あらすじ
「戦後」とは何か? 敗戦国が背負わなければならなかった「ねじれ」から、われわれはどのような可能性を受けとるべきなのか? 自国の戦死者への弔いが先か、被侵略国の犠牲者への謝罪が先か。発表後、大きな反響を巻き起こしたラディカルな議論の原点が蘇る。靖国問題や政治と文学について考えるための基本書。
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Posted by ブクログ
どうやって話しながら生きていけばいいのかを実際的に考えた本でした。
ここでは四人の文筆家が挙げられています。いずれも第二次世界大戦経験者です。すなわち、大岡昇平、太宰治、サリンジャー、ハンナ・アレントの四人です。
では、彼らは生き残ってしまったあと、どんな「語り口」を選んだのか?
まず大岡昇平は、戦争体験という「よごれ」を自覚し、ごまかさないことを選びました。たとえば彼は『俘虜記』にこう書きます。
広島市民とても私と同じ身から出た錆で死ぬのである。兵士となって以来、私はすべて自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情を失っている。
彼はどんな死者も超越化しない、そのことによって悼む、という方法をとり、またそのようにしかできませんでした。「自国の死者を悼み、そのことによって他国の死者を悼みはじめる」、という、加藤のいう「ねじれ」の体験への可能性をもった語り口ではありますが、この態度はやはり換算しきれない無限の個人の「よごれ」、その量によって超越化され、私たちに生きづらさを強いるでしょう。しかも私たちがその生きづらさに撞着してしまう可能性は充分にあります。
では太宰はどうだったのか。
彼は坂口安吾などと違い、決して、戦後になってから「戦中書かれるべきだった」書き方で戦中を書かなかった、と加藤は解釈しています。太宰は戦後には戦後のことだけを書いた。
私たちは間違った。間違いを信じた。加藤によればこの間違いこそ文学の可能性です。だから間違ってしまった後から間違いに気が付いていたかのような書き方をしてはいけない。その可能性の質が倫理的かどうかはここでは考えないけれど、間違うということを文学の可能性としています。
たとえば太宰は「トカトントン」を書いた。信じることのできなくなった青年を小説家は叱ります。私たちは間違える。それを「恐れる」のではなく「畏れろ」と。
この小説家の態度は、『ライ麦畑でつかまえて』のアントリーニ先生の態度です。青年を「未成熟な人間」とし、「卑小な生」を「高貴な死」に優先させる「成熟した人間」になれ、というあれです。
しかしこの態度の「正しさ」はなんと落ち着き払ったものでしょうか。ホールデン君はその「正しさ」をうけいれず、「The catcher in the rye」になりたいと言います。加藤はこう書きます。
ここでホールデンは、あの「何かを肯定すること」とはじめて出会っている。彼は、上方からくる「正しいこと」、「誤らないこと」によってではなく、むしろ下方からくる、より「誤りやすい」存在の手で、一つの肯定を摑む。あのゲヘナの苦しみにみちた勇気に対し、もう一つの秤におかれるのは、弱い倫理、ちゃらんぽらんな受け答えにささえららえた、この「誤りうること」の勇気なのである。
「語り口の問題」では、『イェルサレムのアイヒマン』を書いたハンナ・アレントの「語り口」が「同胞への同情に欠ける」というショーレムと、ハンナ・アレントの論争を契機にして、アレントの「語り口」を問題にしています。アレントの語り口とは次のような嫌味っぽいものです。
ブーバーのように単に知名であるのみかきわめて高い知性を持った人が、このように喧伝される罪責感などというものは事の必然としていかに作為的なものであるかということを見ていなかったとすれば不思議である。何も悪いことをしていないときに罪責を感ずるというのはまことに人を満足させるものなのだ。何と高潔なことか!…むしろ現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性へ逃れようとしているのである。
ではなぜアレントはそのような「語り口」を選んだのか? それは一口にいって、「共同性」から「公共性」に至るためだったとされます。
私的な「愛」から公共的「友愛」へ。加藤はここに、「日本三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジア二千万の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道」への可能性を見出しています。
私たちが「よごれ」ている以上、私的な「愛」は私たちをいやおうなく「分裂」させる、と加藤はいいます。しかし「共同性」と「公共性」は、ほんとうに異なるのか?加藤はその疑問に対し、「あとがき」でこういっています。
しかし、たとえ国民という考え方が、これに立ってものごとを考えていくと、最後、ナショナルなものに取り込まれることになるとしても、また、主体という考え方に立つことがすでにして、ネーションあるいは国民共同体の法への恭順になり、主体の形而上学に陥ることだとしても、しかし、わたし達は、この道を、この道がこのような危険をもつということを組み込んだうえで、この順序で、進んでいくのがいい。そしてそれが現実の問題として現れたら、そこで、これを解決するのがいいのである。
加藤はこのように「誤りうる形」を信じようといいます。しかしここでは、「誤りうる形」を信じることと、じっさいに「誤る」こと(=それが現実の問題として現れる)ことは、別の事態だとされているのです。
これがどういうことなのかを理解しないと、わたし達がこのような道を実際に生きることはできませんが、無限の他者へつねにすでに負う責任にとらわれて生きることにやはり鳥肌の立つ思いがする私は、「誤りうる形を信じつつ実際には誤らない」という可能性、このオイシイ話をぜひ受け入れたい。しかしそれがどうして可能なのか、そんなオイシイ話が本当にありえるのかは、まだわかりません。
そのような、卑怯とされ、実際的だと私の信じるオイシイ生き方を、ぜひ実践するために、私はリチャード・ローティを読みたいと思いました。リベラル・アイロニスト、公的にはリベラルでありながら私的ではアイロニカルであることがありえると主張する(と聞きかじった)思想家の話に、耳をかたむけることで、ぜひ幸せに生きていきたい、強く生きていきたいと思うのです。