【感想・ネタバレ】歴史小説のウソのレビュー

あらすじ

歴史小説を読んで、「自分もこんなふうに生きよう」とか「この過ちを繰り返してはいけない」と思ったことはありますか? なぜ私たちは、創作物の中に歴史の真実があると感じるのでしょうか。その秘密は、歴史と歴史学と歴史小説のもつれた関係にありました。人気歴史小説家が「真実」を創り出す手口を種明かし! 小説にも漫画にも映画にも騙されず、自分の歴史観を持とう 【目次】はじめに/第一章 歴史は物語なのか/第二章 歴史小説のウソ/第三章 歴史小説と史観/おわりに

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Posted by ブクログ

歴史学と歴史小説の違いを歴史学を学んだ歴史小説家が書く、説得力がちがう。大河ドラマ見てる人には歴史フィクションのウソのつきかたがわかるのでとてもおすすめ。

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2026年06月12日

Posted by ブクログ

2026.03.03〜03.08

私は歴史小説があまり好きではない。読まないわけでないが、途中で読むことを放棄してしまうことが多い。
その理由が本書を読んで、ちょっと理解できた。
人間の真実が、歴史小説に出てくる人間の真実が、私とかけ離れている、らしい。時代の真実は受け入れることができるのだが。
史観を、主観を持って、歴史家として、これからも色々な時代を知っていこう、過去と対話が出来たら、と思う。

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2026年03月08日

Posted by ブクログ

ネタバレ

「はじめに」
歴史小説と歴史学の違いを挙げた。歴史小説の対象は人間で「どの時代でも変わらない」、歴史学の対象は時代で「今とはこう違う」。とはいえ実際はどちらも意図的に混じる/混ぜると。

「第一章 歴史は物語なのか」
歴史の記述というか文書の特性を挙げる。当然ながら一次文献であっても主観が入り、誇張やウソが紛れ込む。また近世以前では歴史と物語とが分けられていない。ここで歴史学の創始者ランケが実証主義を持ち込み、歴史を「歴史学」に変えたことを紹介。つまり文学との境界が曖昧だった歴史を科学としての歴史学へと変えた。とはいえ歴史学となると歴史のワクワクが減ってしまったとも言え、それに応えるのが歴史小説、とも言えると。

「第二章 歴史小説のウソ」
歴史学には会話文が無い。会話文は歴史小説の専売特許。人物の心の動きについても歴史小説なら書けるが歴史学では書けない。「本能寺の変」の歴史小説は多いが、歴史学での研究意義が見出しにくい。やるとすれば政治構造分析か。「なぜ明智光秀は謀反を起こしたのか」は歴史学では答えられない。
なお歴史小説を書く上で調べる文献は二次文献が大半。一次文献だけではその文献の読み方さえ分からないし誤読する。先学の調べたことを利用するのは当然。史料(=一次文献)として例えばナレーション史料。ただし文学的要素も多くてウソだらけ、また「勝者の歴史」でもある。法律、裁判記録、行政文書(戸籍・出納簿・議事録)などはウソが少なめ。手紙は美化する必要がないのでウソが少ないが、しかし公開前提や途中で読まれること前提の手紙の取扱は注意を要する。
歴史小説の読者は現代人なので、現代人の共感を生むよう書く必要がある。しかし歴史小説の時代と現代では価値観が異なることも多い。特に人権。そこで宗教や信仰を使って現代人の価値観に近い視点を生み出すようにしていると。

「第三章 歴史小説と史観」
先に結論を書くと「自分なりの史観を持てば「歴史小説のウソ」に惑わされない」。
史観/歴史観は広辞苑によると「歴史的世界の構造やその発展についての一つの体系的な見方」。時代区分の「古代・中世・近代」も一種の史観で「悪い中世」と「良い古代・良い近代」。
歴史学以前の歴史には文学的要素が混じり、またイデオロギーの要素が含まれている。先にイデオロギーありきで歴史を描くことも多い。ただし科学的であるとの前提に立つ歴史学でもイデオロギーが含まれることがある。そしてこのイデオロギーが史観を打ち出すことがある。良い悪いの基準が先にあり、それを時代に当てはめる、これでは物語であり伝説であり、聖典にもなる。
近代でも「唯物史観」「皇国史観」などイデオロギーが先にある史観が力を持った。しかしイデオロギーは論に過ぎず、それを支えるために歴史の力を借りた。皇国史観の大元は水戸藩の尊皇イデオロギー。そのために水戸光圀は「大日本史」編纂に力を注いだ。敗戦により皇国史観が打ちのめされ、しかし日本は前に進む活力となる史観を求めた。ここで出てきたのが、歴史小説であり司馬遼太郎であり「司馬史観」であると。しかし歴史小説にはウソが含まれる。そのウソにより読者を信じさせることができてしまう。(もしもイデオロギーによるウソが…。)
さて史観は歴史学が出すべきものなのか。判断を伴うので科学的ではない。よって史観を打ち出すことができるのは(前近代的)歴史家ではないか。歴史小説家でも歴史学者でも、史観を持つときは歴史家だと。もちろん読者も歴史家。史観は他人から与えられるものではなく、自分の頭で考えて、自分なりのものを作り上げていくことが大事。


第三章の史観の話は、一読しただけではうまく腑に落ちなかった(というか理解出来なかった)ので、私の理解を含めて書きながら腹にすえてみた。納得できた。
書名「歴史小説のウソ」よりも大きい内容の本でした。なお「おわりに」はぜひご一読頂きたいので、ここでは取り上げません。

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2026年01月26日

Posted by ブクログ

著者の歴史小説は実はあまり好みではないのだけど、この本は面白く読めた。
日ごろ気軽なエンタメとして消費しているのが申し訳なくなるくらい、歴史小説を書くのって大変なんだなと思わされた。実在の人物を主人公にする時は全ての二次資料を読むと当然のごとく書かれていて、考えてみれば当たり前かもしれないけどすごい。ところどころに挟まれる歴史蘊蓄も面白い。
私は著者よりは少し歳下だが同じような時代に生きてきたせいか、「おわりに」に書かれた内容は正に我が意を得たりで深く共感したのだが、あんまり声高にはこんなことを言えない雰囲気がある。若い人たちが読んだらどう感じるのか聞いてみたい。

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2026年06月04日

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歴史小説家は、人を描く、歴史学者は、サイエンスとして歴史を事実に基づいて分析する。
誰もが、歴史家になってよい。歴史家は、今の時代をいい時代か悪い時代か、自分の価値観で判断する。
歴史とは、対話だ。イデオロギーも、歴史なくして強くなることは、できない。という内容でした。
著者の作品は、とても好きなので、小説を書く際のやり方が分かり面白かった。
どんな時代でも人は、変わらないものがあると思って小説を書いているが、そうでなくなってきている。戦争がいつまでもある、結婚や子供をもつことを望まないという人たちが増えている。との著者のあとがき。それも大きな流れでいえば、それほどの変化じゃない気がした。面白かったです。

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2026年02月17日

Posted by ブクログ

 最初は延々と歴史学者と歴史小説家の違い、歴史との向き合い方、事実と創造の区別など、あまり興味がないテーマだったので、とりあえず読み通すことが目的で読んできたが、『史観』の話題が出てきたところから俄然面白くなり、最後はズシリと重い言葉を投げかけられて、受け止めきれずにいる。
 司馬史観、皇国史観、唯物史観、いろいろな史観が提示されてきたが、歴史小説歴史書を好んで読むならば、自分なりの史観を持つべきであると。そして佐藤氏が30年余にわたり歴史を書き続けてきてたどり着いた真理とは「人間は戦争をしたがる、際限なく戦いたがる生き物なのだ」ということだ。力の強い者が総取りする弱肉強食の世界が人間の本質か?昨今の世界、日本のあり様をみると、否定のしようもない。

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2026年01月28日

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■はじめに
ここ数年、司馬遼太郎を批判する記事をよく目にする。決まって登場するのが、いわゆる「司馬史観」。まあ、佐高信さんのように筋金入りの司馬遼太郎嫌いもおられますが…。

歴史小説家は数多いるのに、なぜ司馬遼太郎がこれほど槍玉に挙がるのか。「国民的作家」ゆえ、その歴史の見方が史実そのもののように定着することへの警戒なのか。

ただ、僕は「歴史小説は史実を踏まえたフィクション」だと思っている。人物や出来事に対する、作家なりの見立てを物語にしたもの…と。

司馬作品の主人公には、どこか共通する魅力がある。大きな視野を持ち、信じるところに従って生きる清廉さや爽やかさ。それが竜馬であり、河井継之助であり、土方歳三だった。

とはいえ、維新回天をひとりの英雄がやってのけられるわけでもない。『竜馬がゆく』も、僕には幕末青春エンタメ小説。高二の夏に夢中で読んだけど、竜馬を礼賛したり、信奉に向かうことはなかった。

小説なんだから、それでいいんじゃないの。なぜこれほど目くじらを立てるのか。

そんな長年のモヤっとした疑問から、本書を手に取った。

■内容
ふむふむと思うページのドッグイヤーが、みるみる増えていった。

とりわけ腑に落ちたのが「会話」の話。史料をたどっても、その場にいた人々の思いや言葉までは分からない。作家が想像を働かせ、会話や心の動きを書き込むことで、歴史上の人物は「小説の登場人物」になる。

その想像を支えるのが、膨大な史料や文献。時代考証は、つじつまを合わせるだけでなく、その時代の人間を理解する補助線にもなる。調べるほど理解が深まり、愛着も湧く。史料の中の人物が血の通った人間になる。そこが歴史小説の醍醐味。

そして、我が関心の「史観」。

過去の出来事をどう捉え、評価するかという歴史の見方。本書は司馬史観も、時代ごとの評価の違いから読み解く。

戦国や幕末維新の躍動を描く眼差しと、昭和の戦争に向ける厳しい眼差し。その違いには、司馬自身の戦争体験が深く関わっているという。

さらに、当事者の記憶や国内外の歴史認識が絡み合う昭和の戦争を、物語として描き、評価する難しさにも話は及ぶ。

一方、敗戦後の日本人に、自国の過去を肯定的に見つめる視点と、希望や誇りを与えた司馬作品の役割にも触れる。

「司馬史観」の功罪は、作品が読まれた時代や、読者が求めたものも含めて考える必要がある。

■感想
「歴史は勝者によってつくられる」と、よく言われる。

勝った側の正義や理屈が、語り継がれる歴史の形を左右する。ただ、その評価も不変ではない。後世の検証で英雄の功績が問い直され、敗者の汚名が見直されることもある。

歴史小説って、「物語」という器の中で歴史を語る。魅力的な人物に引っ張られ、その喜びや無念に没入するうち、人物像や時代の見方まで受け入れていることがある。

これが物語の魔力。「フィクションとして読んでいる」と書いたものの、さて、どこまで線を引けているのか。竜馬を信奉してはいなくても、幕末を見る眼差しに、司馬作品の影響は明らかに残っている。

例えば幕末も、倒幕派から描けば、新しい時代を切り開く志士の物語。幕府側から見れば、秩序を脅かす勢力と、それを食い止める者たちの物語になる。

勤王の志士も、見る側によっては危険極まりない襲撃者になるわけだし。

結末を知る我々は、明治維新を、そこに至るべくして至った歴史として読んでしまう。でも、渦中の人々には、次の時代の姿なんて見えるはずもない。

物語に引き込まれながらも、これは「誰の目から見た歴史」なのか…と考える。本書が促す「自分なりの史観を持つ」という姿勢を、僕はそう受け止めた。

■最後に
歴史小説の「ウソ」は、歴史を知る入口としては良薬になる。でも、描かれた人物像や時代の見方が唯一のものとして固まれば、毒にもなる。

ならば、別の作家が描く「ウソ」も読んでみる。同じ人物の“違う顔”に出会い、英雄の物語を敵方の目線から眺めてみる。そうして、自分の中にでき上がった歴史の見方を、ときどき揺さぶってみる。

普通、ウソを重ねれば、どつぼにはまる。ところが読書では、重ねるほどに思い込みから抜け出せることもある。

そう考えると、書棚にこんこんと眠る積読本にも、もう少し出番を与えなくては。

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2026年10月20日

Posted by ブクログ

「歴史学」と「歴史小説」と「歴史」の違いを語る本。3つ目の「歴史」に疑問符がついたまま読み進めていたが、“歴史学者”と“歴史小説家”と“歴史家”の違いといったほうが解りやすいか。
 “歴史学者”と“歴史小説家”の対比は以下のようなものだった。

 “歴史学者”は、現代に残された史料から、その時代に起きた出来事(史実)を明らかにする。屍者に対する解剖学者に喩える。サイエンスの領分。
 “歴史小説家”も、現代に残された史料を調査するが、その時代に生きた有名/無名の人々の姿・心を引き出す。屍者に対する霊媒師に喩える。アートの領分。

 そして、この二者の扱う範疇に入らない「歴史観」の担い手として著者が想定するのが“歴史家”。「歴史観」とは「歴史を評価する」もの。「評価」というのは主観的なものであって、客観的なサイエンスの領分にいる歴史学者には扱えない。また、歴史小説家は「ウソ」を扱うアートの領分にいて、「史観を打ち出す」立場として適切でない(「司馬史観」として知られる司馬遼太郎も、その小説中で歴史観を述べる箇所は「余談ながら」と断ってから始めるのだったし、向けられる批判も少なくなかった)。そこで、“歴史家”――かつてはそういう肩書の人がいたが、現代においては「自分なりの史観」を持つべきは読者各個人――なのだと説く。
 ざっとこんな話。で、まだまだ歴史観を持つほどには歴史(学/小説)に触れていない私にとっては、歴史小説というものの位置づけが腑に落ちたのが良かった点。歴史小説はSF(サイエンス・フィクション)の一種(p.149)というのは、一読者にとってのヒントになると思う。(ただ、いわゆるSF(理系のほう)はどこがフィクションか解りやすいのに比べて、歴史小説は、どこまで史実でどこから「ウソ」なのか、歴史シロートには判断がつかないという取っ付きにくさは残るかな…。)

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2026年06月17日

Posted by ブクログ

ネタバレ

タイトルから想像していたのと少し違うが、著者が小説を書くまでの経過はおもしろい、歴史好き・興味がある人には「どう読むか」の視点を得られるかもしれない、具体的な事例を期待したが一般論、司馬史観(戦国は良く、江戸は悪く、幕末維新は良い)というような物語構造)が生まれる迄の経過・環境の話が面白い
また「はじめにイデオロギーありき」で歴史を都合よく拡大・縮小・改竄・捏造する態度に対する著者の警鐘は興味深い、歴史学者に当てはめると自説を誘導する見苦しさを想像する、また政治活動かが自己正当化の目的で現代の歴史叙述全般——政治的な「物語化」や選択的な強調——にもつながる問題?昨今の政治家や論客の議論で、事実より「メッセージ性」や「感情の共有」を優先する姿勢を見ると、まさに本書が批判する「ウソ」の構造と言えるのではないだろうか・・・違うかw

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2026年06月07日

Posted by ブクログ

ネタバレ

169頁の講演調のほとんど自明の論ではあるが、最後の「史観」論のみ秀逸。
・歴史小説家(歴史小説)は人を書き、歴史学者(歴史学)は歴史的事実を書く。
・戦後日本の歴史学が皇国史観や唯物史観の反省から、専門分化の実証主義に陥ると、歴史の発展の体系的な見方を求められうようになる。その様な時代に司馬史観が生まれた。
・歴史小説家はウソにより感動を与えるので、その史観には危ういものがある。百田尚樹。
・しかし、史観は個人の価値観を離れて存在しえない。史観を打ち出すのは歴史家であり、それは歴史学者、歴史小説家、素人を問わない。
・歴史小説は一種のSF小説。サイエンスとアートの融合。

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2026年04月08日

Posted by ブクログ

書店で気にはなったけど、いったん見送り。でもその後、書評でも見かけるにつけ、やはり読んどかんとってことで。歴史小説と歴史研究の差異を軸に、小説の読み方に焦点を当てて当事者から語られると、ちょっとした読み巧者になれる気がしてしまう。指南書として楽しめました。さっそく歴史小説にあたってみないと。

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2026年01月19日

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