あらすじ
商売は「クズの中のクズ」の所業!? 日本はなぜ、経済大国への道を拓けたのか――ステレオタイプの知識から抜け出し、歴史・経済・文化の「なぜ」がよくわかる! 独自の史観でイッキに読ませる画期的通史。
第一章 和同開珎の謎
第二章 中世社会の闇
第三章 帝国主義の脅威と戦国時代
第四章 脱・朱子学と資本主義への道
第五章 新貨幣制と金本位制への道
第六章 日露戦争による飛躍
第七章 揺れる大正デモクラシー
第八章 敗戦からの高度経済成長
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Posted by ブクログ
日本史の通史を書いてくれる井沢氏が数年前に「お金の 日本史」という2冊の本を書いていたようで、最近本屋さんで見つけましたが、この分厚い本は、その2冊を合冊したとのことです。
500ページ近くある本で、読み応えがありましたが、日本のお金に関する歴史を中世あたりから現代に至るまで、その時期に起こった事件と一緒に解説してくれています。
現在の貨幣制度に行き着くまでに多くの試行錯誤を通してきましたが、それらがどのように繋がっているかも井沢氏のおかげで少し理解できました。これからも、様々な分野において歴史を楽しみたいと思いました。
以下は気になったポイントです。
・天智と天武 は「唐と協力するか否か」で対立があったと考えられる、 そして 先に即位した 天智が 強行路線を取り唐に惨敗したため これに反対する勢力が 天武を擁立した。その両者の戦い( 正確には天智の息子と天武の戦い)つまり、反唐派と親唐派のコクーンをかけた一大決戦が人身の乱 であった。 単なる相続争いなら全国を巻き込ん大乱にはなり得ない(p18)
・ 高麗など日本以外の国は中国の元号をそのまま使っていた、 それに対して当時の日本は「 元号を和道と改め」 独自のコインを発行した。中国製ではない 独自のコインを発行するなど 中国に対して無礼の極みであったのに日本はそれをあえてやった。「 和同開珎」は 唐つまり中華思想に対する日本の独立宣言である(p33)
・なぜ西洋のコインには穴がないのか、それは西洋のコインは 鋳物ではなく、鍛造という作り方である。 西洋のコインは 原則として 金貨や 銀貨であり 地金としての価値を持つものであったので同じコインで重さが違うのは困るので 鍛造で作られた。ではなぜ中国では問題なかったのか、 地金ではなく 中国政府がその価値を保証する「 信用 通貨」であったからである、従って 多少の量目の狂いは問題なかった(p37)
・弥生時代に 世界一のハイテク技術 を日本が持っていた、 それはどうの鋳造技術、 つまり 銅で鋳物を作る技術である、 その物的証拠が銅鐸 である。 現在の日本の最先端の工業技術でも、当時最も薄い2mm と同じものは復元できない (p39)
・日本には古くから「五色の金」という言葉があり 、金を 黄金、 銀を 白金、 銅を 赤金、 鉄を黒金、 鉛を 青 金と呼んでいた(p44)
・ 室町時代の頃から銅線の穴に紐を通し 1000枚まとめたものを、 一貫文と 呼び、4貫文すなわち、4000枚と「金 1枚」と交換するようになった。江戸幕府はそれを統一して 1両 小判を発行し、一貫文に相当する銀貨も作った、それが一分銀 で4枚で1両ということになる(p51)
・ 天智 王朝の復活の初代の 光仁天皇は老齢で何もできなかったが、 息子の 桓武天皇は 平城京を捨てて 平安京に遷都する大胆な政策を実行した。 これは天武 王朝の遺産を 大仏ごと 奈良仏教ごと捨てたということである、 だからこそ新王朝にふさわしい新しい仏教を必要とした。その要請に応えたのが、唐から 天台宗を伝えた 最澄と真言宗を伝えた空海である(p64)
・日本は大和朝廷も鎌倉幕府 も 北海道を征服しようとしなかった、 その地を 蝦夷地と呼び 先住民たちの支配に任せた。理由は簡単で米が収穫できなかったからである、他にどんな物産が算出しようと 米ができない土地は日本人にとって 無価値である(p77)
・鎌倉幕府の統治は最初は 東国 だけで、 西国は相変わらず 朝廷(天皇家と藤原氏)が支配していた。 だが 日本の半分しか支配していないことに不満を抱いた後鳥羽上皇が幕府に反乱(= 承久の乱)を起こして 敗北したために 幕府の支配は全国に広がった (p82)
・ 関西、 関東 という言葉の起源は極めて古く、7世紀の壬申の乱の勝者の 天武天皇が、東国から の 軍事 勢力の移動を警戒するために作った 関所に由来する。関所の西側、 関所の東側という意味である。 最も有名なのが 岐阜県にあった「 不破の 関」で、後世 その辺りを 関ヶ原と呼ぶようになった(p83)
・現代社会は石油という資源で動いている、 その1つ前の時代は 石炭だった。では中世の時代はそうした歴史を動かす戦略物質は何であったか、 それが「 硫黄と 硝石」である (p89)
・ 鎌倉幕府の支配は東国から 西国 に及んだとはいえ、 西国は貨幣経済の発達した 先進地帯で「借上」という金融業者 すらいた、 これが 室町時代には 彼らが多くの蔵を持っていたことから「 土倉」 また造り酒屋を兼業をしていたことから 酒屋と呼ばれ、「 土倉・酒屋」と言えば 金融業者を意味するようになる(p93)
・江戸時代の武家社会は長男がすべての財産を相続するが、 鎌倉時代の武家社会は大変 民主的で子供の数で財産を 等分した、長男は当分した財力で父親と同等の御家人としての義務を破綻 しなければいけない、 御家人の地位を継承できるのは長男だけだからだ。 だが そんなことは無理だから結局 田畑を店頭に入れて 金融業者から金を借りることになる、 返済できるわけもなく結局 御家人は 所領を失う。 そんなこともありなんとか新しい世の中にしなければいけないという思いが、 後醍醐天皇の言葉に 武士も耳を傾けた、 しかし実現した政治は武士の権利を認めず 公家を優遇するものだった、期待を裏切られた武士たちは ニューリーダー 足利尊氏のもとに 団結し 新しい「武士のための 政府」を作った、 室町幕府と呼ばれるものである(p97)
・ 最初は荘園という 藤原氏の考えた 脱税 システムで 米の収入の大部分を取り損ねた朝廷が、首都である 京の7カ所の入り口に関所を設け、 出入りする人間から関銭つまり通行料を取ることを始めた(p109) そのうち誰が始めたか明確ではないが 勝手に 関所を設けた連中は旅人から通行料をせしめるだけではなく、運ぶ荷物の価値に応じて銭を徴収し始めた。 現代風に言えば 関税を課した、 こんなことをやるべきではないと思った大名がいたかもしれないが、 自分の領内だけ 関税を廃止しても、 他から入ってくる品物には関税分が上乗せされており 自分だけが損してしまうから やらざるを得ない(p113)
・ 楽市楽座、 関所の撤廃を完全に実施したのは、織田信長である。 しかし 関所の撤廃は難しいし、 もっと難しいのは 楽座(座の廃止)である。 庶民が大いに喜ぶはずの制作なのになぜ実行が難しいかといえば、 巨大な圧力団体であり利権集団でもある「寺社勢力」が その背後にいるからである、 この時代の寺社勢力は、 暴力団のようなものである(p119)
・我々が普段 イメージする武士、 つまり 馬に乗って槍を持ち 戦闘に専任できる人間は、軍勢が1万人ならそのうちの1割か2割であろう。 彼らは「 ただ飯」を食っているわけだからそんなに大量には 抱え込めない。 では戦争の時はどうするか、専門の戦闘員 つまり 武士に加えて 領内の百姓たちを 徴兵し、 安物の鎧を着せ槍を持たせ 足軽 として使う。 彼らは 馬に乗らないから 武士たちの後を追いかける、 兵員の8割は足軽である、彼らは農業生産における重要な労働力でもある。農業が忙しい時にはあまり動員できないから思い切った戦争はできない(p135)
・ 日本では身分の低いものが天下を取ることはありえなかったその常識を変えたのも 信長である、日本は基本的に、天皇か天皇の委託を受けたもの(= 関白 及び 征夷大将軍) しか 天下の経営が許されなかった。 そして関白になれるのは 藤原氏のエリート、将軍になれるのは源氏のエリートのみであった。その常識を大変な努力によって 信長が変えた(p140)
・ 信長は最初は 本願寺 などから集めた資金を経済環境の整備に使い、 それがある程度 実現した時に 商人たちの指示を得て課税を実施した。農業生産という もう一つの財布もあるからこの税率は決して高くなかったはずである。 これに対して 旧大名たちは頑張っていた印象がある、 具体的には、毛利元就・ 今川義元・ 武田信玄・ 北条氏廉・上杉謙信・ 伊達政宗である。 それは、 金山・銀山という もう一つの財布を持っていたことである(p143)
・ 16世紀の 金銀の国際交換レートはほぼ金1に対し銀 4であった、 流通量がそれだけ多いということである (p153)
・ 種子島時堯は、 大枚をはたいて得た鉄砲を今日の足利将軍家に献上したばかりでなく、 その後作らせた鉄砲と「火薬の製造法」を無償で、 紀州根来寺と 堺の商人・橘屋又三郎に与えている。一見不思議に思える この行動も、 硝石は輸入に頼るしかなく、 また当時の寺社勢力が 経済団体として強い力を持っていたことを考え合わせれば理解できる(p162)
・ 豊臣秀吉の刀狩り(= 武装解除 )で対象となったのは、 僧侶であり 百姓 つまり 農民である。 僧侶は 僧兵と して、農民は足軽 として戦争に参加していたからそれを止めさせるために武器を取り上げた(p168)
・日本は ポルトガルやスペインとの貿易が盛んになったが、直接本国と取引したわけではない。 ポルトガルは中国の一角にマカオ という アジア支店を設けていたし、 スペインはフィリピンのマニラに拠点を置いた (p169)
・秀吉は 近代以前には世界最大の金貨であった 天正大判 を作らせた、 これは 鋳造ではなく 鍛造で含まれる金の重さは約165g であった、 実は大判が先で小判が後にできたのだが 大判は小判 10枚分である(p170)
・秀吉の軍隊は塀の分離した専門職の軍事によって構成されている、 天下統一されて平和が達成されるとその仕事がなくなってしまう、 では 全員リストをすればいいか 。そんなことをすれば大反乱が起きてしまう、 だから 同じ立場にあったアレクサンドルス大王、 チンギスハン、 ナポレオンも平和 達成の過程の中で育成された優秀な選手 と蓄積された豊富な武器を使って外国に戦争を仕掛けるしかなかった。 これは 雇用の創出、継続であって「 世界史の法則」とも言うべきものである(p174)
・ 秀吉が 中国 侵略を企てたのは国民の支持があったからである、 秀吉が勝つつもりであったことは明白である、 なぜなら 徳川家康 のような 豊臣の天下を狙う可能性がある男たちは 遠征軍に参加させてもらっていない。 秀吉は、小西行長・ 加藤清正・ 石田三成といった 子飼いの武将に手柄を立てさせたかったのである(p175)
・ 幕末にペリーが黒船でやってきたが その目的は何であったのか、 イギリスは日本を植民地化するためであったが、 アメリカは日本と貿易をして共存共栄 で行こう と持ちかけてきた 、ペリーの前任者 アメリカ 東インド艦隊司令長官 ビドルが 友好と貿易を求めてきた、 それを突き飛ばしたのも日本人である。日本があまりにも硬くなり 貿易を拒むものだから「 儲け話を拒否する日本人は理解できない」と考えたアメリカ、 ロシアも力で押さえつける イギリスの方式を見習うようになってしまった。 不平等条約はそれからである(p191)
・幕府が開国を断固拒絶したのは、 外国事情の理解不足ではなく 祖法つまり朱子学が原因である(p224)
・最終的に日本はイギリスと不平等条約を結んだ、 最初は味方だった オランダや味方 しようとしたアメリカとロシアも「 イギリスとそんな条約を交わすなら」ということになってしまった、 不平等の中身は大きく分けて2つ、 1つ目は 領事裁判権、 2つ目は外国からの輸入品に自由に関税がかけられない 「関税自主権がない」ということである(p228)
・開国時の金銀交換レートは、 国際レートの1対15に対し 日本では1対5であった。 日本で金を買えば( 具体的には 日本の小判 と外国の銀貨を交換すれば) 国際レートの3分の1の値段で金が買えた 。このため 金が流出するので 防止策として、流通している小判を回収して金の含有率を極端に落とした 粗悪な小判に取り替えることであった、 これが万延小判 という。 金の含有量は 慶長小判に比べて 約1/8 であった 。今で言えば1万円札を大量に印刷し 発行したのと同じことになる、 従って 激しい インフレを招いた。 物価が極端に上昇し収入は追いつかないから、都会の 一揆である「打ち壊し」 が全国各地で起きた、 この時 農民は自給自足できるし 商人は値上げ すればいい、 職人も給金は物価にスライドして上昇する。最も困ったのが 固定給 で生活している人 つまり 武士である(p232)
・大政奉還という形で幕府が天皇に政権を返還したのは誰でも知っているが、意外に認識されていないのは「 版籍奉還」 という形で、物資がこれまで横領していた版(=土地)と籍(=人民)を朝廷に 返却したことである、 この時点で土地は全て国有地 となり 人民は国民となった、 資本主義発展のために国は国有地を酒 渡すことで国民の土地所有を認めていくが 問題はこれまで米であった 租税をカネにする必要があった、そこで行われたのが 地租改正である。 新政府は地券を発行しこれまでの土地所有者の権利を認めた そしてその土地の収穫力に応じて決められた 地価の3% (後に2.5%に減免)を金で毎年納税 させることにした(p297)
・ 1円は そもそも 1 アメリカドルと等価であった、 これは偶然ではなく 意図的になされたことで 政府は1円金貨を作る時に含まれる金の量を1ドル金貨と同じにし、のちに 1ドル銀貨 に含まれる 銀の量と1円銀貨を同じにした、銀本位制 である (p305)
・ 日本の学者や 官僚は「財政健全化」 つまり 実質的なデフレを異常に高く評価し、その逆 の バブル あるいは インフレを極端に罪悪視するような気がする。 江戸 三大改革は全て「デフレ志向」で証人 文化は徹底的に弾圧された時代であった、 これに引き換え 五代将軍時の 荻原重秀 がおそらく 日本初と言っていい インフレ政策を行った( 金貨 銀貨の質を落とすことによって 発行量を増やし 現代風に言うならば 紙幣を増刷する形で 後継機を招いた) しかし この元禄 バブルも「 田沼 インフレ」 もその後 デフレ 制作を実行した、新井白石・ 松平定信によって徹底的に批判されてしまった(p307)
・ 農民が本当の意味で救済されたのは大日本帝国が1945年に戦争に負け、 アメリカ軍を主体とする GHQ が王地主から安価で強制的に農地を買い取り、 それを 小作人に与えるという形で 自作 脳に復帰させた農地改革によってである(p310)
・日清戦争の戦費は一体いくらかかったか、 当時のお金で 2.3億円と言われている。 1円=1万円 と考えられるので 現在の2.3兆円になる。 当時の予算が9000万円程度なので、全予算の3年分を一気に使ったということである(p313)
・日露戦争の戦費は当時の金で約17億円である、 国家予算が約3.5億円 なので 5年分の予算を一気に使ったことになる。 17億円のうち14億を戦時国債で賄い、国内で売られた 円建てと 海外市場で売られた 英ポンド建ての比率はほぼ半分であった(p338)
・日露戦争の勝利によって 欧米列強 は日本を仲間に迎える形をとった、具体的に言えば これまでアメリカに対しても イギリスに対しても「 公使」しか置けなかったが それより格上の「大使」を置けるようになった、 それは対等な国家関係になったということだから、 基本的に外国人居留地 は廃止された 。それまでは 欧米列強の国民は 指定された地域に住み 大使館のように 各国の軍隊が警備する形をとっていた (p362)
2026年7月21日読破
2026年7月23日作成