あらすじ
大ヒット作『二人一組になってください』、『神に愛されていた』……
ベストセラー作家・木爾チレンのデビュー15周年記念作品!
愛を失くした女子たちの、性と生についての痛切な短編集。
苦しくも美しい、哀と狂気を召し上がれ。
水のように無味無臭で掴めない男との日々「水みたいな人」、
明けない夜、名前も知らない恋人との関係に耽る「ジンジャーエールに似ている」、
私の体に飽きてきた彼氏に感じる切なさ「ぬるいラムネ」、
死んだ夫の骨を飲む妻の物語「骨を飲む」……など、全7話収録。
デビュー当時から現在へと繋がる、小説家・木爾チレンの軌跡を感じる珠玉の作品たち。
愛を手に入れた時の高揚感、そして愛を手放した時の喪失感、哀しみを飲み込む辛さなど、本書には恋愛が持つ美しさと苦悩と痛みが、瑞々しく描かれている。
これは、木爾チレンが描く「究極の愛と狂気」。
人生のほんのひとときくらいは、
哀しみを味わうのも悪くない。
――飲み込んだ哀しみは、いつかあなたを生かす血肉になる。
【著者・木爾チレンさんからのメッセージ】
何かを失った哀しみというのは、飲み込んだところですぐに消えるわけじゃない。けれど、いつかは体のなかから出ていく。
だから、人生のほんのひとときくらいは、哀しみを味わうのも悪くないのかもしれない。
そんなことを考えながら、この短編集を編みました。この本が、誰かにとっての「生きる薬」になることを願っています。 ----木爾チレン
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Posted by ブクログ
愛を失った時、自分は愛される存在ではないと知った時、色々な愛が自分の手からこぼれ落ちた時の哀しみ。
それ私の舌を通って喉を通り私の中を巡る。私の中を通ってゆっくりと時間をかけて排出される。どんな哀も、私の中にとどまり続けることは無い。
だから、今だけは哀しみを美味しく召し上がれ。
Posted by ブクログ
「哀を飲む」という表現がぴったりな短編集だった。正常な世界なんてものはどこにあるのか分からない。本物の愛も分からない。孤独が何かも分からない。年を重ねたら何か変わるのだろうか。人それぞれ生きる世界がある。どの話を読んでいても苦しくて、ほんの少し美しくて、とてつもなく哀しい。
「この短編集の飲み方」は最後に読んだ。何だか涙が出た。本の帯にもある、「人生のほんのひとときくらいは、哀しみを味わうのも悪くない。」という言葉がずっと心に残っている。
Posted by ブクログ
愛を失くした女性達の哀しみを描いた7篇。タイトルに飲み物が登場することもあり、全体的に少し喉に引っかかる硬水を飲んでいるような感覚がしました。
無味無臭の愛を描いた「水みたいな人」と、愛する人を失った「骨を飲む」の対比が凄い。静かな余韻が残る「梅酒と眠る」も好きです。
Posted by ブクログ
初の木爾チレン作品。数ある作品の中で、一番内容が惹かれた本書を、初めて読む作品として選びました❗️
恋愛の付き合い始めてちょっと不安な気持ちとか、恋愛末期のお互いにどうにもならない気持ちとかを、とても素直に哀しく描写していて、大きな印象が残った訳ではないけれども、率直に読んで良かったと思える作品でした❗️
読者の年齢や今自分が置かれている状況によって、支持したくなる作品は変わると思います。また結構リアルな性描写があるので、人によって好みが大きく分かれる作品かなぁとも考えます。個人的には、後半の作品になるにつれ、好感度が上がった短編集でした❗️
好きな話しは、『梅酒と眠る』、『生きる薬』、『骨を飲む』の3編で、『骨を飲む』は何だか他の作品と熱量が違うように感じて、この短編集の読み方というあとがき紛いの物を読んだら、とても腑に落ちました❗️
Posted by ブクログ
木爾チレンさんの描かれる物語、その登場人物と同じような経験をしたことは全くない。全くないのに不思議なのは、その痛みや苦しさや哀しみは私も知っている気がする。
Posted by ブクログ
あなたは、『悲しい』と『哀しい』の違いを説明できるでしょうか?
どちらも”かなしい”と読む二つの言葉。”悲しい”は一般的な悲しみを表し、”哀しい”は”哀れ”や”しみじみとした情感”を伴う哀しみを表す際に使われることが多い、と使い分けが説明されるこれら二つの言葉ですが、『哀』という字にはそれだけでどこか悲壮感を感じるところがあります。
『哀しみを吐き出したかった』
『哀しみから逃れたかった』
『死にたいほどに哀しくなった』
そこにはどれほどの思いがこもっているのか、『哀』という漢字の力もあって情景が演出されてもいきます。
さてここに、「哀を飲む」というどこか物哀しさ漂う物語があります。必ずしも飲料とは限らない何かしらの”飲み物”が登場するこの作品。『性』と『生』が強く打ち出されるこの作品。そしてそれは、”人生のほんのひと時くらいは、哀しみを味わうのも悪くない”とおっしゃる木爾チレンさんの短編集な物語です。
『私の住む町では、空を見上げていれば一時間に一度は流れ星が見られる』と『高校二年になったあの日、親友になったばかりの佐美子と学校からの帰り道を歩いていたとき』のことを思い出すのは主人公の千尋(ちひろ)。『そっと私の手を握り、「落ちる星だわ」と呟いた』佐美子は『流れ星のことを「落ちる星」と呼』んでいます。『確かにこの町の流れ星は、空を横切るというよりも、まるで町に吸い込まれていくように落ちてくる』と思う千尋は、『なぜ、そんなふうに呼ぶの?』と訊くと『だって、この町の星は流れていない。落ちていってるもの。この呼び方、千尋も使っていいわよ。気に入ったんでしょう?』と答えます。『幼い頃から、自分で自分のことを決めるのが絶望的に苦手だった』という千尋は、『なんでもかんでも人に決めてもらって、生きてき』ました。それは、『佐美子と親友になったときもそう』でした。『千尋、今日から私とあなたは親友よ』と、突然言う佐美子。『佐美子はたぶん、私のことが生理的に嫌いだったし、私も生理的に佐美子のことは好きじゃなかった』という二人。『けれど、その自信たっぷりな口ぶりに気圧されて頷いてしまったから、その日から私たちの肩書きは「親友」ということになってしま』います。そして、『高校を卒業してから』『進学せずに、アルバイトをして暮らしている』という千尋は、『小さな美術館の監視員』をしています。『美術作品に囲まれながら、八時間ぼうっとしている』という千尋は、『いつも考えているのは、幹夫のこと』でした。『今、幹夫は何をしているだろうとか、少しは私のことを考えてくれているだろうとか、今日の夜はセックスするだろうかとか。そんなことばかりを考えてい』ます。『幹夫と付き合いはじめたのほ三年前。私は高校三年生だった』という千尋は『私より三つ年上で、美術大学に通っていて、塾講師のバイトをしており、将来は写真家になるのだという』幹夫と二年前、『高校を卒業してすぐの』頃から同棲をしています。『毎晩決まって、「何を食べよう?」』と尋ねる千尋に、『そうですねェ。寒いから、鍋。キムチ鍋にしますか』と、『いつも嫌顔もせずに答えてくれる』幹夫。そんなある日、『アルバイトの後、佐美子に呼び出されて、駅前の喫茶店に』赴いた千尋は、『幹夫は、元気なの』と訊かれます。『幹夫のことを、呼び捨てにする』ことが『すごく嫌だけど、幹夫は佐美子の元彼氏なのだから、仕方がない』と思う千尋。『水みたいな人よ。さらさらの水みたいな人』と幹夫のことを話していた佐美子は、『当然の結果というか』『半年しか続』きませんでした。『付き合ってみなさいよ。千尋、幹夫のこと好きなんでしょう』と言う佐美子の先に幹夫と付き合い始めた千尋。そんな千尋は、やがて佐美子が、『私という庭の中で、幹夫を誰にも取られないように囲っておきたかったのだ』と気づきます。『佐美子には人を操る力がある。そして私と幹夫には、それに反発する力がない』と思う千尋。『その人はまるで私にとっての流れ星だった』と幹夫のことを思う千尋のそれからの日々が描かれていきます…という最初の短編〈水みたいな人〉。「哀を飲む」という書名に相応しい好編でした。
“2025年11月13日に刊行された木爾チレンさんの最新作でもあるこの作品。”発売日に新作を一気読みして長文レビューを書こう!キャンペーン”を勝手に展開している私は、2025年8月に藤岡陽子さん「春の星と一緒に」、9月に角田光代さん「神さまショッピング」、そして10月には窪美澄さん「宙色のハレルヤ」というように、私に深い感動を与えてくださる作家さんの新作を発売日に一気読みするということを毎月一冊以上を目標に行ってきました。そんな中、ミステリー・推理・サスペンスを中心に、恋愛やホラー作品まで幅広く手掛けられている木爾チレンさんの新作が発売されることを知り、これは読まねば!と発売日早々この作品を手にしました。
そんなこの作品は、内容紹介にこんな風にうたわれています。
“愛を失くした女子たちの、性と生についての痛切な短編集。苦しくも美しい、哀と狂気を召し上がれ”。
『哀』という一文字から想像される通り、物語には”愛を失くした女子たち”の姿が描かれていきます。それぞれに関連性のない7つの短編が収録されたこの作品ですが、『性』という一文字が象徴する通り、赤裸々なまでに性的な描写が登場することも特徴です。抜き出してみましょう。
『私は吉造のズボンからふにゃふにゃの海鼠を取り出して、一生懸命に舐めた。今日はなかなか、それが出てこなかった。十分ほど舐めて続けて、ようやく出てきた。いつものように、ごくんと飲み込む』。
いきなり生々しい表現を抜き出してしまいましたが、この作品では一切の遠慮なくこのような表現が乱発されています。まさしく、『性』です。しかも赤裸々です。
『時には生理が終わったばかりの生臭い恥部を露わにし、まるで愛おしい生き物を育てるように、私が痙攣のあまり立てなくなるまで舐めてくれた』。
これまた激しく生々しい表現がそのまんまです。もちろん敢えての表現、意図的な表現だと思いますが、勢いよく描写されていく様はある意味での吹っ切れ感を感じます。
『その数秒後、喜びも哀しみも知らない透明が、穴の中に注がれた。この透明の中には、いのちになれない生命が三億匹も泳いでいるのだ』。
中にはこのようにどこか詩的に描写される箇所もありますが、どこまでいっても『性』に変わりはありません。官能小説というわけではないですが、このような『性』描写が大胆に使われているのがこの作品です。好き嫌いはあると思いますのでまずはお伝えできればと思いました。
では、収録された7つの作品から3つを見てみたいと思います。
・〈ジンジャーエールに似ている〉: 『ジンジャーエール、飲む?』と訊くと『飲む』と答えた吉造。『真夜中に飲むジンジャーエールは、誰がなんと言おうと、世界一美味しい』と思う主人公の岬。『してよ』と『自らチャックを下ろし、ふにゃふにゃのあれを取り出す』吉造に、『いいで』と返すと『ふにゃふにゃのあれを口に入れ』る岬。『なんか、海鼠みたいやな、って思う』岬ですが、『一分もしないうちに、それは出』ます。『白くて、とろっとしていて、顕微鏡で見たらおたまじゃくしみたいなやつがうじゃうじゃ泳いでいる、それだ』と思う岬は、『ためらわずに飲み込』みます。『一日に一度、私にそれを飲ませたがる』という吉造。そんな吉造に岬が出会ったのは『友人の早智子が働くキャバクラに』『一日だけ、体験入店という形でヘルプに入っていた』日のことでした。それ以来、『あれを舐めさせ、それを飲ませる』と言う吉造と暮らす岬は…。
・〈コーラの泡〉: 『はい、これ、今月の』と、『家賃より高い給与をアキオに手渡す』のは主人公の澪。『手取りで25万円はある』ものの『カードローンの返済に家賃』と手元に残るのは10万円ほどにも関わらず、それをアキオに渡してしまう澪。『アキオと別れれば済む話だというのは、わかっている。でもそれは、今の私にはできない』という澪は、『誰に何を言われようが、私の心はアキオに貢ぎたいと叫んでい』ます。『うん』と、『渡された水でも飲むみたいにそれを受け取り』テレビを見るアキオ。『ねえ、寝る前にエッチしたい』と言う澪に『いいよ』と返すアキオ。『ねえ、澪さん、気持ちいい?』と『アキオが腰を動かしながら、耳元で囁いて』きます。『伸びっぱなしの髭が、頰にチクチクと刺さって痛い』ものの『文句を言う権限は私にはない』、『こんなふうにしてもらっていることを、ありがたがることしかできない。ブスに生まれてきたのでしょうがない』と思う澪は…。
・〈骨を飲む〉: 『台所の、古い蛍光灯が照らす青白い光の下で』『毎晩、すり鉢で骨を擂り、粉状になったそれを白飯に混ぜ、それをほんの少しずつ食べている』というのは主人公の唯起子。『がりっと硬いものが歯に当たるたび』『十六歳だった』『未熟ながらも、鼠色の制服のズボンを突き破ってしまいそうに硬くなった恥部のことを思い出す』唯起子は、『「唯起子ちゃん、上手だよ」などと』彼が『私の舌遣いをいちいち褒めてくれたので、私はますます、射精を促すのが上手くなった』というあの時代を思います。『もうすぐ三十一歳になろうとしている』今の唯起子は『私の世界は、あなたのそそり立った恥部をはじめて目にした、あの衝撃的な瞬間を焼き付けた十六歳のまま、止まっているのかもしれない』と思います。そして、『骨の入った白飯を、おかずもなしに食べながら』『もうすぐ明日になろうとしてい』る時計を見ます。『去年』『骨になってしまった』彼のことを思う唯起子は…。
3つの短編を取り上げましたが、上記で触れた通りいずれの短編も『性』に関する描写に満ち溢れていることがお分かりいただけると思います。しかし一方で、それぞれの物語はなんとも言えないシチュエーションの上に展開していることも分かります。『一日に一度、私にそれを飲ませたがる』という吉造と暮らす岬が登場する〈ジンジャーエールに似ている〉の物語はどこか悲哀に包まれています。〈コーラの泡〉の物語では、『私の心はアキオに貢ぎたい』という女性の物語が描かれています。給与の全額を差し出して『性』に溺れる澪はなんとも言い難い思いに囚われます。そして、最後の短編〈骨を飲む〉は短編タイトルからして緊張が走る中にまさしくタイトルから予想される通りの物語が展開します。物語では、やはり『性』が最前面に押し出されていますが、その背景に描かれるのは、亡くなった彼の『骨』を食し続ける女性の物語です。これは衝撃です。内容紹介にはこんな風にも記されています。
“愛を手に入れた時の高揚感、そして愛を手放した時の喪失感、哀しみを飲み込む辛さなど、本書には恋愛が持つ美しさと苦悩と痛みが、瑞々しく描かれている。これは、木爾チレンが描く「究極の愛と狂気」”
まさしく内容紹介そのまんまな物語がここには記されています。それぞれの作品は赤裸々な『性』の描写に彩られていますが、それ以上に物哀しさに包まれています。そこには、さまざまな形で失われた愛のかたちが記されていくからです。それを「哀を飲む」という書名で綴り上げたこの作品には女性たちがそれぞれの喪失を思う狂おしい気持ちを細やかに描き出す物語が描かれていました。
『十六歳の頃から、私とあなたは、たった二人で世界を築いてきた。だから、二人の世界からどちらかがいなくなることなど、想像もしたことがなかった』。
そんな喪失への思いが赤裸々に綴られた短編など、書名の「哀を飲む」という言葉が描かれていくこの作品。そこには、7つの短編それぞれにどこか物哀しく綴られた物語が描かれていました。『性』の赤裸々な描写が目を引くこの作品。そんな背景に描かれるうす暗い雰囲気感に心が沈み込むこの作品。
“何かを失った哀しみというのは、飲み込んだところですぐに消えるわけじゃない。けれど、いつかは体のなかから出ていく”とおっしゃる木爾チレンさん。そんな木爾さんが綴られる独特な物語世界に誘われる作品でした。
Posted by ブクログ
木爾チレンさん感、満載の短編集!
飲み物のフルコース!!
『コーラの泡』と『生きる薬』が好きだったなあ。
全体的にメンヘラ女子のお話で、
自分のことを心配してもらうために、わざと連絡を返さなかったり。
寂しくて男にのめり込んでしまい、『この人がいないと私が生きる意味がない』というような姿が描かれていて、面白かった。
1番最後に書かれている「この短編集の飲み方」は、最初に読んでも最後に読んでも良いというので悩んだけれど、私は最後に読んだ。
それぞれの話への木爾チレンさんの気持ちが書いてあって良かった。
作家さんのこうゆう気持ちを知れるのがとても嬉しい。
ーーあまりにも他の感覚が消えて、唇以外の部位がなくなってしまうんじゃないかと、本気で心配になった。ーー
2025.11.17(月)
Posted by ブクログ
著者も記載している通り、いわゆる「メンヘラ女子」
(※若き女子の恋愛における情緒不安定さの意味とある。)が主人公の作品が多く、そういう感情なのか、と、登場人物の心に入り込むような感じがした。
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人は、ひとりでいる時間が長いと、心が縮んでいく。誰のことも受け入れる必要がないから、心はひとり分でいいと、自分に言い聞かせて、どんどん小さくなる。
糸川だけが、他人が遊びに来るような世界を持っていることに、私がどれだけ嫉妬しているか。
私という人間は時々、いちばん好きな人に、うんと酷いことをしたがる。なぜだろう。淋しいからかもしれない。