あらすじ
三島由紀夫、城山三郎、藤沢周平、山崎豊子……「戦後」という時代と戦ってきた反骨の作家20人の生きかたを、練達の評論家が描く。
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Posted by ブクログ
■はじめに
著者の本を読むのは久しぶりで、住友商事元常務・鈴木朗夫氏の反骨の人生を描いた『逆名利君』以来の筈。
本書は、冒頭の〈はじめに〉から実に面白い。著者の司馬遼太郎批判は筋金入りで、本書ものっけからその話題で幕を開ける。
司馬遼太郎をめぐって井上ひさしと交わした議論を紹介し、「司馬もいいし、藤沢周平もいい」という井上ひさし。それに対し、「両者は本質的にまったく違う」と異を唱える。その理由は、「司馬遼太郎には、この国の無責任なリーダーに致死量の毒がない」という一点に集約される。
本書で取り上げられるのは、司馬遼太郎とは対極にある」と見なす20人の作家たち。もちろん、その括り自体が著者の独断であるのは言うまでもない。
僕は〈エッセイや随筆は"適度な偏見"が最高の調味料〉だと思っている。だから本書も、クスッと笑い、時に苦笑しながら、最後まで存分に楽しめた。
■感想
著者は人物に対する好き嫌いが明快な人で、作家評もまた同じだろうと思って読み始めた。そして、その評価軸も"左派の論客"らしく、イデオロギーが色濃く反映されているのではないか…そんな先入観を抱いていた。ところが、その見立てはあっさり覆された。
著者が見続けているのは、思想や立ち位置以上に、「その人がどう生きたか」。権力に迎合しなかったか。時流に流されなかったか。自分の言葉を最後まで引き受けたか。その1点に人物を見る物差しが置かれているように思えた。
ゆえに本書は作品論というより、人間論に近い。作品の紹介以上に、著者自身が交流した作家たちの逸話が数多く綴られ、その筆致には敬意や親愛の情が滲んでいる。歯に衣着せぬ佐高信らしさは健在だが、読み終える頃には、どこか温かな人物評を読んだような余韻が残った。
そして改めて表題の『昭和に挑んだ作家たち』を眺める。
ここで取り上げられる20人は、いずれも戦前生まれである。国家が個人より優先された時代に少年期を過ごし、敗戦によって民主主義と個人尊重という、それまでとは真逆の価値観の中を生きることになった世代。
戦争も、敗戦も、高度経済成長も、昭和という時代の激変を身体で受け止めてきた人たちである。それだけに彼らの文学には、権力への警戒も、人間への眼差しも、単なる思想ではなく「体験」から滲み出る重みがある。
そんな時代の荒波をくぐり抜けた作家たちは、何を疑い、何を信じ、何を拠り所に文章を紡ぎ続けたのか。ページを繰りながら、そんなことを何度も考えさせられた。
■最後に
著者が司馬遼太郎を評価しない理由も、本書を読めばそれとはなく理解できる。司馬遼太郎は高度経済成長期を代表する国民的作家だった一方で、昭和という時代の“暗部”を正面から描かなかった。そこに物足りなく映るのだろう。
ただ、僕は少し違う見方をしている。司馬遼太郎は昭和を書かなかったのではない。明治を書くことで昭和を問い続けた作家だったのではないか。
満洲で終戦を迎え、戦争という時代を自ら体験した司馬遼太郎にとって、昭和はあまりにも近く、生々しく、容易く文学へ昇華できる対象ではらなかった。
『明治という国家』にも描かれるように、鎖国から目覚めた日本は、わずかな期間で近代国家を築き上げた。その原動力となった政治家や官僚、軍人たちの志と力量に、司馬は惜しみない賛辞を送っている。
だからこそ、わずか半世紀後、同じ日本が日本人が無謀な戦争へ突き進み、敗戦を迎えた現実を、司馬は誰よりも痛切に受け止めていたのではないか。「なぜ、この国は道を誤ったのか。」
その答えを探すために司馬は明治を書き続けた。そう考えると、司馬遼太郎もまた、昭和という時代に深く翻弄された作家のひとりだったように思えてならない。
本書は「昭和に挑んだ作家たち」を描く一冊であると同時に、その作家たちを通して、昭和という時代そのものを改めて考えさせてくれる一冊でもあった。