あらすじ
19世紀に誕生し、デュルケム、ヴェーバー、ジンメルという3人の天才によって基礎が作られた社会学。それより少し後に誕生した人類学。両者は多くの理論を共通して持ち、互いに参照する形で発展していった。しかし、人類学が「存在論的転回」を成し遂げる一方で、「前提の前提を問う思考=生態学的思考」を失った社会学は頽落していく。人類学者・奥野克巳を相手に、人類学に接近しつつある宮台思想の全貌が縦横無尽に語られる。社会学が失った思考を問い直す一冊。
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
人類学が誕生したのは、ヨーロッパの精神的土壌が荒廃したことを問い直し、人間であるとはいかなることかを探るためであった
→今も同じか
言語や慣習や様々な集合表象など、行為を支える①万人が踏まえる②自明かつ③非自然的な前提が「社会的事実」で、「社会的事実」を/が可能にするものを考察するのが「社会学」です。デュルケム
「不安の埋め合わせのための無意味な反復」図式
ヴェーバー
ヴェーバーに始まる人格・対・没人格
コミュニケーション論も
★強度と意味 宮台真司
真実らしき語りをした後、「知らんけど」「たまたま聴いただけや」と偶然性を持ち出し、自己を脱主体化する営みです。かくて、偶然を持ち出し、アイロニー化することで、マウンティングされたという体験を回避して連帯する。
ローティ
その人の行為は理解不能でも
その人の体験は理解可能
原因?
社会とは法生活
それ以前は尊王的生存戦略
ます。ブラジル・サッカーからドイツ・サッカーへの「勝てるサッカー」の移行は、予測符号化から言語的予測符号化(予期化)への移行、すなわち共同身体性の劣化に対応します。
→どっちが「楽しい」か
因みに共同体の定義が3つあります。ひとつはマッキーバーですが、ヴェーバーは「内は掟、外は法」という二重性、モースは「内は贈与、外は交換」という二重性
人々が理性的であれ、社会の動きは未規定」
という前提で社会学は生まれた
普遍の人類史から特殊な近代を見る社会学。特殊な近代から普遍の人類史を見る人類学。両者は近代批判の両輪です。
認識論は「どうしたらHow我々はこの社会で幸せになれるか」を問いますが、存在論は「なぜWhy我々はこんな社会を生きているのか」を問います。
★今の社会は特殊であるということ
大都市の自由と多様性に満ちた社交場の経営者はユダヤ人、同性愛者ヒルシュフェルトもユダヤ人、大都市への投資を支えたのもユダヤ金融資本だった事実が、大都市を除く大半の地域で「ドイツ的生活をユダヤ人がキャンセルしている」との喧伝にリアリティを与えました。
オピニオンリーダーは
メディアの情報を濾過する存在
ソーシャルキャピタルが減衰すると
メディア情報に晒され
民主制は壊れる
★
内から湧く自由 主意主義
選択肢の多い自由 主知主義
=良い社会を前提にしている
伝統を遡る思考こそが社会学
社会学は民主制を前提にしてはいけない
think differentの意訳
「君は間違っている」
競争しないという勝ち方の提示で革命的
テック革命
→資本主義と民主主義の幻覚の除去
★選択肢の多さは、自由にならないのでは。
それを選ばせる権力がいる時点で従属になる。
大事なのは、自分で作ること?
プラグマティストの「知識から動機付けへ」
★行為から体験へ 宮台真司
前提付け連関の全体性を理解するのがエコロジー
★ 社会学は、前提を遡って前提付け連関全体(生態系)を考究する生態学的思考として自らを定義
↓
民自主主義の民主主義的前提を問うはずの社会学が、民主主義を自明なものとした、のがアメリカ社会学の退廃
ヴァナキュラー 土着的
イリイチ
「文化はひとつ」。つまり万物は人(見る存在)とするアニミズムが普遍的。
唯物的な、多自然(視座)がある。
知識ではなく知恵
原始社会のもの
「他者の経験を真剣に受け取るtaking seriously」という態度
世界は万物
社会は連関生態系
Posted by ブクログ
音声では瞬時に意味を読み取れない単語も文字にするとわかりやすいし社会学史と人類学史を丁寧に繰り返し今ココに向けて解説してくれるので人類学と社会学の基本書として優れており筑摩書房及び500頁近い本書の編集に携わった方々は意義ある仕事を成し遂げたものと思いますが私の基礎学力が低すぎて全部を理解するには至りませんでした。
Posted by ブクログ
対談相手の奥野さんが言うように、「宮台思想の核心と射程」を掴みきれていいないのではないかと自問した。元宮台ファンとして。広大な学問領域を参照しながら、かなり圧縮した宮台語で、ざっくりと解説していく。圧巻だ。
本書の内容をざっくりまとめるのは到底無理だけれども、あえて強引にポイントをおさえておくなら
「近代という特殊に抗い、人類史的な普遍を回復する実践」(p455)ということだろう。
宮台語の「新住民化」が指し示すように、近代化が進んでシステム世界(市場と行政)に覆われてしまうと、人間は言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン化してしまう。そこに落ちる前に、「内から沸く力」にこだわるべし。
そして「火遊びバーン」に陥らず、「気分スッキリしない社会の、存続可能な作り変え」に向かえ、と(p457)。その通りだ。
そしてこの主張は、「終わりなき日常~」から続く宮台思想の通奏低音。革命なき時代を生きるわれわれの、最低限のリテラシーだったはずだ。最近では、國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』と共鳴する。
ただ、道筋は正しくとも、いざそのルートを進むのはとても難しい。いとも簡単にかき消される道なんだろう。
とはいえ、毎日新聞書評で橋爪大三郎さんが「社会学のオータニになりなさい」と絶賛したのも納得の内容だな。
Posted by ブクログ
毎度のことだが、宮台さんの本は難解。
いったい彼の頭の中はどうなっているのか。
社会学、人類学の歴史、経緯がずらずら出てくる。
読んでいても頭には届かない。
時々届く。
特に目を引いたのが、つい先日読んだばかりの「新しい階級社会」への言及。
宮台さんはこれを、
仕事にかかわる尊厳を保てる資本家&旧中間階級(自営業者)
仕事にかかわる尊厳を保てない新中間階級&労働者階級(正規・アンダークラス)
に二分される、と喝破した。
橋本によると、、、と宮台さんは言ってるけど、
そんなこと書いてあったかなあ。
そして私はこれに激しく同意。
父は旧中間階級、しかしこれは今の世の中ではほぼ死滅、
私はかろうじて新中間階級に生きているが、サラリーマンになった当初から今に至るまで、
居心地の悪さを感じてきた。
娘たちの独立、定年でやっと抜け出せる、旧中間階級・自営業者を目指そうとしている。
などなど、分かるところは読んでて楽しい。
それ以外でも男女のことなど、多少はわかるところもあったような。
あとは修行。
とりあえず目を通す。
五日分かる日が来るだろうか。494ページの分厚い新書。
Ⅰ 「等根源」であった社会学と人類学
第1講 社会学と人類学のオリジネータたちの時代
第2講 交差する社会学と人類学
第3講 アメリカ社会学が忘却した「前提」への問い
第4講 原的贈与を忘失した近代ヨーロッパ
Ⅱ 生態学的思考へ回帰する人類学的存在論
第5講 宮台思想の前提にある人類学的視座
第6講 前提を探る思考から宮台式存在論へ
第7講 認識論を超えて前提を問う存在論的思考
Ⅲ 人類史の根本まで遡ると見えてくる〈世界〉
第8講 社会の誕生から劣化まで
第9講 法生活の開始と没人格化の進行
第10講 古代ギリシア思想でとらえる社会と自然
第11講 これからの平等と自由を考える