あらすじ
2007年は中原中也生誕百年、没後70年の記念すべき年。中原中也の詩業が全て見渡せる、文庫で初の画期的1冊本全詩集が誕生。この1冊で、詩人として生き、詩人として逝った新しい中也が発見できる。※本作品は紙版の書籍から口絵または挿絵の一部、解説が未収録となっています。あらかじめご了承ください。
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Posted by ブクログ
人の性格が数種類に異なるように、文学のあり方も幾通りかあるだろう。例えば、活力に満ちた起伏のある物語もあれば、静的で浮き沈みのない、人生を冷静に観察する物語もある。夢想を語るものもあれば、美に耽るものもある。文学は、書き手の性格と発想のスタイルが作り出したものではないか。◆私が勝手に名づけている文学スタイルの一つに「自己言及」がある。自分の内面に沈潜し、闇に閉じこもり、やっと出てきた言葉を紡ぐ時、その言葉は、もはや闇を纏わず、光を発する言葉となって、聞く人を勇気づける。中原中也はその典型だ。例えばこの詩。「あゝ、おまへはなにをして来たのだと/吹き来る風が私に云ふ」(「帰郷」)。◆詩人は元来自己言及するものだと言えばそれまでだが、彼ほど自分そのものを憐み嘆き、揶揄し皮肉り、あるいは突き放す詩人もいない。「ホラホラ、これが僕の骨だ/ヌツクと出た、骨の尖(さき)。/見てゐるのは僕? 可笑しなことだ」(「骨」)。◆自己言及の文学は、自己を題材とするが故の過酷さがある。しかし中原は「詩人」だった。詩にはリズムがある。歌がある。中原は自らの悲痛をも軽やかに歌に乗せた。「馬車も通れば、電車も通る。まことに人生、花嫁御寮」(「春日狂想」)。三〇歳での死を目前に控えた詩にこれほどまでに諧謔の哀しみがある。これが「自己言及」の文学だ。◆ところで、現代の「自己言及」の文学は「スキマスイッチ」ではないか。「今、ぼくの中にある言葉のかけら/喉の奥 鋭く尖って突き刺さる」(「ボクノート」)(K)
紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉2011年3月号掲載