あらすじ
わかり合えない他者を、敵にしないために。
分断が極まり、「正しさ」がSNSでぶつかり合う社会で、私たちは他者といかに語り合えるか。アメリカの哲学者リチャード・ローティは、共通の基盤なき世界でそれでも人が共に生きる可能性を問い続けた。その哲学から、分極化の時代を生きるための知的作法を鮮やかに引き出す。大好評だった『100分de名著 リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』』テキストを大幅改稿。死後に注目された「予言」や主著以外の発言にも光を当て、その思想の先進性をいま問いなおす。著者初の新書!
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Posted by ブクログ
めちゃくちゃ良かった。真理や本質といったものはなく、文化も個人も偶然の産物に過ぎない、という主張はすごくしっくりくるし、好みでもある。それを認識することでこそ手を取り合う事ができる、というのも素敵。そう思うと、個々人がフラットというか、一つの尺度で優劣がつけられる存在ではないという感覚が自然と湧いてくる。
この本を通して価値観が再記述されたと思うし、その過程は楽しかった。今後も自分の価値観を改訂に開き、再記述し続けるためにも、どんどん本(特に哲学書)を読んでいきたいと感じた。
丁寧で謙虚な語り口も好み。長過ぎないのも読みやすかった。5章はちょっと難しかった。
メタ(?)なところで行くと、今後自分が、「唯一の正しさ」を信奉している人に対して否定的になってしまいそう。そういう人も一つの「偶然の産物」として見られると良いが。
Posted by ブクログ
世界が混迷を極め、先行きが見通せない世界が目の前にある。世界全体が、戦争を推し進めていく方向に進んでいるような気がする。停戦の合意を掲げながら、攻撃をしている。停戦を呼びかけても、意地でも戦争を続けている。力による現状変更を断行し、民間人の虐殺を伴う大規模な武力行使が続いている。それを世界の右傾化というべき時代かもしれない。世界は戦時下にある。そこにある分断と立場によって正しさが違っている。今の時代をどう見るのか?
ちょうど、そのどうしようもない時代の問題意識に、フォーカスした本があった。
そのバラバラな世界で、どう生きるのか?SNSで、世界は繋がっているのに、全く相容れないような対立があり、何を事実とみなすかという基準さえ、一致できなくなってきている。
「国民の総意」なるものが、共通の軸や極そのものが不明になり、言ったもん勝ちの状況にある。
アメリカの共和党支持者(保守、右派)と民主党支持者(リベラル、左派)という両極の間での分断が進み、対立が深まっている。トランプの強引なベネズエラ大統領逮捕、ホメイニ暗殺など好戦的で、自らの暗殺計画には怯えるというチキンハート的口撃。分断を煽ることで、自らの支持を集めようとする。ポリティカルコネクトネス(政治的正しさ)を振り翳して、分断を推し進めている。正しさを武器とする。そして、リベラルを徹底的に攻撃する。
第2次世界大戦以後の新たな世界秩序は、自由主義(リベラリズム)と民主主義という二つの理念、そしてそれらに根差した資本主義経済を体現したのがアメリカだった。アメリカは世界をリードした覇権国家だった、自国と自陣営の都合を圧倒的な武力によって諸外国に押し付けてきた超大国だった。そして、アメリカの凋落が誰の目にも明らかになり、バラバラに分断し、むき出しの力の存在感が高まる世界になってきている。バラバラなままで、一緒に生きていかねばならないという、現実に生きている。
なぜ、バラバラな世界に生きていかなければならないのか?
「個々の正しさ」の衝突が生まれる。かつて社会を一つに繋ぎ止めていた宗教や、国家・科学といった共通の大きな物語(絶対的な正しさの基盤)が機能しなった。基盤を失った結果、誰もが自分なりの正義やアイデンティティを掲げるようになる。特にSNSの普及は、似た者同士の意見を増幅させる一方で、異なる価値観を持つ他者を「敵」とみなして攻撃し合う〈正しさ〉の凶器化を加速させた。世界がバラバラになったのは、多様性が進んだからだけでなく、それぞれが自分の正しさで他者を殴り合うようになったためだ。
著者はいう「客観性や必然性、そして真理といった絶対的に確かな正しさはどこにもないとしても、私たちは正しさ、それ自体を諦める必要はない。」
著者は、リチャード・ローティの哲学を解説する。ローティは「アンチ哲学(反・伝統的哲学)」の旗手であり、同時に「対話(カンバセーション)の擁護者」として位置づけられている。
ある意味では、ローティは、トランプの出現を予言していたともいわれる。
西洋哲学は長い間、「客観的な真理」や「人間を超えた普遍的な正しさ」を追い求めてきた。ローティはこれを「自然の鏡(世界をありのままに映し出す鏡)」としての哲学にすぎないと批判し、そのような絶対的な基盤は存在しないと考えた。ローティはアメリカ独自の思想であるプラグマティズムを受け継ぎ、哲学を「真理の探究」ではなく、人々がよく生きるための「終わりなき会話」へと引き戻そうとした。
ローティは、 哲学の本質は、正解を出すことではなく、わかり合えない他者と「言葉を交わし続けること」になる。その対話を拒絶することは、バラバラな世界を固定するしかない。世界がバラバラになった時代において、哲学の役割は「何が正しいかを判定する基準」から「対話を途切れさせないための触媒」へと変化することになる。
ローティは、真理というべき正しさを追求することから、わかり合えない他者と「言葉を交わし続けること」という。そして、その解決する道は、というかワードは、連帯だという。 本書で強調されるのは、正しさの共有ではなく「他者の残虐さや苦しみに対する想像力」だという。「あの人も自分と同じように傷つく存在だ」という感覚を、言葉や文学、ジャーナリズムを通じて「われわれ」の範囲を広げるように拡張していくこと、それがローティの連帯の本質なのだ。
痛み、苦しみ、そして孤立の中で、共感力を呼び起こし、感受性を豊かにして、相手への共感、その力が、連帯だという。論破や排除が横行する現代において、会話を拒絶すれば残るのは暴力であり、
非‐人間化だ。人間は「誤りうるバラバラな存在」だからこそ、それでも共に生きていくために、意図的に「連帯」を作り出さなければ社会が崩壊してしまうという危機感を持つべきだという。
ローティの思想は「対話を開き続けよう」と呼びかけるが、これは「対話のルール」を重んじるリベラルな知識人層の理想論にすぎないのではないか、という批判がある。すでに聞く耳を持たず、他者を徹底的に排除しようとするマジョリティや極端な勢力に対して、「言葉づかいに気をつけよう」「会話を続けよう」と諭すことが本当に有効な抑止力になり得るのかという現実的な課題がある。
トランプの考えを改めることはできず、トランプに大統領を辞めさせることしか道はないようにも思える。トランプに連帯はできない。ローティは生前(1990年代末)、現代のポピュリズムやトランプ現象のような「強い指導者を求める大衆の分断」を予言していたことで知られている。
「揺るがない共通の足場など持たない、ばらばらで誤りうる私たちが、それでもどうにか共に生きていかなければならない、という端的な事実に向き合うこと」でしか、救いの道はないのだろうか。
ローティの目指した哲学、対話し続ける。会話し続けるという姿勢こそが、哲学のあり方だという提示は、避け難いバラバラの世界を繋ぎ止める一つの回答かもしれない。力の論理、そして力の増強と準備では、解決しないということだけは、ローティの正しさとも言える。
Posted by ブクログ
哲学者ローティの歩みをたどりながら、「言葉」について考える一冊。
ルワンダでのジェノサイドから分かるように、言葉、語彙、ことばづかいというものが人の命を奪うことがありうること。
本質主義に囚われる限り、人権の概念すら「われわれ」と「やつら」を線引きし、攻撃してよいという正当化に繋がってしまうこと。
一方で人は自分や自分が使う言葉、自分を表す言葉(終局の語彙)には可塑性があり、常によりましな方に向かっていくことができること。
共感や感情を育む、それらに訴えるという意味で文学や報道の役割が決して小さくないこと。
対話というより、非言語コミュニケーションも含めた、会話を諦めないこと。
アイデンティティポリティクスの副作用についても触れつつ、よくある安易なリベラル批判にとどまらず、叫びをあげるまで耳を傾けることをしなかったマジョリティ構造について言及しているのが良かった。
様々な思想による分断の溝がますます深くなっているように感じられる世の中での自分の在り方を考えるのにとても良い一冊で、また折に触れて読み直したい。
Posted by ブクログ
「分極化」「対立」が起こっているこの社会において、どのような態度で考えるべきかを、リチャード・ローティの哲学に沿いながら示唆してくれる一冊。
新書なのだが、結果的には、前に読んだ「〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす」がコンパクトになったバージョン(その分、正義と善構想のあたりの議論が省かれていて、逆に読みにくかったかもしれない。)。
この本で徹底的に問われているのが
「残酷さを避けること」
「そのために会話をすること」
複雑になってしまったこんな社会の中では、もはや何か一つの「善構想」に対して一致はできないのは自明だし、そもそも社会というものは何かの「善構想」で一致するようにはできていない。
だったら、みんなが避けるべきことを避ける、残酷さを避けるために「何とかやっていくしかない」というのが現実。
マイノリティの掲げるアイデンティティポリティクスは、批判を浴びている。(勿論、マイノリティがこうした方法でしか意見を訴えることしかできない状況に追い込むべきではなかったのは大前提。)
それは誰もが当事者であるべき政治の世界で、「会話」を断つ主張だから。マジョリティが黙らせられてしまうから。
⇒だからこそ我々は、「会話」をすべきなのである。
何かに向けて正義を一致させるために戦うのでなく、互いの人間関係に対するバランス感覚を身に着けながら会話をすべきなのである。
この主張と合わせて、ローティの9.11に対するアメリカのテロ戦争の消極的肯定の理由も述べられている。そもそも、道徳とは特定の集団で偶然一致した習慣的実践に過ぎず、マジョリティがそのように育ってきて、現在やろうとしていること。だからこそ、我々はマジョリティとしての責任をまず果たさなければならない。
→要するに、キレイごとを言わずに現実に向き合え、現実と向き合って、そこで起こっている残酷さを避けるために自分の責任を果たせ、ということである。
わが身を顧みてみると、確かにインターネット上の対立に腹が立つが、じゃあその主張をしている人たちと、「会話」はしてもないし、できない。彼らと折り合ったことがあるのか、と言われると、折り合おうとしたこともない。
そう考えると、我々にかけているのは、「まともな人間関係のバランス」なんだと思う。「まともな人間関係」だったら、目の前の人となんとかやっていくために、相手が嫌なこと、自分が嫌なことを避けつつ、何とか折り合える地点をさがしながら、何とか一緒に生活していくことになるだろう。そうしたバランス感覚がかけた状態を常に見せられているからこそ、こんなにも息苦しい。
まあ、そうなるのだったら、一番楽なのは、自分の見える範囲だけ、自分の接する範囲の人たちだけで、何とかやり合って折り合って生きていくことなんだと思う(=私的なクラブに閉じこもる。)。
ただ、そうして生きている中で場外から、今まであんたがのうのうと生きてきたから、我々マイノリティが不利を被ってきたんだ、という言葉を浴びせられることもあるだろう(=公共のバザールに引っ張りだされる。)。
結局のところ、我々はいやおうなしに公共のバザールに引っ張りだされるのだから、そこでは折り合いを探りつつ、私的なクラブで一息を付く、そうしたバランス感覚を持ちながら生きることが、この世界で「やっていく」ために必要なことなんだろう。
ただ、Xは絶対にやめた方がいい。やめてから心の平穏が幾分か訪れました。
Posted by ブクログ
組織で賃金労働者やってると、すごく既視感のある話題だな〜と思う。社会の中での人文知の実装をとても丁寧にやっているな印象。素晴らしい。
一つの用語をどこまで抽象度を上げて話すか?ということだけでもイデオロジカルな話だし。また、バザールとクラブの話も身に覚えのある人は多いのではないかと思う。親しい人の前では建前を取り払って語りたいものだからね。
Posted by ブクログ
「私たち」という言葉づかいには、常に逡巡をともないます。そこには誰が含まれて、誰が含まれていないのだろう。最近そんな事をよく考えます。
本書を友人に薦める際、ポイントにしている事があります。「正しさ」で殴り合っている渦中の人には届かないとしても、「殴り合っていたかも…?」と顔が浮かんだ人には薦めようと。後者は案外周りにたくさんいます。私たちの周りはそれらでしか成り立っていないのです。
「どうせ」「やっぱり」と、シニカルで諦念に満ちた言葉を使う前に、彼ら彼女たちがどうしてその言葉づかいを獲得し捻り出したのか、思い浮かべながら会話を楽しみたい。自分の底に本書を置き、バランスを取るための支えにできると良いなと思いました。
話し方や言語化のハウツーは世の中に溢れすぎていて辟易しますが、言葉はつかさどると同時に手放し、人へ委ねるものです。その逆も然り。
私にとって、言葉づかいは回路そのものなのだと本書を通して考え直しました。自らの改訂と、再記述に耐えうるこれからの私たちのために、広く長く読まれる本であってほしいと願います。
Posted by ブクログ
ずっと「中庸」でありたいと思っていた自分にとって、とても頷ける理論ばかりで読んでよかった。
ローティの哲学についてもっと知りたいと思った。
思想を知ったところですぐに実践に移すのは難しいし、それで社会が直ちに変わるわけでもないと思うが、それでも少しだけ今の社会への希望を捨てずにいさせてくれる本。
Posted by ブクログ
100分de名著では理解しづらかったことが分かったような気がした、特に4章の連帯の章についてはいろいろ考えた。それぞれ個別の被害、残酷さの中の当事者にあるものたちがなぜ孤立してしまうのかあるいは時には対立してしまうのかということを考えた。
Posted by ブクログ
ローティの思想には初めて触れたが、
非常に面白かった。
自分の言っていることが100%正義で普遍的だと思っている哲学者に比べたらよっぽどまとも。
可愛らしいカバーに惹かれて手に取ったがかなりガッツリ哲学書でした。
Posted by ブクログ
著者が出演しているYouTubeを見て、関心があったので読んでみましたが、自分の中に、新たな視点を与えてくれる、とてもいい本でした❗️
哲学は、なにか真理となる回答があると思い、その回答を探求する学問でしたが、回答が一つになったとき、会話は終わる。必要なのは会話を続けることではないか?といった内容でしたが、私には、なかなか全部は理解できなかった感じがしています…
Posted by ブクログ
「アンチ哲学」の哲学者ローティから学ぶ「バラバラな世界で共に生きる」を読んだ。以下自分のために抜粋と要約。
共通の足場などないバラバラで誤りうる私たちが出来ることは、どうにか共に生きていかなければいけない、という事実に向き合うこと。
なんの根拠も保証もないが相手のことばに自分を委ねたり、時には手を携えたり、せめてお互いに降りかかる苦しみや痛みについて、それがとりのぞかれるよう願えること──それをローティは「連帯」と呼んだ。
必要なことは「自己の偶然性」の認識。自分が相手に影響されたり、相手が自分に影響されたりする可能性があると認識する。つまり、それぞれが変わりうる存在であり、必然に固執するのではなく偶然に開かれていることを確認する。そうやってお互いを改訂されることに対して開きながら、どうにかして時には手を携える。そこに、連帯の可能性や必要性が生まれくるのだとローティは言う。
バラバラな私たちは、だからこそお互いが必要で、そしてそのためにはそれぞれに異なる〈正しさ〉を踏まえて、それでもいっしょにやっていけるような仕組みと、そして個々人として都度のふるまいを考えていかなければならない。それは、どこまでも終わることのない営為だ。
「リベラル」であるとは、そうした道なき道を一歩一歩たしかめながら歩もうとすること。その道を行く以上、絶対的な〈正しさ〉をわがものとして他者を裁くことはできない。むしろ自身や「われわれ」に向けられる、心地よいばかりではない反省とことばづかいの改訂をしていかねばならない。
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分断の時代といわれる昨今、何でもかんでも二項対立したがるから、政治的にも右とか左とか、経済的にも貧とか富とか、メディアも対立を煽って話題づくりするから世の中ギスギスしてきますね。じゃあ、どのように考えればうまく生きられるのか、というのがアメリカの哲学者リチャード・ローティが考えたことであり、その解説書が出ていたので読んでみた。
ローティは脱哲学を考えた人で、真理や本質を見つけることではなく、より現実的でより実際的な対応を考えた。個人個人が違うことを考えているのは当然だ。しかしそれを各自が主張したら喧嘩になる。相手を言い負かして黙らせるのは愚策だ。
個人が私的に考えていることは「偶然性」から生まれる。それが正義な訳ではなく個人的に都合が良いのは偶々そういう環境に生きてるからに過ぎない。他の立場であれば他の考えを持つはずだ。つまり偶然なのだ。
そして公と私の二つの顔がある。公では公の人として振舞う。私では個人的な考えを持っていても、公ではそれを出さないことが大事。当たり前だ。公私が同じだと裏表がなくて良いかのようなことを言う人もいるが、良いはずがない。SNSを私の場と勘違いして余計なこと言って炎上する人もいる。それは悪い例だ。だから公では社会のルールを守る言動をする。私では家族や親友とはリラックスして個人的意見を言う。
その意見は当然ながら人によって違う。自分の意見を公私使い分けて発信しながらも、常に俯瞰してみて他人の意見など聞きながらそれを表現する言葉づかいを見直したり、考え直したりすることが必要だ。それが「アイロニー」な態度。
相手とは対話や議論ではなく会話を通じて「連帯」していく。それが社会を大切にし仲間と繋がっていく態度となる。
分断の世界では、われわれとやつらという区分けをしたがりますが、われわれを細かく細かく分けていくのではなく、逆に拡張させていく必要があるんです。地球防衛軍のように全人類がひとつとなって、いや「プロジェクト・ヘイル・メアリー」のように異星人とも「われわれ」で繋がって連帯したら楽しそうですね。
Posted by ブクログ
公共的なものと私的なものは統一すべきでないが、しかし統一すべきでないものとして1人の人間の中に同時に存在うる。
ことばの選び方は人間や社会にとって決定的に重要である。
アイデンティティに訴える「ことばづかい」が、論法として相手を黙らせ、会話を止めるものになるという点については、マイノリティ当事者が悪いのではなく、そのような状況に追い込むのは、いつだって会話の主導権を握っているマジョリティ側である。
会話を通じて「ことばづかい」を考える。相手を尊重できる表現が、多様化社会に対応していける一つの方法である。
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ゆる言語学ラジオで「バザール」と「クラブ」の話を聞いて気になり購入。
「われわれ」と「やつら」の対立がルワンダ内戦の例をもとに書かれていて本当に恐ろしかった。恐ろしく感じたのは、身近でも起こりうるとリアルに感じたから。会話を続けて「われわれ」を拡張しながら共に生きること。バラバラだとわかったうえで付き合っていこうと前向きな気持ちになれた。
Posted by ブクログ
学校に行き、社会に出ると、自分とは異なる視点や考え方をもった人が多くいることに気づきます。
そして学生時代に学んだ、 絶対的な正解 というのは、この世に意外とないのだなと気づきます。
本書で取り上げる哲学者のリチャード・ローティは絶対的な真理を追求するよりも、人々が対話をしながら、より良い社会をつくることが大切だと言います。
つまり、真理は一つではなく、「対話によって育っていく」ということです。
私たちの社会がバラバラであることから目を逸らさず、正しさもバラバラであることを受け止めつつ、ただそれを冷笑したり嘆いたりするのではなく、それでもどうすれば共にやっていけるか、それを考え抜くことが大切だと、本書を通して学びました。
対話を通した平和な世の中が1番です。
Posted by ブクログ
バラバラな人たちを統一しようと正しさで黙らすのは無理ゲー。隣人と会話を続けるためにはどうすればよいのかという問い。人を記号化する語彙の危うさ、個々への想像力で〝われわれ〟を拡張する必要性。にしてもトランプのような人物の出現を20年以上前に予見していたのすごい。リチャードローティ知らなかったけどいろいろ読んでみたいな
Posted by ブクログ
ローティの入門書として最適。法による支配より、力による支配が強く感じてしまう今のような時代を予見していた。力強くはないが、大切な反哲学の思想。
内容)基礎付け主義批判、終極的な語彙の改訂性、文学やルポを重視する文化政治の視点、残酷さを避けると言う意味でのリベラリズム、公私の二元論、小さな断片を手がかりに構築される連帯。
力強さがないため、ローティの哲学は確固たる処方箋にはならない。しかし、この思想が広がることに希望はある。ある種の実践性をともなっていることが彼の哲学の特徴だ。
『人類の会話のための哲学』の内容と重複があった。
Posted by ブクログ
リチャード・ローティの思想のことはよく知らず初めて触れた。
正直よく理解できていない部分が多いので、タイミングを見て要再読。
俗に言う『ポリコレ』の声が大きくなり権威主義的な様相を示してきている今、面白く読み進められた。
日常生活で言うと多種多様な界隈がゆるく重なり合っている現代、それぞれの『善い』とされるものが違う中では会話でゆるい紐帯をつくり共存することが必要なのかも。
パッキリと言い切る、分け切ることのできない状態を許容すること、ネガティヴ・ケイパビリティ
Posted by ブクログ
難しい言葉も多かったが、日常の体験に近い説明が多く、楽しく読めた。価値観が合わなくても、違いを認めながら一緒にやっていくことの大切さを感じた。