あらすじ
NHK大河『豊臣兄弟!』が
血でつながるか、家でつながるか――。
天皇から武士、戦国大名、そして明治の元勲まで、日本の歴史は「血縁」と「家」のせめぎあいの連続でした。
本書では、平安貴族の婚姻制度から鎌倉幕府を支えた「平氏」たちの実像、室町・戦国時代の大名の家の論理、江戸の格式社会、そして明治維新後の華族制度までを縦断し、日本人がどのように「血」と「家」で権力を組み立ててきたかを読み解きます。
ときに「血ではなく家だ!」と叫ばれ、ときに「万世一系」の神話が強調される。血筋にこだわる日本の姿と、それを相対化するダイナミズムの両方が浮かび上がります。
さらに、本書は2026年放送予定のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』とも響き合います。豊臣秀吉と弟・秀長の関係をはじめ、歴史の中心にいた人物たちの「家族関係」や「血縁」が、いかに時代を動かしてきたのか――。その知られざる力学を、本郷和人先生が軽妙かつ鋭く描き出します。
「血縁」という視点から読むと、日本史はここまで面白くなる!
これまでの定説を揺るがす発見と、人間くさいドラマに満ちた一冊です。
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Posted by ブクログ
本郷氏の最新本で、彼の本はこれで39冊目となります。新しい本が出るたびに興味ある視点で書かれていて楽しみです。今年のNHK大河ドラマは、豊臣秀長に焦点が当たる様ですね、豊臣秀長の存在を初めて知ったのは、数十年前に読んだ「堺屋太一氏」の本です、秀長が秀吉を長い間支援してきたことは知っていましたが、それ以外の兄弟には冷たい対応をしていたことは初めて知りました。
世の中が激動の時と、平和な時で、日本は様々な考え方が交互に支配していた様です、現在は、平和から激動へ移り変わっていると思います、これからの日本を見ていく上で、覚悟をしなければならない時期に来ていると感じました。
以下は気になったポイントです。
・ 豊臣秀長は秀吉にとって単なる弟ではなく、政権を安定させるために不可欠な存在であり、豊臣家にとって生かすべき「資産」であった。逆に言えば 情愛による保護ではなく、 権力の計算によってその生死が分かれていた、 それが戦国時代の現実であった(p5)
・「血脈」と「 家」 は 人々の人生を規定する強力な力であった、 どの家に生まれるかが将来を大きく左右し、 血筋の有無がその人の価値を決める。 だからこそ時に兄弟同士の激しい対立や 粛清を生み出した。 しかし 同時にそれは国家の安定や 社会秩序を支える制度でもあった。 この構造は 近代に入っても色濃く残った、 明治政府は 家族制度を設け、 血脈と家格を序列化して新しい国家体制に組み込んだ。 また戸籍制度は全ての国民を「家」に所属させ、家を単位とした統制を可能にした(p7)
・苗字とは 現在のファミリーネームに相当し 家の名前 すなわち 家名である、「氏」は名字 と考えられがちだが、歴史的には 古代の豪族や一族を指し 血縁や 政治的集団を表すものであった。 しかし 氏は後に「 苗字」 とほぼ同義で使われるようになっている(p27)
・ 中臣鎌足の死後、 その子供で不比等も「 藤原」を 名乗るようになる、 当初は 鎌足のいとこに当たる数名 も同じく 藤原を名乗っていたが、 朝廷の神事を 代々 取り仕切ってきた 中臣を絶やすわけにはいかないという事情から彼らは ほどなく 元の も名へ戻された。 結果として 新しい 藤原の名を背負い続けたのは、不比等ただ一人であった(p29)
・八色の姓は、上から順に、真人・朝臣・宿禰(sukune)・臣・連などがあったが、 最終的には「朝臣」のみが突出して残ることになる。理由の一つは、 多くの有力な種族が朝廷に貢献した 見返りとして 朝臣の姓を授けられたから(p32)
・ 源平藤橘の中で朝廷の中で「藤原」が増え過ぎた、これでは不便だということになり、藤原氏の中にある家ごとに名前を呼び分ける必要が生じた。これが現在の「苗字」の始まりとされている(p33)
・ 藤原道長は「ふじわら”の”みちなが」と呼ばれ、 名前の中に「の」 が入ることが多い、ところが 氏から苗字で呼ばれる時代になると「の」は消える 、氏を名乗るか、苗字を名乗るかは時代による違いがあった(p34)
・ 氏族の中でも、本家筋に当たる人々は朝廷と結びつきを維持して自らの氏である「平・源」を 名乗り続ける、 しかし地方に根を張った一族は「伊豆の 北条」「 相模の三浦」といった具合に、領地の地名を冠した家名を 生み出していった。 こうして 領地に結びついた家名を基盤とした武家社会の「家」という枠組みが成立した(p36)
・ 諱はその人の本名であるが、 本来「忌み名」と書くように人前では軽々しく口にしてはならないもの、 現在のように誰からも 公然と呼ばれるものではない。 おそらく 当時は名前には霊力が宿ると考えられていたためである。 上の立場のものが自分より下の立場の人間の「諱」を呼ぶことは ヨシとされていたが、 同じ立場の人間や部下が 「諱」 を呼ぶことは大変無礼であった。その代わりに呼びかけに使われたのが「通称」であった、 通称は同じ立場や目下の人間であっても上の人に対して気軽に呼ぶことが許されていた(p37)
・ 夫の苗字を名乗ることは、女性にとって単なる制度上の変化ではなかったのかもしれない、 これでやっと実家から離れられると安堵した女性も少なからずいたのではないか(p55)
・ 天皇に即位できるような 適齢の成人男性が 皇室におらず、次の天皇 候補がまだ幼い時代も起こり得る、 その場合、天皇 候補の男児の母親や姉が、 女帝として皇位につくことはあった。その常識を破った女帝が一人だけいる それが孝謙天皇であった、両親である 聖武天皇と光明高校の一人娘であり、 歴史上女性で唯一「 皇太子」を経て即位した人物である(p61)
・遊牧民 社会では 上の子供から順に独立して家畜を分け与えられるため、 最後に残った末子が家を作るという形が自然に生まれた(p71)
・ 同じ 平氏にもかかわらず自分たちの「主」は自分たちの声に耳を傾けてくれないし 動いてくれない、そんな 忸怩たる思いを抱えていたからこそ、 一所懸命の平氏たちは、 自分たちの言葉を代弁してくれる代表を探そうと努力する、 その結果 たどり着いたのが平氏と同じく 由緒正しい「氏」 を持つ、源頼朝というリーダであった(p77)
・1180年から85年に起こった治承・寿永の乱が「 源平の戦い」と呼ばれるように、 歴史上 源氏と兵士が対立していたと考えがちだが、それは実態とは異なる。「 常上(朝廷の殿上間に昇殿するする資格を持っていた)平氏+続いて身分が上であるとされた軍事貴族の平氏vs源頼朝+在地領主の平氏」の方が実態の構図である(p78)
・南部の拠点である青森県八戸と、 南部家に流れを汲む家に生まれ青森県弘前あたりで大名になると宣言した「大浦氏」が名前を改めて「津軽」の本拠地である弘前はずっと仲が悪く、今での両者の遺恨は続いていると囁かれている(p92)
・ 注目すべきは北条家が官位において徹底して「四位」で止めていたことである、 三位以上の公卿に登れば中央 貴族と肩を並べることになるが 北条家はあえてそこに踏み込まなかった、武士の立場を超えず 形式的には「貴族の下」に位置することを選んだ(p117)
・ 本気に準ずる 名門から嫁いできた女性の家が没落してしまうと、 それまで 跡継ぎとされていた長男の立場が揺らぐことがある。 新たに勢いを得た名門の家から 次男 や 三男の嫁として迎えられるとその女性が生んだ子が新しい 跡継ぎに選ばれる。 跡継ぎから外された長男を ただ 放り出すわけにはいかないので、代わりに領地や財産を分与する、 こうして成立したのが 足利家に対する、吉良家・今川家であった (p144)
・ 父を誅殺された伊集院忠真は、激怒し、 宮城県の都城 で 庄内の乱 という反乱を起こした、この軍勢が強力で 島津家は鎮圧に 多いに手間取った、その影響で 島津家は関ヶ原の戦いに十分な 兵を送ることができなくなり、 本来なら1万以上の兵を出せる力を持ちながら実際に送り出せたのは 2000程度にとどまった(p159)
・下克上は戦国時代といえども 数は多くない、 著者が知る限り最も成功した 下克上を果たした人物は、 肥前佐賀藩を納めた鍋島直茂 である、 秀吉が天下取りに必要な要素としてあげたのが、勇気・知恵 ・大気であった。大気とは、健全な野心である。秀吉は三要素のうち2つを持っていた人物が3人いるとした、直江兼続・ 小早川隆景・ 鍋島直茂 であった(p161) 動乱の時代であっても 、日本では下克上 よりも「 家臣も総出で 世襲の家をつなぐこと」が優先されていた。 日本という国は下克上を本当の意味で成し遂げる エネルギーに乏しい 社会であり、 世襲という力が圧倒的に大きかった(p165)
・ 系図には縦書きと横書きがあるが、古い系図 ほど 縦に書かれている(p180)
・ 秀長 非凡な人物ではあったが、何よりも 兄より一歩引いてわきまえて振る舞うことを心得ていた、 その姿勢があったからこそ 秀吉から 布教を買うこともなく生かされたのである(p200) 秀吉が大切にしたから 秀長は優れた人物だったというよりも、大切にされてたという事実が 秀長が秀吉にとって役に立つ人間だった証拠である(p201)
・なぜ日本では世襲が成立したのか、 それは日本が歴史的に見ても非常に「ゆるい社会」であったからである。 ゆるい 社会が継続できた理由は、 戦争や侵略に追い立てることの少ない 比較的穏やかな環境にあった 、また自然環境も温暖で過ごしやすいのも日本の特徴である(p225)
・ 日本で中華帝国を 模範とした 律令国家の形成がうまくいかなかった大きな理由は、日本には中国のような精緻な 官僚制度を支える、文化的基盤・運輸通信システムが欠けていた 、中国で 律令を支えた 慣習法・ 道徳 率が日本には当時 ほとんど存在していなかった(p231)
2026年1月3日読破
2026年1月3日作成