あらすじ
あの『聖なるズー』の著者が、ふたたびタブーに挑む
「人は無機物と愛し合えるか?」
2019年、人間と動物の性愛を描く『聖なるズー』で鮮烈なデビューを果たしたノンフィクションライター・濱野ちひろ。
待望の書き下ろしノンフィクションとなる今作のテーマは、「人と無機物のセックス」。
人は「人以外」と愛し合うことはできるのか?
セックスロボットが普及すると人々のセックス観はどう変わるのか?
AIに恋をする人々が出てきている今だからこそ、
「無機物とのセックス」を通して、近未来社会の「性と愛」を予見する。
【本書の内容】
第一章 シンテティックな愛は永遠に
シンテティクス(合成物質)でできた無機的な妻・シドレと暮らすデイブキャット。
この界隈では世界的に有名な夫婦である「二人」に、
著者は「参与観察(生活をともにして観察・記録する手法)」を試みる。
第二章 裏切りと喪失の経験
妻の不倫によって離婚したジムは、等身大人形のアンナを見つめながら言う。
「アンナは嘘をつかないし、秘密を持たない。唯一無二のパートナーなんだ」
裏切らないことーーそれが等身大人形に求められる最大の美点なのだろうか?
第三章 フェティシストと夫
「僕にとってドールは芸術品なんだよ。関係性はない」と語るジョゼフ。
「僕がショップから救い出したあの日から、ナタリーは幸せなんだ」と語るロジャー。
ドールフェティシストとドールの夫。二人との会話から見えてきた「愛の輪郭」とは。
第四章 ミクの夫として生きる
普段は公務員として働く近藤顕彦にとって、初音ミクは「イジメのどん底から救ってくれた」存在だった。
「我が家のミクさん」との生活を通して社会に波紋を投げかける近藤には、ある信念があった。
第五章 身体を探して
カリフォルニア州サンフランシスコで出会ったミア。
男性から女性になろうとしている最中の、トランスジェンダー女性だった。
彼女はなぜドールを必要とするのか。
第六章 秘密の実験
「絶対に秘密なんだけど」と、デイブキャットは私に言った。
「新しいドールをもう一体買おうと思っているんだ。セックス専用のドールを」
第七章 中国と日本のラブドールメーカー
中国ジーレックス社と日本のオリエント工業。
経営理念が異なる2社の「製造現場」から見えてきたものは…。
第八章 無機物の死
東大阪にある「人間ラブドール製造所」。
そこでは日々、ラブドールの「生と死」が繰り広げられている。
運営する新レイヤへの参与観察。
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Posted by ブクログ
『聖なるズー』に続き。動物性愛から、無機物の方に移行したのは、時代的にも自然で今後も引き続き彼女が書く本が楽しみだ。
以下好きだったところ
…愛するとは、自分ではない存在と共在すること。そして、その存在の様子を日々、くまなく観察すること。観察を続けることによって、私たちはその相手を知ることができる。そしてその相手に対し、適切な行動を取ることもできる。
また同時に言えるのは、愛とは美しいだけのものではないということだ。…だが愛というものは、ときには暴力の言い訳にさえ使われるほど、危険をも孕む語彙である。愛は巨大な口を開けて多くの感情を呑み込み、ときに横暴に人を説得する。(p.15)
世界中の多くの人々が、異性愛規範と人間性愛規範のなかで、生涯をともにするパートナーを探すことに苦労している。それが同調圧力であるとしても、人生に課される難題のひとつが、「誰と過ごし、誰と分かち合い、誰と生きていくか」というものだろう。若いうちになんらかの方法でその問題を解決できた人は幸運だが、そうでない人もやまほどいて、出会いや別れを繰り返しながら「誰か」探し求める。(p.52)
…人間同士の関係でも、理想を相手に投影することはよくある。そこに誤解と幻想はつきものだ。理想や幻想、誤解の上に立って、相互理解をしているとは必ずしも確信が得られぬまま、関係は進行する。それがいつしか傷を生むことがある。(p.57)
関心の移り先が人間であれ人形であれ、自分自身には心が向けられていないという事実にこそ、人は傷つく。人形だから浮気にはならないかと言われると、そうではないのだ。人間関係のなかに、等身大人形は堂々と入り込む。…彼が「女はすべて同じ」と話すところに私は彼の女性に対する不遜な無関心さを感じる。(p.105-6)
私たちが誰かを愛していると言うとき、そこにはその人と過ごす居心地の良さや、その人といる時の自分自身への肯定感があるように思う。もしかしたら、ドールの夫たちだけでなく私たちも必要としているのは、自分たちの思考を投影する鏡としての他者なのかもしれない。私たちは相手の反応によってなにか情報を引き出し、理解をしたり、思考したりしているのではないだろうか。私たちはどこまで他者をありのままの他者として受け止め、受け入れられているのだろうか。(p.119)
いまは推測しかできないが、自分の日常を思い返さないでいられるフィクショナルな性的コンテンツに興奮を掻き立ててもらい、自慰を手軽に済ませる人のほうが圧倒的に多いのではないだろうか。自慰は、自己と身近な他者との関係性にはまったくかかわらない形で、ある意味エンターテインメントとして進化し続けているように思う。そして、多くの人にとっては自慰する自分と、身近な他者を愛する自分の像は矛盾しない形で共存している。(p.133)
「でも、いいと思うんですよ、逃げても。なにに対しても立ち向かわなければならないってこともないじゃないですか。すべての人間から逃げたらまずいですけど、いじめっ子と向き合う必要はない。立ち向かうことが正義で、逃げることが悪である語られがちですが、そうじゃない。いいんですよ、恋愛市場から逃げても」(p.143)
彼らのパートナーとの関係性が本物だと感じられるのは、生身の人間同士の良い関係性と同じかそれ以上に、彼らがともにいることで新しい世界の扉が開かれ、その世界を彼らが一歩一歩、一緒に進んでいるように思われるからだ。(p.144)
トップスとブーツを貸してくれたサトミを、私は生涯忘れることはないだろう。それほど、分かち合うということは人間にとって大きな出来事なのだと私は思った。(p.163)
…私は縄師に身を預けた。私もまた、自分の身体を探そうとしたのである。(p.167)
…ところが性愛が絡むと途端に反応がややこしくなる。これは、性愛を特別視、神秘視しているからに他ならない。
性愛はそれほど特別なものだろうか。私はそうは思わない。…(p.188)
「どうせもの扱いされるんだったら、雑に扱われるものじゃなくて、かわいがられるもの、大切にされるものになりたいと思って」…人間として生きるのを休憩して、ものになってみたい。なにもしなくても、話さなくても、ただそこにいるだけで大事にされるようなもの。…(p.228)
無機物は、自然には死なない。だからこそ、無機物を愛する人は、無機物を殺す人にもなりうる。そのような愛し方は、もしかしたら、想像以上に複雑なものなのではないか、と私はいま、感じている。(p.237)
人間には物語が必要だが、そのなかでパーソナリティは生まれたり壊れたりする。ひとりでも多くの人がその事実に気づき、自分に相応しくない物語からは一刻も早く去り、少しずつでも理想的な物語を紡ぎ出せるようにと、私は祈っている。…セックスは人間の根本的欲望のひとつではあれ、他人に依存してまで叶えなければならないものではない。ましてや人を傷つけてまで叶えるべきものではない。相手を十分に観察しながら、そのパーソナリティを愛おしむ活動である限り、セックスは素晴らしいものだと私は考えている。(p.244)