あらすじ
寄宿学校で教師をしている「わたし」は、ある晴れた夏の日、学校近くの三日月湖、マッドガイド・ウォーターに浮かべたボートの上で、ふわふわの毛につつまれた、二足歩行するハリネズミのようなふしぎな生きものと出会います。そして、一粒のミルクキャンディーがきっかけとなり、「ヤービ」と名乗るその生きものと「わたし」の交流がはじまります。ヤービの語る彼らの暮らしは、穏やかだけれど、静かな驚きに満ちていました。
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Posted by ブクログ
外国の雰囲気がとてもお洒落だと感じました。ヤービにはヤービの生活があって、その毎日を生き生きと感じることができる本でした。セジロの考え方、今で言うヴィーガン?と似ていると思いました。結構ボリュームがあったけれど、続きが気になってあっという間に読めました。
Posted by ブクログ
梨木香歩さんの作品を、いつかは全部読みたいと思っているのに、最近足踏み状態だったので、勢いをつけるために(?)、読みやすいと思われたヤービから読むことにしました。勝手に絵本だと思い込んでいたのですが、児童書と分類されるものでした。
これは人間で、寄宿学校、サニークリフ・フリースクールの教師であるウタドリさん(あだ名です)が、ヤービという小さなクーイ族でヤービ族の生き物と偶然出会い、そのヤービから聞いた小さな種族たちのお話です。
梨木香歩さんらしい、なんとも丁寧で、なんというか背筋がぴんと伸びるような美しい日本語で綴られています。児童書なので、あっという間に読めますが、水辺のことだったり、生き物、特に鳥の生態のことなどは、梨木さんの博識さが隠しきれない、といった感じでした。
しかししかし、ヤービをはじめとした登場人物の心の機微というのか、心情描写はもう、素晴らしいの一言につきます。誰もが小さいころから大きくなるまでのどこかでちょっと感じたことがあるであろう、でも、多くの人がちょっと気づいただけですぐに忘れ去ってしまったであろう大小の感情の動きのあれやこれやが出てきて、それに出くわすたびに、「やられたー」と思うのでした。知ってる、この感情知ってる!どこかで感じたことある!と。
たとえば、ヤービのいとこのセジロは自分たちが蜂の子を食べるということが残酷に思えて、しばらく食事ができなくなります。これって、食事ができなくなるまではいかなくとも、身に覚えがある読者は多いんじゃないでしょうか。(そういえば、私の妹は一時期、豚肉も牛肉も口にしない時期がありました。鶏はいいんだと言ってましたが。)
それから、ヤービが思わず小さい子のように甘えた感じになって、ママ・ヤービに対して気まずく思う瞬間。これも、あーなんかわかる!とポンと膝を打ちたくなります。そして、ママ・ヤービの素晴らしい対応。ここは親として見習わねば、と思いました。それに、怖いと思いつつもスリルを味わいたくなったり、恐怖の対象がヒーローのように自分の中で大きくなってしまう子ども心・・・あぁ、なんだかよくわかる・・・。
それからこれは、身に覚えがある感情というのとは少し違うのですが、ヤービとセジロが出会った、ベック族のトリカは、母親が、ヤービとセジロの前でちょっとショックを受けるような態度をとってしまったことについて、必死に母親をかばおうとします。この場面、きっと現実にも少なくない小さな子たちが、こういうことを、「母親をかばう」という意識なしでしているんだと容易に想像できて、なんだか涙が出そうになりました。そしてそれを知って、ちょっと癖のあるトリカが大好きになったというウタドリさんにも涙が出そうになりました。優しい世界で胸があつくなりました。トリカの家族が良い方向へ向かっていけますように、と祈るような思いでした。
ちょっと笑ってしまったのは、パパ・ヤービの弟、マミジロ・ヤービは詩人というところです。マミジロ・ヤービは、詩の一行目が天啓のようにおりてきたものの、それから進まないことをすごく楽観的な姿勢で構えていて、そんなことを話せる相手としてウタドリさんを認めたのでしょうが、自信満々に話す姿が愛らしくて笑ってしまいました、マミジロ・ヤービの詩はどんなふうに完成するのでしょう。楽しみです。
大きい人たち(人間のこと)によって環境が変化してきてしまっているマッドガイド・ウォーターを離れるべきかとどまるべきか。ヤービ族は考えなければいけない時期がきたようです。どういう結果になろうとも、マッドガイド・ウォーターが好きだし、自分もウタドリさんもマッドガイド・ウォーターの一部だと考えるヤービ。なんて素敵な子なのでしょう。
優しい気持ちで読み終えました。さすが、という感じです。素晴らしい作品でした。
Posted by ブクログ
ヤービ、かわいい!大好き。
他のものの命をいただいて生きることに感じる罪悪感。切なさ。梨木香歩さんはこんなふうに一つ答えをくれた。
ムーミンの世界と読み比べてみたい。
Posted by ブクログ
コロボックルとか、ガンバとか、ニングルとか、ムーミンとか、湖沼地帯の描写のどこかに潜んでいるドリトル先生とか、懐かしいモチーフが温暖化の時代に出てきていて(あの頃は氷河期の心配をしていたような気がする)うれしくなった。
この人ならではの静かさと奇想天外さと。
Posted by ブクログ
梨木さん久々の児童文学!
森、そこに住む生き物たち、ボート、違う種族との交流、梨木さんの好きなものがめいっぱい詰まってる感じ。
突如放浪に出ちゃうお母さんもいれば、母が精神病んでるっぽい女の子が「きょげんへき」持ちだったり、その子に影響されて拒食症になっちゃう女の子などなど、書いてると結構暗いような要素もふんわりとつつまれて、優しいファンタジー世界の中に存在している。まあ、そういうこともあるよね、という程度の感じがなんともらしいな、と思う。
他の生き物によっていのちをつなぐ、ということ、「大きい人」たちによってヤービたちの世界が壊されつつあるということ。この辺のテーマもいかにも梨木さん、という。この辺りは、また続巻で…という感じかしら。
「同じ、生きものどうしだからね」っていうパパ・ヤービの言葉がじんわり沁みてくる。
ウタドリ先生を通じたあくまでやさしいまなざしが、ゆりかごにいるみたいな心地よさでヤービの世界に浸らせてくれる。
「お礼をしたいんです」
……
「そんな必要はないんですよ」
というヤービとウタドリ先生の最初のやり取りがもう、なんだかいいな、とじんわりしてしまった。
Posted by ブクログ
大きな夕日がゆっくりと湿原の向こうに沈んでいく。
吹いてくる風には生きものの香りがする。
それは優しくて懐かしい命のにおい。
マッドガイド・ウォーターの岸辺に棲む小さな生きもの・クーイ族の少年ヤービと、ヤービから岸辺の話を静かに聴く人間のウタドリさん。
四季の移ろいを肌で感じながら、穏やかな二人のやり取りに、読んでいてゆったりとした気持ちになる。
可愛らしい小さな生きものたちの世界も人間界と同じく苦労が多い。
「そんざいのつみぶかさ」に悩み食べ物が食べられなくなったり、恐ろしいカワガラスから隠れたり。
一見穏やかで平和な岸辺にも危険が潜む。
そして人間との共存の難しさを目の当たりにすると、現実に人間が小さな生物に与える影響を省みらずにいられない。
もし私が岸辺でヤービと出逢えたとしたら、そっと近づきミルクキャンディーを差し出してみよう。
きっと色々なお話を聴かせてくれるに違いない。
ぜひ映像化してほしい作品。
続編でまたヤービたちに逢えるかな。
Posted by ブクログ
梨木果歩さんの童話、となるとこれはもう読まないわけにはいかない、少しの緊張とわくわくを胸にページを開く。
そして、やはりその期待が裏切られることはなかった。
梨木果歩節全開である。非常に注意深く丁寧につくりあげられていて、吟味されたことばが美しい。イラストもぴったりだ。
こんなにもやさしい言葉で、深く、たくさんの思いをこめた作品。こどもにもおとなにも等しく、(けれどそれぞれに違った形で。)心の中に大切な「世界のつくり、不条理への疑問」「わからなさの森」を、わからないままにまっすぐなこころのことばで、豊かなかたちで映しこんでくれようとするうつくしい作品だ。
思い出すのは、やはりムーミンの世界。
ヤービというのは、自然界、動物と人間の間にいる、トロール、妖精のようなハリネズミほどの大きさの一族、クーイ族の男の子の名前である。
さまざまの知恵や文化、伝統がその原初の形のままで残っている彼らの暮らし。「ムーミン谷」を思わせるマッドガイド・ウオーター(三日月湖の名)その岸辺の住人達と語り手の人間、
ウタドリさんとの交流の物語。
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「そんざいのつみぶかさ」生き物を食らって生きてきたことの発見、生き物を殺す者のほう助をしなければ生きていけない状況、罪を背負わなければ生きていけない己の原罪に気づき、拒食症に陥るヤービのいとこのセジロ、その事実をつきつけてきたセジロの友人、(恐らく)母からの虐待を受けている虚言症の気味のあるトリカ。
「大きい人(人間)」が自然のバランスを壊し破壊し、ヤービたちの生活をおびやかしているという、その大きな災厄の影が作品全体をうっすりと覆っている。
現代社会の抱える緊急事態への問題意識を色濃くにじませながら、だがその描かれる風景は、冒険は、やりとりは、あくまでもやさしく素直で楽しく美しい。子供が冒険や会話や出来事を通して世界の基礎を、知を、愛、のようなものを学んでゆく、成長してゆく、ごくオーソドックスでスタンダードな良質の児童文学だ。
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で、ワシが思うに、この作品の中での白眉は、ヤービの叔父、マミジロの存在である。
詩人である。彼のライフワークは、ある日天啓のようにひらめいた次のような詩の一行の続きがやってくるのを待ち続けることであった。
「それはいかなる事情のもとにか、なされた」
…「マミジロ・ヤービは、この詩句からはじまるぜんたいの詩を完成させることに、自分の生まれた意味がある、とすら思っていました。」
語り手、ウタドリさんはこの一族の中で一番さえない(重要な感じのしない)道楽者の立場であるマミジロの話を聞きながら、預言者、ということを思う。
「もしかしたら、とてつもなくすごい発明(神さまのことです)をし、クーイ族史に名を残す人物になるかもしれない、とこころひそかに思いました(そして、人間の世界の歴史に名を残した重要人物だって、もしかしたら生きているときはあまり大して「重要な感じ」をあたえる人ではなかったのかもしれない、ともついでに悟りました)。」
光よあれ、という最初の詩句が置かれた瞬間、すべてが始まったように。
世界は、そして認識主体としての己は、その認識がなされた瞬間に、既にもうその存在が「なされている」のだ。在り方は、既に「なされ」ている。理不尽も原罪も、すべては既になされている。決まっている。
これが、始まりだ。
この言葉は、叙事詩的なるもの、神話的なるもの、詩であるから、時空の制約を受けない。それはもしかして未来のことなのかもしれない、とウタドリさんは思う。
まだ「なされて」ないのかもしれない、と。始まりは、未来のことなのかもしれない、と。新たな世界の示唆か、その認識の在り方の方向性を示す預言か。
ううむ。
神の預言とは。この切り口にはぞくぞくする。
*** ***
マミジロはまたヤービ族の名づけ方について語る。
「ヤービ族の名づけ方」
冒険譚のなかの挿入話のような位置づけにあたるこの章が私は大好きなのだ。
名前。個としての名前と社会の属性としての名前。
今の我々の社会では、さしあたっては、これはファーストネームとファミリーネームの違いのテーマにあたるだろうか。
ヤービ族の名づけ方においては、個としての名は存在しない。名は世代間で受け継がれてゆく。ヤービ家の最初の子はすべてヤービ、次がセジロ、三番目がマミジロ。ヤービに子が生まれればパパ・ヤービと呼ばれるようになる。
詩人マミジロは、それぞれの自分だけの名、個としての名を持つべきなのではないかと主張する。たったひとりの自分が代々のマミジロと同じマミジロ、と呼ばれることの違和感を述べる。
ヤービはその詩人の叔父マミジロとパパ・ヤービの話を傍らで聞きながら、自分はただのヤービでいいな、と思う。
彼とウタドリさんはこんな風な会話をする。
「名まえって、ちょっとしたコートのようなものなんじゃないでしょうか」
「では、ヤービというのは代々受けつがれたコートかしらね。そう、かくれみののようなものかもしれませんね。自分をやんわりおおってくれる」
(そうそう、とヤービは賛成してくれ、)「たったひとつの自分だけのとくべつの名まえがあって、それをしょっちゅう呼ばれるなんて、なんだか、ひりひりする感じなんじゃないでしょうか」
そしてウタドリさんはこんな風に語ってみせる。
「そういえば、なんとか夫人、かんとかのママ、なんていう、なんとか氏とかかんとかちゃんとに関係づけた呼び方も、その奥で『ちゃんとした』だれかがウインクしている、おおらかな『名まえ』のような気がしませんか。」
…この辺が、梨木果歩の梨木果歩たる梨木果歩節なんである。彼女の幻想的なタイプの小説「f植物園の巣穴」「家守奇譚」「沼地のある森を抜けて」「海うそ」「冬虫夏草」等で連綿と綴られているテーマ、「私とは何か」というアイデンティティの枠組みの正体を問い続け、その牢獄を打ち壊してゆくような解放と救済の色彩を帯びた作品群の、その深淵な思想がここに響き渡る。
それは例えば、「私は私だ、誰かの妻や誰かの母ではない、私は個として私だ。」という現代の正論の孕む、その深奥に潜む、痛み、のようなもの、「ほんとうの私」(コートの奥にくるまれた「ちゃんとした」だれか)の孕む虚無の恐怖、コートの持つ虚構を虚構として見極め、それを優しく再構成してゆくような独特のまなざしのことである。
*** ***
で、だがこの作品、ラストシーンのこの締めくくり方に関しては個人的にはちょっと不満、というか違和感が残っている。
ヤービが、忍び寄る「大きい人」の脅威、自然破壊の影と失われる故郷への思いを述べる箇所だ。
「マッドガイド・ウォーター、がんばれ」
「ヤービ、あなたはわたしにとってはすばらしいマッドガイド・ウォーターの一部です」「ウタドリさん、あなたも、マッドガイド・ウォーターですよ」
(中略)
「みんな、がんばれ」
美しい日暮れの風景が描写される。
…とりあえず、文句のつけようがない。
それは、違和感がない、という違和感。きれいすぎるのだ。わからなさがない。考える隙間を読者に与えない。思考停止のところにいざなってしまう。ここに至るには性急すぎる。まだだ、という気持ち。
ああでもやはり、これ以外ではおさめようがないのだという気もする。
祈りは、その思いの激しさは、ともすれば「わからなさ」を離れ、手触りの確かな明確さへ、主義主張、信念や正義の方向へと流れようとする。或いは安易に読解されるメタファへと、教訓的な「わかりやすさ」へと。思考が固着し停止してまうドグマの場所へと。
そしてだが、慎重にその偏重を自覚し自制し、作品中の作者自身の匂いを排除し、絶え間ないゆらめき、たゆまぬ思考のダイナミクスの方向へ向かおうとする意志を感ずる。「わからなさ」の抽象性へと押し戻そうとする意識の流れ、その筆の葛藤を、苦悩の跡を痛いように感ずるのだ。
…ダメだ。梨木果歩さんの作品のあまりにも激しい作者の思い入れは、問題意識の表出やその表現法、その深淵な豊饒は、いつも私をたじろがせる。テーマとしてあまりにも大きすぎて興味深すぎて短い時間で短文でさくさくとまとめあげることなんかできない。
でもせめてこうやって箇条書きメモ的なるものを残しておこう。きっと続編がでる。そのときまた少しでも進展させた読みを試みてみたいと思う。