あらすじ
福島、沖縄、パレスチナを訪れ、不条理を強いられ生きる人々の姿を追った、著者の6年間の行動と思考の記録。
遺骨収集に取り組む2人の男性の言動を通して、歪んだ現代日本の社会構造を浮き彫りにするとともに、「未来の人の明日をつくる」ためには何が必要なのかを提示する。現地に赴き、自らの実体験から言葉を紡ぎ出した気鋭のジャーナリストの問題提起の書。
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福島、沖縄、ガザ
安全な所にいる私たちの無関心が、虐げられて苦しんでいる人びとを踏みつけるのだ。
「自分たちは大丈夫だから」と何もしないことが、何もしない政府を守り、被害は止まらないし、改善されない。
もういい加減、声を上げていかなければ。
p105「これは人間の尊厳の問題で、人数が一人だから二人だからという問題じゃないですよ。たとえたった一人であったとしても、あなたには声をあげる権利があるんです。一人の利益のために全体の利益を損なうなという人がいますけれど、そんなの関係ない。一人の人間を大切にできないのに、社会を大切にできるはずがないんですよ」
p140 大熊未来塾に参加した若者の多くは、もとよりこうした社会問題に関心を持っていながらも、いざ誰かと共有しようとすると、「意識高い系?」と揶揄されたり、そもそも話せる相手がいなかったりといった悩みを抱えているようだった。このつながりを通じ、「ひとりではない」と感じられたという声がそれぞれから寄せられた。
p252 踏まれている側が「もっと怒れ」とたたみかけられるのは今に始まったことではない。原発事故後にも、「福島の人はもっと怒れ」という言葉が飛び交ったが、その持つ意味は、「他人事」でしかないだろう。こうして「踏んでいる側」が無自覚であることそのものが、暴力なのだった。
Posted by ブクログ
おりしも山口県宇部市のりしも山口県宇部市の海底炭鉱「長生炭鉱」の坑道で
遺骨が発見されたとのニュースが流れていたそのさなかにこの本を読んだ。
大東亜戦争の最中で、多くの朝鮮人が炭鉱で労働を強いられ、水没事故で彼らを
救済することなく坑道をふさいでしまった、生き埋めになった方々の遺骨。
安田菜津紀さんのこの本にはこの話は出てこない。
出てくるのは東日本大震災で津波にのまれた方々の遺骨、
米軍沖縄上陸で、本土の盾とさせられた沖縄の方々の遺骨、それも、
辺野古の埋め立ての土にされようとしている場所の。
さらには今も続くガザ紛争の被害者の遺骨、、、イスラエルの戦争犯罪。
正直言うと私は遺骨の在り方、保存の仕方については複雑。
遺骨、というより、それを守る墓に対してだが。
墓ばかり増えては、その土地の管理も大変だし、何より遺族がしんどい、と思う。
先祖代々、ならまだしも、核家族化でどんどん分散、しかも少子化。
墓守の負担は重くなるばかりだ。いや、先祖代々でも、子供が東京に出れば一緒。
墓を守る、骨を守る、ことの意味を考えさせられる。
形などいらない。亡くなった方は心の中にいる、そう思いたい。
それを忘れがちなために形を残す、墓を残す。しかしそれが負担、、、
散骨でも樹木葬でもいいように思う。
が、今回の本の遺骨は別。百歩譲って震災は人間ではどうにもならないが、
戦争がらみはそうではない。人為的に、望まない死に追い込まれた人たちは、
少なくとも遺族のもとに戻すべきだ。その後どうするかは遺族次第としても。
国の責任は大きい。
長生炭鉱についてはまだ国は何もしていない。
骨が見つかったら、、がいいわけだったが、ボランティアの力でこうして見つかった
以上、動いてもらわなくてはいけない。動く義務がある。
遺骨、、死そのものだ。つまり生そのもの。
軽んじられていい命などどこにもないはず。
プロローグ
第1章 2018年2月 パレスチナ
第2章 2019年2月 福島
第3章 2020年6月 福島
第4章 2021年4月 沖縄
第5章 2022年1月 福島
第6章 2022年4月 沖縄
第7章 2023年1月 福島
第8章 2023年10月 東京
第9章 2023年12月 パレスチナ
第10章 2024年2月 福島
第11章 2024年6月 沖縄
第12章 2024年8月 東京
第13章 2024年9月 東京
第14章 2024年11月 福島
エピローグ
Posted by ブクログ
涙を我慢しながら読んだ
わたしは本当に何も知らなかった
ガザもパレスチナもイスラエルもハマスも、何もわかっていなかった
福島のことも、自分もあの地震を東京で体験したからと知っているふりをしていただけだった
沖縄のことも本やテレビを見て、学生の頃に勉強して知った気になっていたけどまったく足りなかった
明らかにイスラエルがパレスチナ人に対して行い続ける暴挙を、日本が沈黙という踏みつける行為をしていること。知らなければいけなかった
パレスチナ人はどんな思いでいるのだろう
あの震災で大切な何かを亡くした人びとはどうしたら救えるのだろう
沖縄の女性はいつまで米兵に怯えなきゃいけないのだろう
沖縄にはいつ本当のおだやかな時間が訪れるのだろう
不条理を強いられる彼らに何ができるのか
辺野古埋め立てのために、遺骨が含まれている土砂を使っていること
遺骨の上に中間貯蔵施設を作ること
イスラエル人が犠牲者の上に「美しい家」を建てること
犠牲者を、遺族を、さらに犠牲にするのか
わたしたちはいつまで踏みつけ続けるのだろう
わたしは中立じゃないと自信をもって言えるのかはわからない
ただひとつ、性暴力についてはわたしははっきりとぜったいに許さない
いつまでもいつまでも支配の道具として使い続けることを許さない
沖縄旅行を楽しむ人たちが踏みつけている地面の下には、もしかしたら沖縄戦で亡くなった方々の遺骨が遺されているかもしれないと思えば、誰もが見て見ぬふりはできないのではないか
ベルが生きていてくれてとてもうれしかった
Posted by ブクログ
安田菜津紀さんの『遺骨と祈り』を読みました。
福島、沖縄、東京、パレスチナ、東ティモール・・・フォトジャーナリストである著者は2018年2月から2024年11月までの6年以上にわたって現地の土を何度も踏み、多くの人々に出逢い、語り合います。本書は、その行動と思索の軌跡であり、そのなかから紡ぎだされる「祈り」の記録です。
東日本大震災で家族を失い行方不明の次女の捜索を続ける大熊町に暮らす父親。沖縄で戦没者の遺骨収集に40年以上取り組む男性。お二人の出会いが本書の主軸になっています。著者が担当するラジオ番組の特集コーナーがキッカケでお二人はつながります。本書でそのくだりを読んだとき、著者のひらめきと行動力に驚きました。
そして、著者とお二人がともに福島県大熊町で遺骨の捜索にあたる場面に心を打たれます。「出てこいよ。出てこいよ。家族のもとに帰れるよ・・・そう念じながら掘るんです」胸に迫る言葉です。「生を奪われた人々の尊厳」に真摯に向き合う姿勢と行動に圧倒されます。ともに遺骨に祈りを捧げるのです。
今の社会の中で、自らを「踏んでいる側」に位置付けた上で「踏まれる側」に深く強く思いを致す著者。その筆致は鋭いものがあります。その思いは、福島や沖縄から「一本の線」で、パレスチナや東ティモールにつながっている。現地の人々との語らいや交流が胸を打ちます。
「今二人が取り組んでいることは、混沌とする世界のうねりに滴る雨だれのようなものかもしれないが、それでも投じたしずくが、百年後、千年後の未来の人をつなぐ、命の一滴になる可能性を、私も生き続ける限り、見つめていきたいと思う」筆者の強い思いが伝わってくる一節です。
冒頭の美しい6枚のカラー写真、本文の各所に配置されている31枚のモノクロ写真。多くの写真に存在感があります。どの写真も美しいだけでなく祈りに満ちています。心に響きます。本書を読み終えたあとも何度も写真を見返してしまいます。
本書を読んでよかったと感じています。わたしには本書に登場する人々や出来事を胸に刻むことくらいしか出来ないけれど。