あらすじ
奇妙でユーモア溢れるアメリカ旅行記「走れトマホーク」。身辺私小説仕立ての「埋まる谷間」「ソウタと犬と」。中国の怪異小説家に材を取る「聊斎私異」など多彩な題材と設定で構成されながら、一貫する微妙な諧調――漂泊者の哀しみ、えたいの知れない空白感。短篇の名手の円熟した手腕が光る読売文学賞受賞作。表題作を含む9篇を収録。
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Posted by ブクログ
安岡章太郎の73年の短編集を読む。一編目の「瀑布」、カナダ、トロント滞在中にナイアガラの滝、そしてある不用意な一言をきっかけにアメリカ、バッファローのインディアン・リザベーションに日系二世の牧師を訪ねることになる話。
ただそこにいて好きなことをしていれば良いと言われた二ヶ月半に感じる何かを喪失したような「空白感」を持ちながらも、そこにいる事で感じ気づき、固定観念や偏見も解きほぐされる体験をしていく。
「大体、フォールを滝と訳すことが間違っているのではないか?滝というからには、竜という超自然的な神格化された生きもののイメージがある。」「しかも翻訳されれば、“滝”の生命はフォールの中に香みこまれる他はないであろう。」
泉鏡花の描いた滝の白糸から、言葉の表す、表せるもの、あるいは翻訳する事で失われてしまうものを思う。そして「この大陸ではほとんど抹殺されかかっている先住民族の言葉の運命を無意識に思い浮かべ」る。
しかしナイアガラの滝に対峙すればそれに魅せられ、それまでは関心の遠くにあったインディアンの現実や、”白人“としか見えない彼らに出会うことでイメージも裏切られる。
これは「ゼアゼア」から「コヨーテ読書」を読んだあとに出会うにはちょっと完璧かもしれない、と思ってしまうような短編小説だった。
続く表題作の『走れトマホーク』は「アメリカ西部の山岳と贖原地帯を団体旅行」したときを描いた一編。『瀑布』の姉妹編というかその続きとして読んでいたこの話も“外に”出る事でする、せざる得ない体験と思索の話だ。
トマホークという元はインディアンの言葉を名前に持つ馬にしがみつきアメリカ西部の山岳と贖原地帯を目的地も知らされず歩き回りながら考える、人生における移動について。
「まるで自分の意志とは無縁なところへ連れられて行くおもいで、それは兵隊が移動させられるときによく似ていた」「自己の意志とは無関係に動かされることが、それほど不本意ではない、というより、むしろそのことに一種の放心状態に似た奇妙な安らぎを覚えるのだ。」
移動、移住を繰り返し見知らぬ土地を転々とすることで「私はその場をその場をゴマかしてすごすことを覚えた」幼少期の記憶。それは繰り返されるモラトリアムなのかもしれない。そして今馬に跨っている自分に同年代に戦地を転々とした父親を重ね合わせ、彼のことを思い、ここでもイメージはまた覆される。“外”へ出る事で至ことが出来るものは、たしかにあるのだと思う。
安岡章太郎は移動し続けること、“ただしい道“から外れてしまうことで、“外”からの視線を持ち続けた小説家だ。そんなことを考えはじめる。職業軍人だった父親に付いて短期間での引っ越し、移動を繰り返した幼少期。受験に失敗し続け、徴兵後には病気による強制ドロップアウトした青年期。常にそこを去ることが決められた他所者であり、“ただしい道”から外れてしまったという自覚を持ったアウトサイダーの視点があるのだと思う。
そして家を買い定住し作家として社会的なある意味“ただしい”立場に置かれた戦後以降には、積極的に海外に出ることで“外”から日本をみる、あるいは現地でのアウトサイダーになり、その視点を得ようとする。
それらの旅は帰ることを前提とした「日常の生活の責任から完全に逃げ出せるとは考えていない」けれど「無責任に自分の居場所を抜け出るという」ある種のモラトリアム期間でもあって。この2篇でも彼のモラトリアムは続くけれど、ナイアガラ、リザベーションを共に訪れた人物は、そこでの経験から大きな決断をし、トマホークは厩舎へ向かう「ホームストレッチ」を疾走する。“私”はまた取り残される。それらはわたしが彼の短編小説からいつも読み取る、読み取ってしまうテーマなのだった。
幾つかの短編を挟んで最後に収録されているのは先日読んだ短編集『質屋の女房』の最後に収録されていた父親との関係を描いた2篇の更にその後、継母と老犬を間に置いた最晩年の父親との関係。ここにはひとつのモラトリアムーそれは子であることかもしれないーの終わりがあった。ここでの“私”は死によって取り残される。『生前の父と本当の意味で素直に語り合うことの出来なかった自分自身に対するイラ立たしさや、慙愧の念といったものが作品の背後に流れている』とわたしも思った。そのイラ立ち、後悔はわたしにもある、と改めて思い知る。ここにはもうモラトリアムはなく、取り返しがつかないことだけれど、それを小説に書くこと、読むことには意味がある、と思いたい。わたしはイラ立ち、後悔する他に何が出来るだろうか。なにも出来ないのだろうか。何かは残しておきたい、とは思う。
「自己露出とは、一味も二味も違う抑制と客観化」された安岡章太郎の小説は本当に凄いと思う、と同時にわたしに主体化を促してもくる煩わしさも感じる。しかし、それが“素晴らしい”読書なのだとも思う。前半とうまく噛み合ってない散らばった文章を書いている、とも思いながら、一旦ひとつ納得と感動のため息をつき、また彼のことを考えはじめることになるのだった。