あらすじ
わかり合えない他者を、敵にしないために。
分断が極まり、「正しさ」がSNSでぶつかり合う社会で、私たちは他者といかに語り合えるか。アメリカの哲学者リチャード・ローティは、共通の基盤なき世界でそれでも人が共に生きる可能性を問い続けた。その哲学から、分極化の時代を生きるための知的作法を鮮やかに引き出す。大好評だった『100分de名著 リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』』テキストを大幅改稿。死後に注目された「予言」や主著以外の発言にも光を当て、その思想の先進性をいま問いなおす。著者初の新書!
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Posted by ブクログ
とても面白かった。
トランプ現象の予言をしたということで再評価されたリチャードローティというアメリカの哲学者の考えを紐解いてくれる1冊。
柔らかい語り口で丁寧に説明されるので、難しいところもありつつ、とても面白く読んだ。
本質や普遍性に裏付けされた何かを求めるのではなく連帯を、という話では、人権が人間の普遍的な価値、としてしまうと、相手を人間と見做さない場合には人権がある存在として認めない、という現象につながりえるので、残酷な行為が行われることの予防線にはならない、というような指摘で、確かになぁ、と思った。人権は大事な人類の発明、概念だけれど、人権侵害だ!というときに、なんだかあまり有効な手ではないようにいつも感じていた。相手が人権など理解してないからやってきているわけで、それを言ったところで伝わらない、という虚しさ。
残酷さへの感性を磨きそれをブレーキとして働かせるために、頭で人権があるから、と考えるのではなく、小説やエスノグラフィーなど「正しくなさ」を内側から描いたものにふれ、他者と自分を近づけることを勧めている。
この部分では何年か前に読んだ「テヘランでロリータを読む」で、遠い国だと感じていたイランの女性たちが読み終わった途端、身近な存在、女性として(頭では知っていたけれど)本当に「感じられた」という強烈な経験を思い出した。
エスノグラフィーでは沖縄の女の子とたちのルポ「裸足で逃げる」で同じような感覚を得た経験があるので、本当にそうだよなぁ、と納得すると同時に、そのようなものに触れる努力や機会を持たない人には広がりにくい、という難しさもあると思う。
アイデンティティポリティクス、という言葉も最近ネガティブなニュアンスで使われれることが多いけれど、実際にはきちんと理解できていなかったことが整理されてとても良かった。
アイデンティティポリティクスのみで押し続けると、マジョリティにその論理を反転して利用されてしまうよ、そうすると激しいバックラッシュで議論どころじゃなくなるという警告で、これはアメリカのヴァンス副大統領が書いた「Hillbilly Elegy」を読んだ後の複雑な後味の悪さを思い出させた。
断言せず、文脈を丁寧に示しながらの解説で、わかりやすいのだけれど、付箋を貼ったところだけ読んでも内容が思い出せず、かなり前後を読み直して文脈を理解しないと内容が入ってこない本で、人とのコミュニケーションとは本来そうなんだよな、ということがそのまま実践されているような書き振りの、良い本だった。
Posted by ブクログ
感想。
なかなかおもしろかった。
リチャード・ローティは、アンチ哲学の哲学者である。それゆえ、哲学そのものを疑う言葉が多く紹介される。なかでも、あまりに残酷な現実に対して「いまは哲学の出番ではない」とまで考えるのはすごい。
あとは、ボキャブラリーすなわち「ことばづかい」が受肉したものがわたしたち自身である、との考えも、なんとなくそんな気がするけど、そこまで言い切られると、なんか凄みがある。
しかし、こりゃすげぇやと興奮するような本ではないか。あくまでも入門書的な内容なので、おそらくローティ自身の本を読まないといけないのだろう。
とはいえ、本書でいろいろ紹介されるローティ本人の文章の、なんと分かりにくいことか。哲学者、思想家の文章って、本当にまだるっこしい。もうちょっと分かりやすく書こうとしてもバチは当たらんと思うけど、あかんのか。
以下は単なる読書メモ。
p51
「リベラルなユートピア」
リベラルなユートピアの市民には「自己の偶然性」を、認識することが必要。自分が相手に影響されたり、相手が自分に影響されて、変化していく可能性があること。お互いを改定されることに対して開きながら、どうにかして時には手を携える。
本質など持たない互いに偶然的な存在であるからこそ、連帯できる。
社会正義として残酷さを最小化することと、私的な自己創造を追求することを両立するリベラル・アイロニストが希望する社会のあり方。
p54
「ロマンティックアイロニー」
18〜19世紀、ドイツ・ロマン派の批評家シュレーゲルらが用いた言葉。芸術家が自らの作品を高みから見下ろし、反省し、さらなる創造につなげていく態度。常に別様な表現がありうるのではないかと自らを疑い、それによって次の創造の可能性を開く。
p57
『アイロニーの対極にあるのは常識(コモンセンス)である』
自分の考えは人間としての常識だから自分は正しい、と考える人はアイロニストの対局にあると言える。
p64
公共的なものと私的なものは統一すべきでないが、しかし統一すべきでないものとして一人の人間のなかに同時に存在しうる。
p134
アイデンティティ・ポリティクスは、「このつらさはお前にはわかるまい」といったことに繋がり、会話をストップさせてしまう危険がある。
ただしこの話法に訴えざるを得ないマイノリティ当事者が悪いわけでもない。
p163
道徳とは、たまたま生きているこの集団における常識でしかない。考えた先にあるものでもない。特定の集団における習慣的な実践にすぎない。
非道徳な行いというのは、「われわれならやらないこと」でしかない。
p165
自らのマジョリティ性に向き合い、それゆえの責任を真摯に引き受けることが、ローティ哲学の美点の最たるものである。
p166
哲学は原則として民主主義に道を譲らねばならない。世界の残酷さをなんとか最小化しようというときこそ、「いまは哲学の出番ではない」。
p170
リベラルとは本来むしろ、「わたしたちの正しさにともなう攻撃性に向き合い、できるだけ抑制的であるように努め、それを自らに課す態度」なのだ。
p172
ジョン・ロールズ(1921-2002)は、
「正義(justice)」と「善(the good)」を区別した。
ロールズにおける正義とは、競合しうる善の構想どうしを調停し、合意に至った状態にといて実現するものであり。そのための一連の手続きである。
公共的なバザールにおける諸手続きが正義。
私的なクラブで共有さらるものが善。
p178
リベラルを自認する者たちは自分たちの側に無謬の正しさを前提としており、現実の正しくなさを見出しては一方的に糾弾し、裁く権利を有しているかのような傲慢なふるまいをしている。