あらすじ
現代思想の問いは、言葉の問題に収斂する。世界を分節し、文化を形成する「言葉」は無意識の深みで、どのように流動しているのか? 光の輝き(ロゴス)と闇の豊饒(パトス)が混交する無限の領域を探照する知的冒険の書。(講談社現代新書)
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Posted by ブクログ
読み終えてみると、なるほど納得のタイトルと内容。ベースにある部分の話から、文化にまで話が派生する。思想を具体的に昇華するといえばいいのだろうか。ソシュールをベースにロラン・バルトが主にテキストや映像で展開したことの文化や生活観といった日常的な枠に反映させたものといえばいいかもしれない。芸術が、やや特殊、特別なことだという感じが拭えない中で(それが世間一般にとってごく自然な日常の活動になれば別だけど)文化や生活の観点から再認識する丸山圭三郎の語りはビフォーアフターのある読書になると思う。わかっていそうで留保していない、このソシュールベースの感覚は個人的には、いい意味で感覚をアンロックしてくれた気がする。
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言語学と心理学を繋いだ中間領域における既存研究の概説書のようなものだと思って買ったが、実際は思想書であった。予想外ではあったが、思想書だけあって掘り下げは深いし著者の熱量は感じられるしで大変面白かった。晩年の書ということで、著者の思想の総括的内容といえるのかもしれない。ソシュールの言語学を礎に言葉というものの考察から人間の精神活動および文化活動を統括的に説明し、西欧的科学合理主義を乗り越えようとするもので、個人的には結構ありかなと思えた。言葉の考察からここまで言えるのかとひとえに感動した。意識内だけに留まらず、意識外との関係にまで踏み込んでいるところが凄い(タイトルにある無意識も一般的用法と違ってこの意識外を指している)。卑近なところでは、精神病についても意識を形成する(というか意識そのものである)言葉という視点から捉え直していて興味深い。特に「均衡のとれた社会的人格を強制するのが治療であるとすれば、これは治療というよりは科学による新たな抑圧であるといわねばならないだろう。」との強烈な批判は一考に値するのではないかと思った。
という具合に興味深く刺激的な内容で満足しているが、やっぱり難しかった。特に3章と4章は読むのにかなり時間がかかった。新書だからと侮ってはいけない。
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ソシュール研究の第一人者である氏の言語論の入門書。ソシュールの言語論の発生論やそれと東洋哲学との接点などを平易かつコンパクトに説明しています。
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[ 内容 ]
現代思想の問いは、言葉の問題に収斂する。
世界を分節し、文化を形成する「言葉」は無意識の深みで、どのように流動しているのか?
光の輝きと闇の豊饒が混交する無限の領域を探照する知的冒険の書。
[ 目次 ]
1 情念という名の言葉?ロゴスとパトス(ロゴスと言葉;属性と考えられたパトス;ロゴスの重層性)
2 ソシュール・人と思想(西欧における言語観の変遷;ソシュールの生涯;一般言語学理論)
3 アナグラムの謎(アナグラムとは何か;詩法としての〈音〉の法則;深層意識の働き;複数の主体〈私〉=〈他者〉)
4 無意識の復権(非合理的なもの;無意識と身体;人間存在の重層性)
5 文化と言葉と無意識(心身を蝕む〈物〉信仰;無意識の解放)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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言語学の地平を開いたソシュールを読み解き、言語文化をめぐって独自の思索を展開した丸山圭三郎晩年の刺激的な一冊。「言葉・狂気・エロス―無意識の深みにうごめくもの」同様、翻訳という一種の言葉の格闘をしていて、ふっと我に返るとき、自分の無意識の領野に広がることばの宇宙を見つめ直すためにひもとく本です。新書だと思ってあなどれないです。
Posted by ブクログ
丸山圭三郎。大学2年?時のゼミ参考文献。ソシュール、言語学、記号学に関する書籍は無尽蔵に出ていますので、まずは入門書と合わせてまずはこれを読んでおくと安心。日本人でここまで掘り下げている人は少ないらしい(教授曰く)。間違いなく薦められる良書。丸山圭三郎という単語を知っていること自体が一目置かれるはず。
Posted by ブクログ
丸山圭三郎。ソシュール研究の第一人者。戦前の生まれ。本物のインテリといった感じ。
中盤で例示されるものが、ラテン語の詩、墓碑銘、演劇論、百人一首から、歌謡曲まで…とてもじゃないが、ついていけない。
現代の知識人だったら、漫画とかアニメとかの例示をしがちだと思う…
「表層の言葉には、深層・無意識の言葉の連鎖反応が現れる」というような部分は、フリースタイルラップを思い出し、理解が進む。
表層の意識が主体的に考えているのではなく、ライミングという言葉の連鎖のほうが、むしろ思考内容を牽引している。
そして、辞書で勉強して、意識的に仕入れた単語が、即興フリースタイルの場で、無意識を駆動させる。
この本の内容全般を通しても、おおむね、そのようなことを主張しているように思う。
これまで「無意識」という語を聞くと、なにかモヤモヤしたもののイメージしかなかった。
というか、頭の中で「言語化されてないもの」というイメージだった。「言語化されてない」がゆえに、思考の議題に上がらないもの。
この本のテーマの中核は、ざっくり言うと「無意識もまた、言語が生み出している」
異性の属性(職業など)に、性的な衝動をおぼえるのは、誰にでもよくある話だ。
しかし、これは明らかに、言語活動が生み出した欲望である。職業に発情する動物はいないのだ。
言語が、無意識を生み出している好例だ。
Posted by ブクログ
「言葉はどうやって習得されるのか」この本を読んで、改めて考えさせられた。
概念説明などはやや専門的でわかりにくいところもあるが、筆者が遭遇した電車内での子どものエピソードは実に微笑ましい。「ママ、デンシャって人間?お人形?」
こんな素朴な質問が言葉の概念の真髄を言い得ているのではないだろうか。「人間=動く、やわらかい」「人形=動かない、固い」、じゃ「動く&固い デンシャはどっち?」 という質問になるわけだ。幼い子どもの質問を意味のないこととしてしまうのは簡単だが、新しいカテゴリーの理解に困難を伴うというプロセスは語学習得を考える上で、必要な観点だと思う。
Posted by ブクログ
『ソシュールの思想』など日本のソシュール研究のたぶん第一人者である丸山圭三郎が「言葉」と「無意識」について切り込んだもの。1987年の著作なので、ずいぶんと古いが、非常に魅力的なテーマのように思えたので読む。
だが、やや期待外れ。たとえばソシュールのアナグラムを高く評価するが、共感できない。ラカンの「言葉こそが無意識の条件である。言葉が無意識を作り出すのだ」という言葉を紹介しているが、その主題となるべき無意識のテーマへの切り込みが浅いという印象を受ける。最近読んだジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』にも通底するような無意識に関する新しい視点が得られるかもなという期待もあったのだが、少なくともその点はダメだった。
Posted by ブクログ
第一章が難しかったけれど第二章からついていけました。なんとか。
意識の深層に、制度や秩序を超えて流動的に動く力があるのではないか、
それは従来の政治学が捉えられない目に見えない
「政治的なもの」があるかもってところが
東浩紀さんの『一般意志2.0』に繋がったりもした。
しかし、総じて、この本は言語学者で構造主義の父と呼ばれる
ソシュールを中心にした言語論です。
それもチョムスキーなどが扱う表層の言語論ではなくて、
言葉の生まれる深淵までをも覗きみるタイプの言語学のやり方です。
表層の言葉、すなわちぼくらが口にしたり書いたりして、
意識に上らせて使っているタイプの言葉を「ラング」といい、
表層に行くまでの、もごもごしたかたまりのような、
意味をあらわす言語の種をふくんだもの、
わかりやすくいえば無意識の中にあるような言語的なものを
「ランガージュ」と名付けて区別していました。
この「ランガージュ」は厳密には意識上にもあるんですよね。
一つの言葉の意味するものの周りを漂う、
雰囲気みたいなものがきっと「ランガージュ」だと思います。
このランガージュという考えを受けたうえで、
著者は、フロイトやユングの精神分析の話にも移っていきます。
本のタイトルにも「無意識」という言葉がはいっているくらいですから。
それで、でてきました、無意識の意識化の話です。
このブログの常連さんならば「読んだことがあるかも」
と思ってくださる方もいらっしゃるでしょうけれども、
かつてユングの本を読んだときにそこから読み取った考えが
無意識の意識化でした。
無意識を意識化していくことによって、
日常生活や幼少期に受けてきた抑圧から、
自らを解放することができるのではないか、という考えです。
そうすることで、ストレスなどの多い現代において、
精神面で病んでしまうことが減るように、
もっと言えば、病んでしまった心が癒えるように、とする考えです。
本書においては、
まず、カタルシスにおける無意識の意識化について述べられます。
演劇や文学、映画などに触れることで、その悲劇的な内容にもかかわらず、
そのクライマックスでサーっと気持ちが浄化される。
それは、無意識にあって言語化や意識化をされないでいたものが、
外部に表現されたものによって意識上に汲みあげられたことによる
意識化があったという図式になります。
そして、さらに深い意識化でいえば、昇華があげられていました。
昇華の考えはそれまでの僕のよりも幾分クリアでした。
たとえば、内部にマグマのようにある性欲動というものを、
性的な形ではなく、代表的な形では、
作品作りなどの創作的なもので外部に出すという意識化を昇華と呼び、
無意識の意識化のやり方においても、よりダイナミックなものだとされている。
こういった行いによって、病的になりがちな現代で、
心の平静を少しでも手に入れることができるのではないかと思われるのです。
それにしても、30年近く前の本だけれど、
その高い知性の人が(東大文学部卒業で中央大学教授など歴任。故人)
結論付けた考えを今のおいらも独自に育てたアイデアとして
(ユングで気づいたわけだけど)持っているというのは、
おいらのアタマもそんなに悪いもんじゃないぞと思わせられることでした。
卑屈になることないんだよね。きっと多くの人がそうだろうと思います。
卑屈になってちゃ、アタマもよく働きません。
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ソシュールの一般言語学講義ではなく、アナグラム研究を素材として、ロゴスとパトスの問題から治療論にまで至る野心的試みで、新書には収まりきらない密度。各界からの引用も豊富で十分な刺激を与えられる。岸田秀の「コンプレックス」に関するこういう見解は今まで知らなかったが、これは早速頂きである。
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ロゴスとは、名づけるることによって異なるものを一つのカテゴリーにとりあつめ世界を有意味化する根源的な存在喚起力として捉えられていた。ギリシャ語のパトスは、ふつう<情念>と訳されるが、これは同時に、一見全くことなった概念と思われそうな<受けること、被ること>ひいとは<受苦>や<受難>という意味を持っていた。孔子は「知る者は好むものに及ばず、好む者は喜ぶものに及ばない」と言っていたが、「読み、書き、生きる」行為が一つに重なる私たちの深層意識においては、ロゴスはパトスであり、パトスはロゴスであるからだ。
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はっきり言っていろいろ難しすぎて何を書いていいのかわからない。
一部は、凡人からすると著者は妄想に捕らわれているんじゃないかと思うくらいだった。
ロゴス(理性)とパトス(情念)の二分として、現実を捉えてきた哲学(?)の歴史とかそのへんは勉強になった。
とにかく、自分の意見がうまく言えない。著者は何を一番言いたかったんだろうな。無意識によって人に普遍的に生み出される言葉もある、ということだろうか。
Posted by ブクログ
スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール。彼の人生とその業績を追いながら、「言葉・言語」のメカニズムを探る良書。「記号表現(シニフィアン)」「記号内容(シニフィエ)」「ランガージュ」「ラング」「パロール」「恣意的」「差異」、様々な言語学にまつわる用語が出てきますが、この本を読めば、「言葉」について大変理解が深まるものと思われる。わかりやすい具体例が魅力的!
個人的に、晩年彼が興味を持つこととなった「アナグラム(言葉遊びの一種)」に関する記述が面白かったです。ただ、タイトルのその名にし負う「無意識」についての記述が少なかったように思われます。
Posted by ブクログ
読む前は4章「無意識の復権」に興味があったが、ラカンに絡めての説明のため、挫折気味になりつつなんとか読み進めた感じ。
動物と人間の差異を知ることによって何が明らかになるのかどうかは自分はよくわからないが、どうもにもうまく理解できなかった。
最終章は新書らしくてよかった。
Posted by ブクログ
眼に見えないモノこそ大切だ。眼に見えるものしか信望しないとすれば、表層にしか、批判する視野の狭い人になてしまうだろう。
言葉の裏にあるものが言葉なのだとすれば、見えないモノを見るというのは、ただ、そういう見えないモノを、意識するという事になるのだろうか。
確かに、認識という行為においては、言葉主義なのかもしれない。でも、言葉が総ての世界構築になっている訳でもない。なぜなら、人間が、認識出来る世界というのは、宿命的に、極小の世界であり、極小の世界が総てではないからだ。遥か宇宙の果てというのは、人間の認識の上では永遠に捉える事のできない真実だ。
それに認識という行為の汎用性も、またまた疑問に残る所である。想像と認識の差異はどれくらいのものだろうか。また、今、自分たちが認識している世界は、果たしてどれくらい真実味があるのだろうか。
この本では、プラトン、アリストテレス的な世界認識が限界に来ているというが、みやすけの感覚でいえば、今こそ、プラトン、アリストテレス的な思想が必要な時期ではないかと思う。それは、科学的な面と、認識の面での、二面性を持った内の、認識の面での、彼らの思想は、まだまだ生きていると思うからだ。
認識とは何か、想像との差異は、どこからくるのか。はたまた、人間が言葉という一つの生理に縛られているとすれば、言葉によるコミュニケーション、認識、分別を介さない存在にとって認識とは何か。それは、プラトン的にいえば、イデア思想の反復であると思う。
Posted by ブクログ
一言で言えば、ソシュールをフロイトに橋渡しするような試みの本です。理性/感性という西洋では伝統的な二分論を批判し、無意識から言葉が生じるダイナミックな運動として捉えようとしています。
非常に面白い指摘も多いのですが、残念なのは抽象的な概念を羅列したロジックの部分については文意が読み取りにくく、新書と言う形態なのでもう少し分かりやすく解説してほしかったと思います。