あらすじ
なぜ僕は存在するのか?
なぜ悪いことをしてはいけないのか?
刊行から30年、世代を超えて読み継がれる名著の完成版!
「哲学は向こう側にあるのではない。哲学史の本の中に「哲学」として登場してくるものは、もう哲学ではない。向こうにある哲学を学ぼうとすれば、哲学した人の残した思想を読んで理解し、共感を感じたり反感を感じたりできるだけだろう。哲学はこちら側にある。自分自身の内奥から哲学をはじめるべきだ」
「問いの後に 哲学とは?」より
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Posted by ブクログ
筆者の問い2つを例に、外の哲学(実際の批判や考えうる哲学的立場からの批判)を織り交ぜながら筆者の哲学を走らせていく。それぞれの考えが錯綜しながら進むが、語り口が易しく明快なので、ゆっくり読んでいれば振り落とされることはない(と、思う)。前半はやや難解だが、後半は大人にも響きやすい内容だと思う。
大人が「当然こうだよね」と説明しないで作り上げている上げ底の世界に適応するために、その差をどのように埋めていくか底上げを模索するのが青年期の哲学だと表現していたのが、なるほど過ぎて笑ってしまった。そして、結局その差をうめたとて、0にしかならないという儚さゆえにも、哲学を必要とする人と必要としない人がくっきり別れていて、互いにわかりあうことが難しいのかもしれないと思った。
Posted by ブクログ
実践としての哲学入門書。
筆者が〈子ども〉のころから抱いた二つの問いである「なぜ〈ぼく〉は存在するのか」「なぜ悪いことをしてはいけないのか」について、筆者の施策の筋道が語られている。
哲学者の引用も少しあるが、そういう前提知識を必要とせず、とにかく筆者が考えを深めていく過程が書かれている。比較的平易な単語を使っており、難しい書き方で読者を煙に巻くようなこともない(それでも難しいところはあるが)。
そして筆者は言う、「哲学は、哲学なんてぜんぜん知らないうちから、なんのお手本もなしに、自分ひとりではじめるものでなければ、けっしてはじめることができないものだ。つまり、哲学の勉強をしてしまったら、もうおそいのだ。勉強は哲学の大敵である」「大人になるまえに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身が本当に納得がいくまで決して手放さないこと、これだけである」と。
本書を読むと、その主張がよく分かる。筆者は本当に疑問を手放さない。おそらく今も、そして死ぬまでこの疑問を考え続けるのだろう。安易に答えを決めて納得してしまわない、ネガティヴ・ケイパビリティと思考体力のすごさに舌を巻いた。
そして筆者は、問い続ける過程こそが哲学だと言う。恐らくそのとおりなんだろう。
哲学とは、高名な哲学者の理論を学ぶことではないという筆者の言葉に目を開かれる一冊。ぜひ。
Posted by ブクログ
俺にとっては後半の問いの方が面白かった。
前半部分については、「俺が〈俺〉である理由は、そういうもんだから」と考えるのをやめてしまっているため。正確には、現に俺は〈俺〉である訳だから、「俺が〈俺〉である理由」が判明したとて、強く生きていく理由にはなり得なさそうだから。ファッション鬱は辛いね。
「なぜ悪いことをしてはいけないか」
という問いに対して、道徳とは何か、善悪とは何か、などを詰めながら進めていく。
道徳は価値判断の材料のようだが、価値判断という枠組み自体の中にも入れ込まれてしまっているのではないか?というようなことも書かれている。
特に面白かったのは
「実際になされる行為に心が伴わなければならないという規則はどこかいかがわしい、と僕は感じた。」P186
の部分。本書では偽善についてこの表現が為されていた。
対比として、自分は「偽浮気」というものを挙げたい。恋人がずっといなかった自分は、周りの人間に対して「俺は恋人がワンナイト浮気することについては何も文句がない。そういう日はあるだろうし、自分にも来るかもしれないし、本当に好きなのが自分であれば問題ない」という言説を吐いていた。(本当に好きとはどういう意味かはここでは置いておくとして。)
そう、心が伴っていなければ良いかなと思っていたのだ。まさに偽善に近いと思う。
ただ本書でそれは、「道徳的世界解釈」を持っているのか、「道徳外的世界解釈」を持っているのかという違いなのだという説明があり、かなり腑に落ちた。ニーチェの言う「弱者の倫理学」はここに潜んでいるのかと。というか弱者って表現で、俺は今まで社会的ステータスや能力が低いことをイメージしていたが、社会に不適合なことを示していると考えるとメチャクチャ響いた。(基本それは相関するのだろうが、自意識過剰かもしれないが、自分はやや外れていると思っている。イタくてあまり言いたくないが。)メチャクチャ俺弱者じゃん笑
※補足(間違ってそう)
道徳外的世界解釈を持っている人は、行われた行為が偽善によるものであろうと、結果が善(好ましいこと)なので当たり前に善であると感じる。なんなら、結果が善なのだから偽善ですらない。
しかし、道徳的世界解釈を持つ人は、行為の結果ではなく、弱者の道徳(おそらく道徳外的世界解釈と逆になるような指標)を基準に判断するため、偽善は偽善になってしまう。
でも俺が弱者で、周りが強者だからこそ、話がうまく通じないし、分かり合えなかったんだなと思う。そういう社会とのズレを真剣に考え続けるのが〈こども〉の哲学なんだってことらしいです。
感想終わってるけど興味あれば是非。