【感想・ネタバレ】女ぎらい ニッポンのミソジニーのレビュー

あらすじ

ミソジニーとは、男にとっては「女性嫌悪」、女にとっては「自己嫌悪」。皇室、DV、東電OL、援交など、男社会に潜むミソジニーの核心を上野千鶴子が具体例をもとに縦横に分析する。文庫化に際し、「セクハラ」と「こじらせ女子」の2本の論考を新たに収録。

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Posted by ブクログ

「フェミニストではない」と言う人は、「私はセクシストです(性差別主義者)」と言っているに等しいとある。それでも、父親は、自分はセクシストである、それの何が悪い、と開き直るそういう人だ。
私にとって、父親は、一番身近にいるセクシストである。セクシストが家族にいて、その人の女性蔑視的な言動を身体に受け止めて、毎日何事もないように生きなければいけない日々。これが、どれほど、23歳の私の人生を憂鬱にさせるものか。今日はいい日にしよう、という前向きな気持ちを踏みにじるものか、彼には分からないのだろう。
この家でフェミニズムの本を読むこと。それは、父親への挑発である。この家の女性たちは、荒波を立てないように我慢してきた。そういう意味で、女性の家族を危険に晒す行為かもしれない。
それでも、私は読むことをやめない。学んだことは誰も奪えない、と言う。それに、一度フェミニストになってしまえば、フェミニストをやめることはほぼ無理なのである。フェミニズムの本を読み始めたことで、読む前より、この父親に、家族に、男性に、社会に失望する数は明らかに増えている。希望を心から信じて生きること、また人生を楽しいと思えること、それはさらに難しくなった。ただ平穏に生きたいだけなのに、家が自分を守ってくれる場所ではない。いつ、この家に、この家族に希望を信じられるようになるのだろう。
私の中に、二つの種類の思いがせめぎ合っている。女性蔑視的な父親を変えて、自分をこの苦しみから解放したい。でも、父親とは険悪な仲になりたくない。
父親が家にいると、空気が重くなる。五十代の男性が変わることは不可能に近いことなのか。母親は、父親が変わることを諦めている。でも、諦めてしまったら、それは父親が死ぬまで、私たちが我慢することになる。

この本や私のコメントを読んだ男性に伝えたい。女性と同様、性差別的な社会で声をあげるには、相当の覚悟がいります。そういう社会に生きている。けれども、言葉は強いですが、やはり傍観していることは、加害者と同じであることに変わらないのです。男性が変わるには、男性の力が不可欠で、男性も声をあげなければならないことを理解していただきたい。こういうフェミニズムの本を読む男性は貴重ですごい、と持ち上げたくはない。当たり前であると思う。でも、同時に、一緒に戦ってくれることに感謝したいです。

この本や私のコメントを読んだ女性に伝えたい。私は、女子大でフェミニズムの詩を読んだり、本を読んだりするまで、フェミニズムなんて関係ない話、今の時代男女平等よ、と考える能天気な、女性としての生きづらさなんて感じたことがない人でした。
今の時代でも、女性として生きるのは相当辛い。それでも、今、私に選挙権があり、大学院まで進学でき、少しずつですが女性の生き方が自由になりつつある社会で生きられているのは、女性の先輩方のおかげです。感謝してもしきれません。年齢は関係なく、家で学校で職場でどこかで同じように戦っている方々に感謝します。我慢するしかない自分をどうか責めないように。たった一人でも、あなたがその場所にいて、女性差別的な周りの人々との関係で試行錯誤をしていること。立派です。一人一人、社会にメスを入れられていますよ。
希望を信じること、闘い続けることには体力も気力も要ります。休み休み、頑張っていきましょう。

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2025年08月20日

Posted by ブクログ

要は「男が欲しいのは女ではなく、他の男からの賞賛。同性である男に認められるための手段として女が欲しい。」ってこと。

となると、私のために争わないで〜という歌、あれはよもや、「私」のために争っているのではなく、私(客体)を介した男(主体)たちの争いなのかもね。


女性である自分の中に、「女性らしさに対する嫌悪や蔑視の感情」が沸く理由を知りたくて読んだけど、この本はアンチ男性の視点を持って書かれているため、答えは見つからなかった。

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2025年04月18日

Posted by ブクログ

星五つでは足りない。
最近は「おひとり様」系での露出が多い上野先生。少しとっつき難いおばさん的に見ていた私の先入観は大幅に間違っていた。
見ず嫌い、聞かず嫌い、読み嫌い。

博学で論理的。読ませる文章にも長けている。そして他者への厳しさと優しさ。
家父長制は簡単には変わらないだろうけれど、それが何であるかを解明し、ミソジニー、ホモソーシャル、ホモフォビアの視線から見た思想に感激した。
もっと上野先生の本を読みたくなりました。

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2024年08月11日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 古代ギリシャでは、性愛の最高位に同性愛があったが、正確に言えばこれは少年愛であって、成人男性同士の性愛ではなかった。自由民の成人男性が性的にアクセスできるのは少年または奴隷の男性に限られており、両者の関係性は非対称的だった。他方、女は、自由民の男性にとって子を産むための手段であり、家畜や奴隷と同じく財産の一部とされた。異性愛は、責任ある自由民の男性の義務であり、少年愛のように高貴な権利ではなかった。
 なぜギリシャの同性愛は対称性を持たなかったのか? それは、ペニスをもって「貫く者(penetrator)と「貫かれる者(penetrated)とのあいだには一方的な関係があり、「貫かれる者」は劣位にあるとされたからだ。べつの言い方をすれば、「貫く者」は性的主体、「貫かれる者」は性的客体として、両者のあいだに混乱があってはならなかったからだ。なかでも、自由民の少年がみずからの自由意思で性愛の客体になることを選ぶ(ようにしむける)ことが最高の価値ある性愛であり、選択の自由のない奴隷との性愛はランクが劣るとされた。自由民の少年は「貫かれる者」の位置にあるが、いずれ成人して、今度は他の少年を性的客体として、みずから性的主体となることが可能だからだ。
貫かれること、モノにされること、性的客体となることを、べつの言い方で「女性化される(feminize)」とも言う。男性がもっとも恐れたことは、「女性化されること」、つまり性的主体の位置から転落することであった。
ホモソーシャルな連帯とは、性的主体(と認めあった者)同士の連帯である。「おぬし、できるな」とはこの主体成員のあいだの承認を言う。「よぉーし、お前を男の仲間に入れてやろう」という、盟約のことである。この主体成員のあいだでは、相互を性的客体にしかねないホモセクシャルなまなざしは、主体のあいだに客体が入り込むことによって「論理階梯(クラス)の混同」を侵す結果になる。したがって性的主体の間で互いを客体化する性的まなざしは、危険なものとして、禁忌され、抑圧され、この排除をことさらに苛烈なものにする、とセジウィックは指摘する。自分のなかにあるものを否認する身ぶりは、全く異質なものを排除することにくらべて、よりいっそう激しいものにならざるをえない。かくして「あいつ、おかまかよ」という表現は、男のあいだでは男性集団の成員資格失墜を意味する、最大の悪罵となる。男に値しない男を男の集団から放逐する表現が「おかま」――「女のような男」という女性化のレトリックをともなっているのは象徴的である。逆に、「おかま」が自分たちの集団に潜在していることの怖れは、自分がいつ性的客体化されるかもしれない、という主体位置からの転落の恐怖でもある。だから、男の集団のあいだでは、「おかま」狩りがきびしくおこなわれることになる。これを同性愛嫌悪(ホモフォビア)と言う。性的主体としての男性集団の同質性を保つには、それが不可欠だからである。
かくしてホモソーシャリティは、ホモフォビアによって維持される。そしてホモソーシャルな男が自分の性的主体性を確認するためのしかけが、女を性的客体とすることである。裏返しに言えば、女を性的客体することを互いに承認しあうことによって、性的主体間の相互承認と連帯が成立する。「女を(最低ひとりは)モノにする」ことが、性的主体であるための条件である。
「所有(モノ)にする」とはよく言ったものだ。「男らしさ」は、女をひとり自分の支配下に置くことで担保される。「女房ひとり、言うことを聞かせられないで、何が男か」という判定基準は今でも生きている。女を自分たちと同等の性的主体としてはけっして認めない、この女性の客体化・他者化、もっとあからさまに言えば女性蔑視を、ミソジニーと言う。
ホモソーシャリティは、ミソジニーによって成り立ち、ホモフォビアによって維持される――ここまでは、セジウィックがその卓抜な論理で、わたしたちに教えてくれたことである。
以上をカタカナことばではなく、平明な日本語でいえばこうなる――男と認めあった者たちの連帯は、男になり損ねた男と女とを排除し、差別することで成り立っている。ホモソーシャリティが女を差別するだけでなく、境界線の管理とたえまない排除を必要とすることは、男であることがどれほど脆弱な基盤の上に成り立っているかを逆に証明するだろう。

 相手を理解不可能な存在――すなわち異人、異物、異教徒――として「われわれ」から放逐する様式(これを「他者化」ともいう)には、人種化とジェンダー化のふたつがあり、このふたつは密接に絡まりあっている、とサイードは『オリエンタリズム』[Said 1978=1986]のなかで指摘する。すなわち「東洋(オリエント)」とは「女」なのだ。ここでいう「オリエント」とは「異邦(異郷)」の別名であり、「オリエンタリズム」とは異なる社会を他者化する様式のことである。
 サイードはオリエンタリズムを「東洋とは何かについての西洋の知」と簡明に定義する。オリエンタリズムとは「東洋」が何であり、何であるべきであり、何であってほしいかについての西洋人の妄想の別名なのであり、したがっていくらオリエンタリズムについて知っても、かんじんの「東洋」については少しもわからない。わかるのは「東洋」についての「西洋人」のアタマのなかみばかりである。
もっとも人口に膾炙した「オリエントの女」は、プッチーニのオペラ、「蝶々夫人」の主人公、マダム・バタフライであろう。そう、オリエンタリズムのなかでは、ニッポンは蝶々夫人として表象される。今ふうに言えば、蝶々夫人は、単身赴任の駐在員の現地妻。本国からの配置転換の命令を受けた愛人から体よく捨てられるが、あきらめきれずに来る日も来る日も海を眺めて「ある晴れた日に、あなたはきっとわたしを迎えにくる……」と妄想を持ちつづけているまったく無力な女である。もはや説明するまでもないが、この妄想は、蝶々夫人のアタマのなかではなく、蝶々夫人をつくりだしたプッチーニのアタマのなかにある妄想にほかならない。
「西洋(オクシデント)」の「男」にとってこんなつごうのよい妄想はない。相手が理解不能な他者であり、魅惑的な快楽の源でありながら、自分を脅かす可能性がまったくない無力な存在であること。誘惑者として登場し、すすんで身を任せるだけでなく、自分が去ったあとも、恨みもせず慕いつづけてくれる。「ワタシガ・捨てた・オンナ」に対するチクリとした心の痛みも、女の愛の大きさが浄化してくれる――これほど「西洋の男」の自尊心を満足させてくれる物語があるだろうか。ンな女、いるわきゃねぇだろ、という声は、西洋人の巨大な妄想のもとではかきけされる。オリエンタリズムとは、支配的な集団が他者の現実を見ないためのしかけだから、いくら「ニッポンのオンナはほんとはこうなのよ」と言っても声は届かない。もっと下世話に言えば、オリエンタリズムとは西洋人男性のマスターベーションのおかずなのだから、こんな「ずりネタ」を見て、拍手喝采する日本の聴衆の気が知れないというものだ。わたしなどは「蝶々夫人」を見るたびにむかつくので、気分よく見ていられない。
 人種は階級とも結びついている。
 最近の人種研究のなかでは、ジェンダーと同じく「人種」も歴史的な構築物であることは常識となってきた。ホモ・サピエンスは一属一種、どの人も九九%以上DNAが同じなのに、わざわざ「人種(race)」というカテゴリーをつくって、肌の色で人間を区別する。ジェンダーが「男でない者」、すなわち男になりそこなった男と女とを排除することで維持される境界であり、男が男として主体化される装置であるように、人種とは(それを発明した)白人種たちが、「白人でない者」を排除することで、「白人であること」を定義するための装置だったことは、白人性研究[藤川編2005]のなかで次々とあばかれてきた。「白人であること」とは、劣等人種を支配してもよい資格を持つことだった。歴史的に言えば、「人種」という概念は、帝国主義の世界支配のイデオロギーと共に誕生したのである。

 Kくんは掲示板にこうも書いている。
「わたしも『アニメやエロゲーがあれば幸せ』という人種ならよかったのですけれど、不幸なことに現実に興味があるのです」
 現実に、そして現実の女に興味あるなら、対人関係を持とうと努力するほか道はない。学歴や地位や収入があれば、そして「見た目」がよければ、黙っていても「女がついてくる」時代は過ぎた。
 そうなればコミュニケーション・スキルが問われるのはあたりまえのことだろう。三浦自身も「コミュニケーション力」が「モテ」の条件となった時代に変化したことを認めている。このところ、コミュニケーション能力を新しい権力として批判したり告発したりする流儀が流行っているが、ふしぎなことだと思う。コミュニケーション・スキルとか能力とかいう用語が誤解を招くのかもしれない。コミュニケーション・スキルや能力というものはたしかに学習や経験によって身につくが、だからといって、他の資源のように計算したり、蓄積したりできるものではない。そして対人関係というものが相手によって変化するように、万人向けのコミュニケーション・スキルがあるわけではない。
 コミュニケーションとは対人関係の別名である。そして対人関係の結べない者に、「彼女ができる」はずもない。「かつて学校や職場では、男性同士がうまくコミュニケーションできればそれでよかった」[三浦2009:143]と、三浦は男同士のホモソーシャルなコミュニケーションを肯定する。そのホモソーシャルな男性集団でのペッキング・オーダー(にわとりのつつき順位)に従って、おのずと女性が配分されてきた。男性の努力は、あげて男性集団のあいだでの卓越化のためのものだった。
 だが、地位の序列をともなうような対人関係は定型的なものなのである。三浦自身が指摘するように、今日のようにコミュニケーション力が問われるようになったのは、定型化されない対人関係が(家族や男女のあいだでさえ!)増加したからであろう。
 定型化されない対人関係の最たるものは友人関係であろう。利害や役割をともなわない、それから直接的な利益を得ることが期待できない友人関係ほど、維持するにはむずかしい関係はない。深澤真紀が『自分をすり減らさないための人間関係メンテナンス術』[2009]で指摘するように、友人関係とは「人間関係の上級編」である。友人関係を維持するには、高いスキルがいる。おそらく恋愛や結婚よりも。なぜなら、恋人関係や夫婦関係とは、一種の役割演技(ロールプレイ)にもとづいているからである。
 だが、夫婦も恋人も、次第に定型を失ってきた。定型性のない性関係のもとで、相手がどれほど異形の他者になるかのレポートは、文学作品にいくつも登場する。コミュニケーションとは、甘やかな共感などではない。自我を賭け金とした命がけの駆け引きである。それがイヤなら、関係から撤退するほかない。
「彼女がほしい」とのぞんだK君の叫びが、ほんとうに「人と関わりを持ちたい」という欲望だったとしたら、かれのなすべきことは秋葉原へ行って他人を刺すこととはまったくちがったものになるはずだった。だが、少なくともその行動から判断する限り、K君とJ君がともにのぞんだのは、自分を「男にしてくれる」ひとりよがりな「女の所有」への欲望でしかなかったと言うほかない。

 セジウィックは女性嫌悪(ミソジニー)と同性愛嫌悪(ホモフォビア)とを、男性同士の連帯(ホモソーシャビリティー)を成り立たせるわかちがたい一組の契機とした。ホモソーシャルな集団の一員になる、すなわち自分が男であると他の男たちに認めてもらうためには、自分は「女ではない」ことを証明しなければならない。なぜなら欠性対立(privative opposition)によって成り立った「標準」としての男性性は、ただ有標化(marked)された「女性性」の欠如によってしか、定義されないからだ。男を男として認められるのは男であり、女ではない。
「女のようでない」ことを証明するには、女を所有することで女の支配者の位置に立つ必要がある。したがって、「女を所有(モノ)にする」ことで、男は「男になる」。この関係は非対称的なものであり、逆転してはならない。女をひとり支配下に置くことは「男である」ことの必須の条件であり、だからこそ、そのコントロールに失敗することは男の汚点となる。「女房ひとり言うことを聞かせられないで、なんの男ぞ」と、「女房の尻に敷かれる男」は軽蔑されるし、妻に姦通された男は、所有物の管理にしくじったばかりか「飼い犬に手を噛まれた」ことで「男の面目」を台無しにする。妻の裏切りよりも、同性集団への「男としての名誉」がかかっているからこそ、女仇(めがたき)討ちは果たされなければならない。
 第2章で触れたようにミシェル・フーコー[Foucault 1979=1986]は、ホモフォビアの原因を、「貫く者」と「貫かれる者」とのあいだの性行為の非対称性に求めた。ペニスの有無という解剖学的な差異にもとづく即物的な非対称性をさすのではない。「能動」と「受動」という関係、すなわち性的主体となるか性的客体となるかという非対称性のもとで、「女性の位置を占める」ことの(男性にとっての)スティグマをさしたのだ。これを「女性化(feminization)と呼ぶ。したがって同性愛者の男は「女性化された男(feminized man)」の記号となる。しかも同性愛者の男がホモソーシャルな集団に混入していることは、その男の性的欲望によって対象化されること、言いかえれば「女性化」される危険をつねにはらむことになる。男が「男であること」から転落する危険は排除されなければならない。だからこそ、男性集団のあいだでホモフォビアは厳格なルールとなる。しかも、セジウィックが指摘し、キース・ヴィンセントらが強調するように[ヴィンセントほか1997]男の男に対するエロス的な欲望は、どの男性のうちにも潜在しているからこそ、この排除はいっそう徹底的でかつ自己検閲的なものでなければならない。ホモソーシャルな集団とは、同時にホモエロティックな集団でもあることは多くの論者によって指摘されてきた。男同士の関係を表すのに、どのくらい性愛の用語が使われてきた。「男心に男が惚れた」というように。『葉隠』にあるように、もともと「恋」とは、男性同士の恋闕の情をさすものにほかならなかった。
 男が「女性化」される危険を冒さずに同性愛行為を実践する唯一の方法が「少年愛」である。ここでは年長者(念者)と年少者(稚児)のあいだに、「貫く者」と「貫かれる者」とのあいだの非対称性が固定される。これが逆転することはない、つまり少年はあくまで念者の欲望の客体であって、逆に念者が少年からまなざしをかえされることによって欲望の客体に転落することはない。古代ギリシャでは「少年愛」のなかでもっとも上位に挙げられるのが自由民の少年との性愛であり、下位に属すのが奴隷の少年との性愛であった。なぜなら奴隷との少年愛には強制がともなうが、自由民の少年との性愛には自由意思が介在していると見なされるからである。肛門性交が受動的な側にとって快楽であることを証言した表象は、古典的なポルノにもいちじるしく少ないことを考えれば、少年たちは快楽からではなく、尊敬と愛情から念者にみずからの身体を自発的に差し出すことになる。だからこそいずれ自由な市民となる少年から捧げられる性愛には、高い価値が与えられるのだ。
 本書を読んできた読者なら、フーコーの紹介する古代ギリシャの「少年愛」の理想が、児童性虐待者のファンタジーに酷似していることに気がつくだろう。
「男である」というみずからの性的主体性を侵される危険を少しも感じることなしに、他者を性的にコントロールすること。そのために、もっともバリアの低い、無力で抵抗しない相手を選ぶこと。しかも相手がそれを望んでいると信じたがること。その被害者が女児であるか、男児であるかはもはやたいした違いではない。それが児童性虐待者である。
 そうなればかれらの多くが、小心で脆弱な「男らしさ」のアイデンティティの所有者であることの理由が、よく見えてくる。かれらはそうしてミソジニーとホモフォビア――同じもののコインの両面だ――を実践しているのである。

 ちなみにホモソーシャルな「男性紐帯」があるなら、その反対にホモソーシャルな「女性紐帯」もあると考える向きもあるようだが、ジェンダー非対称性のもとでは、ホモソーシャルな女性の共同性というものは成立しない。なぜならホモソーシャルな共同性とは、社会的な資源とりわけメンバーシップを付与する機能を持つものだからだ。女はこの資源を欠いており、女がメンバーシップを獲得するのは(これまでは)ただ男への帰属をつうじてのみだった。女のあいだにインフォーマルな集団はあるが、それを「ホモソーシャル」と呼ぶことには、まちがったメタファーの使用以上の意味はない。
 だが、角田の『対岸の彼女』は、三〇代の女性同士の友情を、ミソジニーなしに描くことに成功している。子持ちのパート主婦、小夜子と、シングルの会社経営者、葵とのあいだにはほとんど何の共通点もないが、あるとき小夜子が、葵の会社のパートに雇われることから、ふたりのあいだに奇妙な友情が芽生える。高校生時代の回想から、葵が、ナナコとアオちんというふたりの女子高生の「心中」未遂事件の当事者のひとりだったことが暴露される。少女時代の傷つきやすい心を抱えたまま、独身を貫いて小さな会社の経営者になった葵にとって、やはりやわらかな魂を持った小夜子は、ただひとりの理解者となった。その女同士の絆は、小夜子にとってディスコミの夫との関係よりも強いくらいだ。傾きかけた会社を再建するために、孤独な葵に小夜子はありったけのエールを送る。
 レズビアンでもないのに、女を愛する女、女であることを愛する女たちの、友情の物語だ。林が感慨を覚えるのも無理はない。
 女と女のあいだに友情は成り立つか? イエス。角田はそうきっぱり答えたのだ。

 皇太子浩宮が雅子さんを妻としたときに言ったと伝えられるせりふがある――「一生全力でお守りします」。このせりふに当時どれだけの日本の女がしびれたことだろう。もしあなたがこのせりふに「しびれた」女のひとりだったとしたら、あなたもまた「権力のエロス化」を身体化した女性だといってよいだろう。「守る」とは囲いに閉じ込めて一生支配する、という意味だ。その「囲い」が温室であろうが、獄舎であろうが同じことだ。そしてそのとおりの囚われ人の現実が、雅子妃を待っていた。しかも男が女を「守る」というとき、「守る」べき外敵とは、しばしば自分よりさらに力があるかもしれない他の男性をさす。「所有」の言い換えに過ぎない「守る」ということばが、「愛」の代名詞になることを「権力のエロス化」と呼ぶ。揶揄しているのではない。青年皇太子が、このことばを誠実な愛の表現として使ったことに偽りはないだろうが、男にとっての愛が、所有や支配の形式しかとり得ないことを、この概念は如実に示すのだ。
 それを裏から保管するように、女にとっての愛が、従属や被所有の形式をとることもある。「あなたについていきます」や「一生わたしを離さないで」という表現はその象徴的な例である。そして女は「愛」を「身の回りの世話をかいがいしくやく」という、これまたきわめて近代家族的な「ケア」役割の形式でしか表現する回路を知らない。好きになったとたん、相手の下宿へ乗りこんで掃除や洗濯を始めたり、弁当を作って差し入れしたりする女のふるまいは、主婦が下層中産階級の不払い家事労働者に転落して以降の、歴史的現実を反映している。貴族やブルジョアの子弟なら、女が弁当をつくったとたん、下女にはふさわしいが妻にはふさわしくない、と思ったことだろうに。
 エロスという不可視で不定形なものの文化的な表現の回路は、歴史的文脈に依存する。「権力のエロス化」という概念は一見おどろおどろしいが、上述のように日常的な関係にもあてはまる。
 関係の様式もまた生活習慣だ。だが、長い年月のあいだに、生活習慣は変わるし、変えられる。
 クスリをやめて健康なカラダの快楽を味わったらクスリの快楽なんて忘れられる、といくら聞かされても、ほんらいの「健康なカラダ」とはどういうものかを想像することができなければ、ドラッグ中毒者は、目の前にあるつかのまの快楽を手放そうとしないだろう。あるいは背骨がゆがんだまま不自然な姿勢で歩くことが身についてしまったら、それを矯正することに現在以上の痛みをともなうとしたら、ゆがみを治したいとは思わないに違いない。文化とは、身体と精神の強制的な鋳型のようなものだ。その鋳型を外されたら、コルセットなしでは歩けない患者のように、心身共にくずおれてしまうかもしれない。
 だが、鋳型は鋳型である。変わっていくこともあるし、変えることもできる。生活習慣を変更することは容易ではないが、それが運命や宿命ではなく、「習慣」にすぎないことを知っておくのはよいことだろう。
 ミソジニーとかホモフォビアを単一の概念で表現する用語が、「権力のエロス化」である。エロスと権力という異なるものを異なるままに切り離し、権力をそのもとの場所へ差し戻し、エロスをもっと多様なありかたで充満させること……はできないわけではなかろう。それはすでに始まっているのだから。

 男にとっての異性愛秩序とは何か? それは男が性的主体であることを証明するための装置だ。異性愛の装置のもとでは、男と女とは対等な対にならない。男は性的欲望の主体、女は性的欲望の客体の位置を占め、この関係は男女のあいだで非対称である。異性愛秩序とは、男は同性の男を性的欲望の対象としてはならず、男でない者(つまり女)だけを性的欲望の対象としなければならない、という「命令」のことだ。裏返しに言えば、男によって性的欲望の対象となった者は、「男でない者=女」にされる。それが男であるときには、その者は女性化される、つまり「女のような男」とされる。ここでは「女」とは定義上、「男」の性的欲望の客体のことにほかならないからだ。したがって男の性的欲望を喚起しない女は、定義上「女でない」ことになる。
 ホモソーシャルな集団とは、このように「性的主体」であることを承認しあった男性同士の集団をさす。女とはこの集団から排除された者たち、男に欲望され、帰属し、従属するためだけに存在する者たちに与えられた名称である。それなら、ホモソーシャルな集団のメンバーが、女を自分たちより劣等視するのは当然であろう。
 女とは「男ではない者」に与えられた「徴(しるし)つき」の名称であり、それは男に与えられたありとあらゆる美徳や名誉から差別化して、カテゴリー化されなければならない。女とは、男とちがって「勇敢でない者」「たくましくない者」「指導力や決断力のない者」「怯懦な者」「つつましい者」「無力な者」、すなわち「主体たらざる者」に対して与えられた名称であり、これらすべての「女らしい」属性は、男の支配の対象にふさわしくつくりあげられた属性だと言ってよい。
 だからこそ、異性愛秩序の核心に女ぎらい(ミソジニー)があることはふしぎではない。なぜなら自分は女ではない、というアイデンティティだけが、「男らしさ」を支えているからだ。そして女を性的客体としてみずからが性的主体であることを証明したときにはじめて、男は同性の集団から、男として認められる、すなわちホモソーシャルな集団の正式メンバーとしての参入を承認される。輪姦が性欲とは無関係な集団的な行為であり、男らしさの儀礼であることはよく知られている。

 ジェンダーに権力の非対称性がともなうところでは、ホモソーシャルな男性の絆と、ホモソーシャルな女性の絆とは、たとえ存在したとしても同じではない。同性の集団に同一化することをつうじて得られる権力という資源の配分が圧倒的に違うからである。だれが劣位の集団にすすんで同一化することを望むだろうか。したがって女性にとってホモソーシャルとホモセクシャルとのあいだに連続性があったとしても、それは不利な選択、劣位であることに甘んじる選択となる。それよりも女にとっては、性的欲望の客体となることを引き受け、ホモソーシャルな男性の集団に帰属することをつうじて、たとえ間接的にであれ、権力という資源の配分を求めるほうがはるかに効率がいいだろう。女同士が男(に選ばれること)をめぐって潜在的な競合関係に置かれる限り、女同士のホモソーシャルな絆は、あったとしても脆弱なものとなるだろう。そしてこの機序は、女の嫉妬が、自分を裏切った男に対してではなく、同じ女に向かうことを説明する。

 男にも自己嫌悪はある。そのとおりだろう。だがそれにも二種類の自己嫌悪がある。ひとつは自分が男であることへの。もうひとつは自分がじゅうぶんに男でないことへの。森岡の議論では、このふたつの自己嫌悪が区別されているとは言いがたい。このふたつの自己嫌悪は向かう方向がまったく逆だからだ。
 男性学は、ジェンダーの呪縛に男もまた苦しんできたことを指摘するが、それは後者、男が「じゅうぶんに男でない」ことへの苦しみがなかっただろうか。性的弱者、非モテ、フリーター、ひきこもり等の「男性問題」は、ホモソーシャルな男性集団の規格からはずれることへの恐怖と苦痛をあらわしている。そう考えれば、規格をはずれた男が「居場所のない」思いを味わい、孤立へと向かうのも理解できる。ホモソーシャルな集団から排除された「男になれなかった男」には、連帯が不可能だからである。
 もちろん女性にも同じように「規格」をはずれることへの恐怖や苦痛はある。やせ願望、不妊治療、「負け犬」恐怖など。だが彼女たちが首尾よくその恐怖を克服して「規格」に達したときに、自分がミソジニーの鋳型のなかにはまったことを知って愕然と「自己嫌悪」に陥るほかなかったのだ。そして「規格」外の女たちが、その自己嫌悪と格闘しながら連帯したのが、フェミニズムだった。なぜなら自己嫌悪の普遍性を彼女たちが知っていたからだ。

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2024年04月15日

Posted by ブクログ

ネタバレ

私の本棚のタグには#女性の生き方 とか#女性と仕事 とかがいっぱいついています。ジェンダーの問題、女性の生きづらさなどに関心が高いので読んでみました。
最初の方は、とにかく男女の非対称性について論じていて、納得する部分もあるが、「そんな極端な!」と思う部分も多かった。何より私自身が、「女に生まれて損をした」とはあまり思わず、かえって得したと思っているからだ。著者によれば、男は皆「女でなくてよかった」と一度は思ったはずだし、女は皆「女に生まれてソンをした」と一度は思ったはずだ、とのことで、すべてその前提に立っている。
しかし読み進めていくと非常に納得することが多い。この社会は常に男が主体であり、女が客体である。女の価値が男によって決められ、女が男を値踏みするようではあっても結局は男の価値も男社会の中で決まる。私自身は、男女平等でセクハラもなく、管理職には男性が多いが女性もそこそこいて、上司はハラスメントに関して常に研修を受け人権意識が高い職場で働いているので、女という記号で見られたり、女だから損をしたことは(全くではないが)ない(つまり「私は主体であり、客体ではない!」)と思っている。しかし男からの、女としての評価を気にせずに生きてこられたかと言われれば、それはやはり常についてまわった。褒めるにしたって、「女の子なのに勉強ができるね」とか。私は当たり前に普通の仕事をしているだけだが、「女性なのに男性と対等に働いているからすごいね」という評価だ。自分でも自分をそう評価していたのだと気づかされた。
著者はちょうど私の母と同じ世代。私の母は、好きなことや得意なことがあったのに、大学には行かせてもらえず、結婚して家族のために生きてきた。(長男である弟だけが大学に行き、そこそこ出世したが、親の世話は長女である母がしている。)母は私には好きなことを学んで男性と対等に働いてほしい、女だからって家事に追われなくていいと小さい頃から言っていた。自分に経済力があったら…とか、男の子を産みたかった、とか、自分が女であることを嘆き、私が性別に縛られない生き方をすることを望んだ。上野千鶴子さんに、私の母の話を聞いてほしい!と思った。死ぬほど平凡な昭和の母だけれど、だからこそ。

以下引用
・・・私も若い女たちに言いたい。(中略)手前勝手な男の欲望の対象になったことに舞い上がるな。男が与える承認に依存して生きるな。男の鈍感さに笑顔で応えるな。じぶんの感情にふたをするな。そして・・・じぶんをこれ以上おとしめるな。

・・・おんなもいよいよ企業のなかで定年を迎えるようになったのだ。そのうち「退職女子」ばかりか「要介護女子」「認知症女子」という呼び名も登場するかもしれない。なぜって女子は一生、女子だから、女子は生涯、自分のなかに誰にも侵されない透明な核を持っているはずだから。
(最近は、私の職場でも60歳を過ぎて再雇用で働き続ける女性の先輩が増えてきた。10年前は、多くの女性が50代で辞めていたが、私も60を過ぎても働きたいと思えるようになった。)

・・・「わたし」はつねに中途半端な、過渡的な時代の産物である。過去の自分を否定して生きる必要はない。過去の自分の、限界や過ちや「こじらせ」があったからこそ、今の自分がある。過去の自分を許し、和解し、「わたし」のなかに抱きとめたらよい。
(これ、なんてあたたかい言葉なんだろう・・・!)

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2023年12月10日

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驚くほどに面白くためになる本。今まで様々な瞬間や人や会話や社会に感じていた名付け難いモヤモヤに新しく明確な理解と、正しい怒りを与えてくれて目が覚める。学術研究の大切さを改めて理解することができた。男女問わず読んでほしい、読んで自分がどう感じるか、見つめる価値ある一冊。

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2023年09月28日

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痛快!
快刀乱麻を断つ、とは正にこの事。
女性も(勇気があったら)男性も、ぜひ手に取って欲しい。
いろーんなことの化けの皮がベロベロ剥がされていきますよー。
【追記】
これを読むのと並行してNHKドラマ『坂の上の雲』を観ると、前に観た時と全く違うものが観えてきました。それくらい、物の見方を変えてくれます。

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2023年04月16日

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「非対称」
判断のバイブル。
タイトルを「本屋大賞」作狙いに寄せてないのがすごい。けど、平積みにして、全ての人に、手にとって貰いたい。

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2022年12月25日

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我々の生活のあらゆる場面は女性嫌悪に基づいた文化の鋳型で成形されているのだと気付かされます。
自分の話し方からコミュニケーションの様式、性的な欲求まで様々な場面で女性嫌悪で溢れていると著者は指摘しますが、男性である自分にとっては思い当たる節がたくさんあり、常に居心地の悪い読書となりました。
女性嫌悪的な行動をとることで周囲の女性に負荷をかけているのだと著者は指摘するのですが、一方で女性嫌悪という文化から抜け出すことはいままでの生活原理を根本から覆すことになるとも指摘しています。自分ですら変えることは難しいのかもしれないという事実に上野千鶴子氏の強くみえる方が言及するのには驚きました。
ただし、最後の最後に著者から男性宛の具体的なエールが過書かれています。女性の向けの本だと思って読んでいたところに急に自分への目線がありとても驚きました。男性にもミソジニーに基づく自己嫌悪がありそれを乗り越えるにはどうすればいいか著者の考えが記載されており、この問題が男性側の意識変革がなければ解決しない問題だと改めて示されています。
困難ではあるが自分が変わらなければとなにも変わらないのだと思わされる本でした。

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2022年08月18日

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初読破
うわぁ…と声が出そうになる程
身に覚えがある箇所がありました
他の方が書かれている不快感のようなものは
ありませんでした
改めて、web記事やtweetではなく
このボリュームで
まとめて読めたことをありがたく思います

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2021年10月17日

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この本で、あらゆる場面でのミソジニーをこれでもかと考察されて、好きで見ていたアベマの番組や、女性誌に載っているエッセイが、完全にミソジニーの文脈で読み解けてしまうことに気づいて嫌な気持ちになった。
そういうものを楽しく見れてしまうこと自体、私が「自分を女の例外として扱い、自分以外の女を他者化することで、ミソジニーを転嫁」していて、それでもあわよくば女としての評価を得たいがために、男を立てよう、と潜在的に思っている証拠なのかなと思う。
不用意に他者を傷つけたり自分を貶めたりしないように、自分の中のミソジニーに気づくアンテナを持っていたい。

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2021年10月16日

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女性蔑視は男という支配的な立場からの一方的な圧力なのかと思っていた。実際にはそもそも男が男という主体的な立場を維持するためには支配される女が必須であり、性的客体となり得る男を排除して初めて成立する脆弱なものであり、それだけにミソジニーの根は深いのだと実感した。

自分の中に燻っていたモヤモヤが次々と言語化され、理論に落とし込まれていくのは、読んでいて心地良さすら感じた。自分の苦しみを正確に理解し表明するためにも、相手に苦しみを分からせるためにも、概念は必要不可欠であることを、改めて思い知らされた。日頃感じるモヤモヤの解決に良さそう。

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2021年09月01日

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私は、上野先生の東大入学式での講演を見た時に初めて「フェミニズム」らしきものに触れました。(正確には前々から触れていたのですがツイフェミと呼ばれる存在が多かったので、ミサンドリーとごっちゃになったよくわからないものをフェミニズムと理解していたのかもしれません)
その講演の中で上野先生の「フェミニズムは弱者が弱者のまま尊重されることを求める思想」と言う言葉が私の強く心に残っています。

まぁそう言うこともあって本書を手に取ったわけです。いざ読んでみてどうだったか。一言でいうなら最高。
私は生物学的には男としての性を持ってこの世界に生まれたわけですし、(図らずも)男社会に染まって生きてきました。そんな私にはこの本は刺激が強過ぎて、読むたびに頭ハンマーで殴られっぱなし、そんな感覚です。
名言続出!『女は男の性的対象となることを通じて女になるのだ』

まず男社会を説明する必要があります。男社会における重要ワードは「ホモフォビア」と「ミソジニー」でホモフォビアとは男同士の絆であり、「男でないもの(=女,同性愛者,女っぽい男」

続きは後で書く

「男性性」としての私が上野先生から受け取り、ガチで思想に影響を与えてくれたメッセージは二点です。
①女という符号に反応するな。パブロフの犬か。
②(男性のいわゆる性的弱者に対して)自分のモテない(そもそもモテる行為が重要視されるのは男性社会の中にミソジニーとホモソーシャルな時代遅れな考えがあるから)原因を他人に押し付けるな。調べてみたらこの事をインセルと言うみたい。

ネガティブだった点
文学に関する内容が多すぎるのは慣れてない私にはちょっと微妙な点だった。というのも文学に登場するミソジニーと実際に存在するミソジニーは同値ではないだろうという観点から。
参考文献が文学作品なり誰かの著書、人文科学とは論文を引用ってのは少ないのかと初めて知った。上野さんはもしかして文学者?と思って調べたら、学部・院時代の所属が京都大学の文学系でやはりと。
高橋祥子さんの生命科学的思考やファクトフルネスなんかは論文のオンパレードのイメージ

Z世代的にはいやいやもうすでに古いよ!と言いたくなる内容も多い。そりゃ上野さんがZ世代では無いので当たり前なのだけど。家父長制はかつてほどは存在していないし(これは私がそう思っているだけかも)、全体的に若い世代が貧しくなり女性の社会進出のおかげで、専業主婦と権力を持つ夫という図式を男性も女性も女性も信仰している人は少ないように思う。

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2021年08月20日

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ネタバレ

男の子に性的に評価されるのは嫌だ、でもされないのも嫌だ。私の中のこれはミソジニーだったのか。AV女優や風俗嬢、アイドルという職を軽蔑しているのに憧れる、キラキラして見える、これは私が私の中の「女」、「男性に欲望される女」に抵抗なくなれたらどれだけ楽だろうという気持ちからだったのか。モヤモヤと抱えていた自己嫌悪が言葉になって証明されてとても嬉しい。自分や男の子を軽蔑する前にまずそれは私たちが社会から学習した結果なのだと知らないといけない。社会が作ったものならば一つ一つの行動で少しずつ私たちを縛るミソジニーから開放される未来を作れるかもしれないから。

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2021年01月13日

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ミソジニーの洗脳を解きはじめる段階に入れたとしたら、私はわたしらしくこの先どうやって生きていきたいのだろう わたしは、女らしさという概念を脱いだ後になにが残るのだろう、というかなにを残したいのだろー

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2025年05月15日

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性の二重基準
男は女好きがよい、女は純粋無垢が良い、のように基準が違うこと
AVは夢のように現実を補完して事件を防いでいる可能性があるので全面禁止にするべきではない
男を男たらしめるのは、女を所有して性の主体側にいること、あくまで男同士の認め合いであるため女は記号に過ぎない

ホモフォビア
男の性欲を向けられて性の客体となることを危惧

男にモテる男が女にもモテる
女にモテる女と男にモテる女は別

男に与えられる女の価値の方が、自分で勝ち取った女の価値よりも大きく評価される

学業偏差値、女性性偏差値、同性ウケ偏差値
男は全部高い方がいい
女は違う、ねじれが生じる

権力のエロス化
神が死んで、自然信仰になったあと、原罪を人間に教えるのは男、父、夫に。
支配が性愛のかたちをとる
→性愛を暴力や支配のかたちでとる者現れる
尊敬できる男の人しか愛せないの、は男に従属したいという欲望の表れ
女の方も「支配され、指導される」喜びを淡いそしてそれから「卒業」したのだから、一方的に被害者だったわけではない
愛されたい、庇護されたい→男に従属したい→「権力のエロス化」を身体化した女性であることの表れ
権力のエロス化=「所有」の言い換えに過ぎない「守る」という言葉が、「愛」の代名詞になること
自分は女ではないというアイデンティティだけが男を支えているからこそ、異性愛秩序の核心にミソジニーがある
男の嫉妬は女への、従属しないことへの怒りに変わる
女の嫉妬は、男からの承認という競合関係にある女に向かう

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2025年03月06日

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▼全体にオモシロかったです。当方が浅学菲才な昭和生まれのオジサンなので、上野さんが渡したかったものを全部受け取れているかは分かりませんが。後日の自分のために記憶に残っていることだけまとめると。

▼「ミソジニー」というのが「女性嫌い、女性蔑視」みたいな観念のことらしいのですが、これがキーワード。

▼日本だけではないでしょうが、日本の実社会をベースに、どれだけ

「女性は社会的に、能力的に、男性よりも劣るのである」
(あるいは、そうであって欲しい、そうあるべきだ)

という「理屈抜きの決めつけ」が世の中の色んなところに浸透しているか、それがどれだけ理不尽だし、非効率だし、残酷だし、身勝手であるか。
というようなことを多例を用いて語られる一冊。

▼月刊誌?か何かの連載をまとめたものだそうで、出版当時の時事問題や事件や世相に立脚しているので、ちょっと懐かしかったりもしますが、全般に気になるほどではありません。 

▼それらミソジニーに侵される、というか受け入れてしまっている(というか受け入れざるを得ない)のが、男性だけぢゃないよ、という。

▼原則、日本の今の社会の基礎を作った(その基礎が今、かなりガタガタに、良くも悪くもなっているのですが)昭和の高度成長期の家族や男女役割モデルによってつくられている。

・労働市場への参加の制限

・男性よりも学歴が下位で、大まか年齢も下の専業主婦

・働いても、「男湯に乱入した女性」的な居心地の悪さと扱い

・更には「男性的な社会成功」と「昔ながらの男性受けする、つまりミソジニーに基づいた成功」の両方を求められる

というようなことなんですが、個人的な理解では「フェミニズム」という考え方は、これらのコトバの「女性」を「世界の中の日本人、アジア人」に置換したり、「身体障碍者」に置換したり、「低所得者」に置換したり、「地方出身者」に置換したり、もっと平たく言うと「運動音痴」とか、「学歴的劣等生」とか、兎にも角にもありとあらゆる「社会的な”ガチャ”の弱者」に置き換えて考えても成立するところがキモなんだと思います。


▼そういう意味では過去事例、前例、つまりは歴史特に現代史と言われるものを、どのように「認知」して、その「認知」に基づいて周囲の言動を「判断」して、自分の言動をどう「操作」するのかということに尽きるんぢゃ無いかなと思います。だからコトは、政治家ぢゃなくてもリーダーぢゃなくても、小さな自分個人が、決して多くない身近な人たちとどう接するかということになる。その何億という事例と人間の積み重ねの向こうにしか、自分の、そして子供たちの未来はないんだろうなあと思いました。
 そうした積み重ねの結果が、自分個人の歴史の出発地点だったわけだから。

 そうした「認知」の視点というかアイディアを色々と提供するというのが、「学者さん」という人々の(恐らくは特段に社会学者とか哲学者とか歴史学者に限らず)本来の役割なんだろうなあ。もっと言うと「本」を出すということも含めて「メディア」というものの役割なんだろうなあと思いました。良き読書でした。


▼ただ、事例の中で、いわゆる少女性愛趣味などの具体例に踏み込んだ章は、ちょっと読んでてココロが疲れるというか、しんどかったです。昼飯食べながらちょっと読むような愉しみ方の本ではありません。
 あと、連載をまとめたもので、かつ恐らく一般誌ではなかったようなので、まとめて本にすると若干お手付きがあったり展開が単調だったりはしました。まあそれはしょうがないですね。それを超えてなおインパクトのある素敵な読書でした。

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2025年02月16日

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初めは痛快で面白いと感じて読み進めて行きましたが、後半になるにつれセクハラや性被害の話が濃くなって行き読むのが辛くなった。あとがきにもあるように不愉快な気持ちになった。ミソジニーの奥深さが垣間見れて良かった。

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2024年11月23日

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私が感じていた謎を理解出来たことはよかったが、何より私自身もミソジニーを誰かに行使してきたと思うと身の毛がよだつし、残念でならない。ふしぎな本となる時代がくるようにしていきたい。

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2024年02月18日

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ネタバレ

男や女というジェンダーについて考える上で重要なのが、ホモソーシャル、ホモフォビア、ミソジニーという3つの概念。ホモソーシャルは「男同士の絆」、ホモフォビアは「同性愛嫌悪」、ミソジニーは「女性嫌悪・女嫌い」と訳される。

ミソジニーは男女にとって非対称に働き、男性にとっては「女性蔑視」、女性にとっては「自己嫌悪」。

昭和と比べると、大分状況に変化は見られると思ったが、令和になった今でさえ、まだまだミソジニーは存在し、当たり前のように蔓延っていることに気付かされる。

勉強になったのは、武士道のバイブル「葉隠」にあるように、もともと「恋」とは、男性同士の恋闕の情(忠誠心以上の情熱で恋い焦がれること)を指すものであったらしい。

また、夫婦関係の核心に性(セックス)が位置するようになったのは近代に入ってからで、それまでは夫婦間の性関係は必須条件ではなかったらしい。子供が生まれなければ養子縁組や側妾に産んでもらっていたし、婚姻期間中に妻が産んだ子供は誰の子であれ自動的に夫の子として登録された。父親とは、妻が産んだ子供の社会的父親であり、生物学的父親が誰かは問わないのが決まりであった。この前近代のシステムは、現代の夫婦間に見られる多くの問題を解決するし、ストレスも少なそうで、これはこれで良さげな制度だと思った。

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2023年12月14日

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とある会合で、男性の在り方を問い直す言説で最近売り出し中の清田隆之氏の講演を聞いた。なぜか中高男子校時代の同級生のお仲間を1人連れてきており(当初予定になかったそうだが、花粉症で話しにくいから急遽とのことだった)、講演の後半は2人の対談形式であった。

前半はマイノリティの生きづらさなどを(ちゃんと)話していたのだが、後半は2人の高校生時代の「楽しい」思い出、悪ノリなどの話で、何かとよく裸になったよな、なにかというと「走ろうぜ」となる、と言った男子校の思い出話をとっても楽しそうに披露。
夜中のDJ番組を聞かされているようで、だんだん苦痛になってきた。

(この話全然楽しくないんですけど!)心の声

全く気が付かない二人。笑いながら楽しそうにずっと話す話す。男ってバカっすよねー。ゲラゲラ。

(悪いけど本当にそう思う)心の声

長い。二人の世界。じっと我慢。

(マジョリティはマイノリティの辛さを分からないとさっきは言ってましたよね!どの口が!)心の声

女性ってこういう仕打ちに慣れているので、みんな黙って聞いている。寝ている人も多い。ただただ苦痛。

だって清田氏の講演の題は「『一般男性』の話から見えた生きづらさと男らしさのこと」なのだ…。

今この講演会で話されるべきなのは、今ちょうど面白おかしく披露されている男子集団から弾き出された生きづらいマイノリティの男子のことではなかったか?
男性集団の非言語的ノリをどう解消するかではなかったか?
じっと我慢を強いられる女性との共生についてではなかったのか?
清田氏も最初はおそらくそのつもりで話し始めたと思われる。確かパワポにもそう書いてあったし。

でも嬉々として語られる思い出話はまるで自慢話のように聞こえる。全く生きづらくなさそうだ。

なぜ彼は途中からすっかり会の趣旨を忘れて、聴衆(一人を除き全員女性)を置き去りにしてしまったのか?

そこで感じた違和感に答えをくれたのがこの本だ。

ようやく本題(笑)

通常の講演なら、多分日頃の著作で披露している表向きの話ができたのに、同級生を連れてきたことで、ホモソーシャルな世界が形成されたということ。(二人で語るうちに甘美な思い出が蘇り、ホントに楽しかったからね、二人でいつのまにか思い出話に花が咲いてしまったよ、てことだ。)
女性の聴衆より目の前にいる一人の男友達の方が彼にとって大切でもあったということ。
それほどホモソーシャルな絆は魅惑的だということ。男にとっては。

その魅力は抗いがたく、男は単体でなく複数になると、そこに引き摺り込まれてしまう。その現場を目撃したこと。それが違和感の正体だ。

「ホモソーシャル」とは性的主体同士の連帯を指す。
「おぬしできるな」と承認されることを良しとする強い絆だ。
「ホモソーシャリティ」は「ホモフォビア」によって成維持され、「ミソジニー」によって成り立つ。
「男と認め合った者たちの連帯は男になり損ねた者と女を排除し差別することで成り立っている」

この分節は、視界をクッキリさせてくれた。本来ならゼジウィックの著作を読むべきかもしれないが、上野千鶴子さんのわかりやすい解説がとても助けになった。

あースッキリした。
偶然これを読んでくださった(読んでしまった)方々すみませんでした。そしてありがとうございます。

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2023年03月28日

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日本にはびこるミソジニーをいろんな例から解き明かす本。
でも、自分自身全然ミソジニーから自由じゃないしあまりに内面化されすぎててこの思想から自由になった姿、心象風景が全く想像できないよ!どうしたらいいんだよ!理論だけわかったって仕方ないだろ!と思いながら読んでたけど、最後に「過去の自分は他者なのだ」という文があってちょっと救われた。
内面化してるってことがわかっただけでも、内面化に無意識だった自分とはもう他者の関係になれたってこと。
何回でも読み返したくなる本だと思う。

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2022年12月22日

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結構難しくて、わからないないこともあったが、単語の一つ一つが洗練されていて、文章がするどいなーと。
とにかく内容が濃いので、読むほうも覚悟を持って読んだほうがいい。
自分自身が気づいてないことが多々あり、気づきもたくさんあった。

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2022年09月07日

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女性差別、女性蔑視、フェミニズムを少しでも理解したくて購入した一冊。
自分の無知さと理解力のなさに打ちひしがれてます…
読み直して、また、積んでる本を読んで勉強です。

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2022年04月04日

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読むのがつらい、しんどい本ではあったが興味深かった。

今まで自分が女であることにあまり不満を持ったことはなかった。フェミニストのこともあまり理解せず過剰なことを言っている人たちだと思っていた。しかしこのふわっとした考えの自分でも、いままでの心の底のひりつくような経験は女であることが理由だったのかもと再定義することができた。
男を欲情させることができる女だけが女
女は女であることから逃れることができない
女は「自分で達成する価値と、他人つまり男から与えられる価値との両方が必要」であるという箇所が、なかなか自分にとって負担に思ってたことを言い当てており、胸のすく思いがした。
男は見た目が悪くても勉強さえ頑張ればなんとかなるのに、女は勉強ができるだけじゃだめで、見た目も良くしなければならない。勉強が出来過ぎてもだめ。男を立てないとだめ。化粧くらいできないとだめ。
自分が感じる生きづらさは、自分が女であることも原因だった。
にしても、世の中男の都合のいいようにばっかり動いてるんだなぁ。改めて現実を認識する。Twitterで怒りを喚き散らかすような人間にはなりたくないんだけども、こういうの読むとやりきれない。

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2022年07月23日

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ネタバレ

「『自分を貶めて媚びへつらってまで』女が「婚活」をしてきた長い歴史を考えれば、昨日今日になってこの程度の経験にたじろぐ男たちは、まだ弱者であることに慣れていないだけだろう。」

「男にとって女の最大の役割は、自尊心のお守り役である。」


↑ホント、これ!!!と笑っちゃった。

上野千鶴子さんが、ジェンダー研究のパイオニア、フェミニズムの素晴らしい論客であるだけでなく、人気(だと私は思うんだけど)もあるのは、彼女の知性に裏付けられた、女性からすると「スカッとする」言葉をサラリと説得力をもって伝えてくれるからでは。

女にとってのミソジニー(自己嫌悪)を思うと、現実の男性ではなく、「他者」としての男性を前提として、自分が「男性的」な視点で、女性性を否定しようとしている一連の考えに説明がついた気がして目から鱗。読書は自己との対話だなぁと改めて。

途切れ途切れに読んだので、休みの日にまとめて再読したい。

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2021年04月14日

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ミソジニー、ホモソーシャル、ホモフォビアというセットで、今の社会の空気を教えてくれた。相手が男性であっても女性であっても関係なく、一人の人間として接するようにしたいと思った。

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2023年02月11日

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感想
思想や行動に組み込まれている女性嫌悪。男女に関係なく発現するところはある意味皮肉。この言葉を知った上でどう行動を変えるか。

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2023年01月07日

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ミソジニーとはどういうものか分かりました。
女性である私の中にもミソジニーはあるのだなと自覚できました。
ある意味、生まれた時からの環境や刷り込みとも言えるので、自覚的に学ぶことが必要かなとも思えました。

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2022年09月19日

Posted by ブクログ

上野作品を読むのは2作目。
共感出来る部分4割、よくわからない部分3割、そうかしらんと思う部分3割、という感じでした。

2019年度東大入学式祝辞のインパクトが強いので、そういう内容(実力も運のうち)を期待してしまうが、タイトル通り、ふとした表現に染み込んでいる女性蔑視をとことん暴き出す内容でした。自身比較的フェミニストのつもりだったけど、全然違うようだ。

天皇の、「一生全力でお守りします」も、囲いに閉じ込めて一生支配する、という意味で、ぜんぜんダメよのう。

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2022年06月14日

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