縁な土地ということもないので、興味深く読んでいる。

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2012年06月02日

Posted by ブクログ

動員された専業主婦って怖いなあ…

郊外論として、ともておもしろく読める。
作者の鉄道愛も端々で感じる。本文の流れではいらないけどw。

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2012年03月24日

Posted by ブクログ

著者の2年年長で、同じ東久留米市(当時は北多摩郡久留米町)の小学校に入学した者として興味深く読んだ。とはいえ、当時、新興の滝山団地ではなく旧市街であったが。その微妙な場所と年次の差か、あるいは学校や担当教員の考えの違いか、はたまた3年生終了時に転校したために、まだ理解できていなかったのか、はわからないが、著書にあるような日教組の「洗脳」なかったように思う。
それにしても著者の記憶の良さと子供ながらの観察眼には感服する。
この時代までの公立学校に侵入してきある種の思想とそうした思想から正反対にある中学受験という行為が縦横の糸となって時代を活写している。

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2012年01月01日

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70年代はじめにある団地と小学校で発生した民主的な教育運動。児童側の当事者として体験した著者が、当時の記憶を掘り起こしながら社会情勢とともに振り返ってゆく。
著者はこれに滝山コミューンと名付けるが、コミューンというほど確固たる共同体が作られたわけでも集団的な運動が展開されたわけでもない。ひとりの教師の積極的な働きかけがあったほかは、時代の空気としか言いようのない漠然とした流れによるものにみえる。しかし、その漠然とした流れこそ、当時の状況をよく表しているように思う。

だからこそ、著者も、ただ滝山コミューンを追うだけでなく、それに軌を同じくする様々な要素を併置していく。それは、革新政党の躍進であり、団地開発による郊外の山の手化であり、四谷大塚に代表される受験戦争であった(特に筆者は西武線沿線に開発された滝山団地という空間を強い執着を持って描出し、それが本書に独特の雰囲気を与えている)。そのような中に位置付けるなら、確かに滝山コミューンと呼べるだろう。

そして、民主的な教育という"美しい物語"のもと、「自らの教育行為そのものが別な形での権威主義をらはらむことになるなどという自覚」の欠如した無邪気な実践が行われた。もちろん、実践が短期的にであれ成功したのは、そうした教育に多くの児童が目を輝かせたからであり、それは著者も否定はしない。

しかし一方で、そうした空気に違和感を持ち権威から逸脱した著者のような児童は疎外されるほかない。あるいは疎外されないまでもその空気に順応することを余儀なくされる。コミュニティの強い同調圧力にたいして、著者は四谷大塚という別のコミュニティを持つことで対抗しえたが、そうでない児童に逃げ場はない。

教科書に乗る歴史的事象ではないが、東京の郊外にある一時期存在したであろう空気とその記憶を、本書は確かに描いている。

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2011年12月27日

Posted by ブクログ

著者とはまったく同い年。同じ時代に区市は違えど都内の小学校に通っていた。ここまでの教育活動が試みられていたとは本当に驚いた。確かに、今の学校現場に比べるとかなり違うと思う。私の場合、君が代も日の丸も覚えていないが、卒業式の呼びかけはあった。証書授与は壇上ではなく、自席で受け取った記憶がある。学芸会の劇は自分たちで分担してシナリオを書き、大道具作りにも時間をかけた。それでいて、学習指導要領上の授業時数は今よりも多かった。一体いつ勉強していたのだろう、それは思い出せない。本書のような極端な例はあまりないのかも知れないが、全国のあちらこちらでこれに近いことがきっと行われていたのだろう。「一人の手」や「わんぱくマーチ」はこれを読むとちょっと歌えなくなりそう。

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2011年08月03日

Posted by ブクログ

東久留米市の団地、小学校を舞台に展開された
組織運営の中で生活を送った著者による
ドキュメント。

とても興味深い内容だが、ちょっと読み辛かった。
一部ではあれ、こんな事があったとは全然知らなかった。

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2021年06月19日

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思い起こせば、どの学年かははっきりしないが小学校ときに、班競争で点数を競っていた気がする。班だと負けるから「あいつは班に入れたくない」というような言葉ももおぼえている。
ボロ班、ビリ班には覚えがないが、集団責任はよく聞いた。
軍国主義から脱却したはずが、個を抑圧する集団主義に陥っているという皮肉に、改めて公教育の怖さを感じた。

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2016年02月22日

Posted by ブクログ

2013.2.5〜3.18
やっと読みおわった。新聞の書評をみて読もうと思ったのだが、書評の何に惹かれて読もうと思ったのだろうか...。でも、教育のあり方や扇動のされ方とかは興味深かった。

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2013年03月18日

Posted by ブクログ

タイトルと装丁に魅かれたのと「文科系トークラジオLife」で紹介されていたのを微かに記憶しており、読んでみた。
読んでみて、タイトルから想像したほどの大仰な集団が組織されたわけではないし、その集団が社会に強烈な影響を与えたというような物語があったわけでもなかったので、少し拍子抜けした。ただ当時の全生研が推し進めた「学級集団づくり」が排除の倫理に基づく危険な思想をベースに実践されていたことには素直に驚いた。また「追求」と称して体制に反する者に自己批判を要求する行為を小学生が自発的に行っていた事実は、イデオロギーを強制的に押し付ける教育の怖ろしさを痛感した。
「学級集団づくり」の一つの要素であった「班競争」は現在流行しているゲーミフィケーションの問題点も提起していると思う。滝山コミューンの行った集団主義教育に対して批判的な立場で書かれた本ではあるが、その全てを否定するものではなく現在の教育がまた別の危険な思想を根底に持っている可能性があることも考えさせられる。
教育関係者には現在の教育の位置を確認するためにも、ぜひ一度手にとってもらいたい一冊。

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2012年09月06日

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小学生という、無垢の子たちだからこそ、全体主義に組織化され、自分という主語ではなく、みんなという主語を持った時起こる出来事。
それは歳など関係なく、ある意味の恐怖を抱かずにいられない。
そして、それを正しい事だと組織化しようとする大人。
その矛盾に気づく幼少時代の筆者。

小学校の中心的な児童にとっては、筆者はつれないやつと思われただろう。
筆者にとっては、中心的な児童は踊らされて躍起になっている馬鹿なやつ。
そんな両方の認識は今の子ども達にも通ずるとこもある。
どちらにも考えがあり、間違ってはいないと。

団地、集団主義。自分の育った環境にはあまりなかった言葉たち。
前半に比重がおかれている団地にまつわる都市論としても楽しめた。

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2012年02月25日

Posted by ブクログ

途中まで、非常に薄気味悪く、こんなに革新勢力が初等教育に食い込んでいたことに驚いたが、自分の小学校時代も非常に近いことをしたりさせられたりしたことが思い起こされた。

その時も違和感は感じていたものの、自分の意識のうちのわずかしか学校に向いていなかったからか、この筆者ほどの違和感を覚えることはなかった。ただ、当時考え方が全く理解できなかった特定の教師の、思想的背景がよく理解できた。

とにかく、自分の身近に革新勢力が迫って来ていたことに愕然とした。呑み込まれなくて済んでよかった。

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2011年06月16日

Posted by ブクログ

ずっと文庫になるのを待っていたのですよ。学校というところに対する違和感をずーっと持ち続けてきた私にとって、この本は本当に待ち遠しかった。私自身はここまでの体験はしていないけど、教師同士が競い合うように”すばらしい”クラスづくりをしていた小学校時代を思い出しました。まあ、彼らも一所懸命だったんだろうけどさあ。

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2011年08月06日

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