【感想・ネタバレ】玉三郎の「風を得て」のレビュー

あらすじ

坂東玉三郎とは、何者なのか?

稀代の女形、五代目坂東玉三郎。
歌舞伎の家の生まれではなく、芸養子として歌舞伎界に入り、どう修業を積んでいったのか――
その生い立ちは意外なほど知られていない。
玉三郎と30年の交遊を結ぶ、小説家・真山仁が長年の対話を元に小説形式で描いた第一部「秘すれば花」。
そして、玉三郎が傾倒する世阿弥の『風姿花伝』にちなみながら、玉三郎の哲学と美学の深淵に迫った第二部「その風を得て」。
現代人に大いなる知恵を示す玉三郎の言葉の数々と、貴重な写真を収録した完全保存版。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

Red Chairを見て素敵だなと感じて、モデルなのでは?と言われている「国宝」の原作を読んでから映画を鑑賞。
そうしたらどんどん興味が湧いてきて本書を購入。
「国宝」の原作で喜久雄が観客の乱入から「現実との境界があいまいになって(自分に戻る事が出来なくなった)壊れ始めた」と思うんだけど、「演」の章で同じようなことを語っていたのに驚き。
なんだかどの映像をみてもふわふわ優しそうに見えるのにピリっとした空気があって不思議な方。
いつかと言わずなるべくはやく舞台を見に行ってみたいと思わせる本でした。

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2025年10月24日

Posted by ブクログ

ネタバレ

玉三郎の「風を得て」

著者:真山仁
発行:2025年9月30日
文藝春秋
初出:
第1部 『秘すれば花――玉三郎の言葉』(改題) 「文學界」2023年11月号~2024年5月号、9~11月号
第2部 『その風を得て 玉三郎かく語りき』(改題) 「文藝春秋」2019年6月号~2020年8月号
終章 『板東玉三郎「司馬遼太郎さんが教えてくれたこと」』 「文藝春秋」2020年10月号

人間国宝なのに、その生い立ちを知っている人はとても少ない(少なかった)。僕も知らなかった。70年代のはじめ頃、中学の音楽の授業で玉三郎の話を聞いた記憶がある。その時点で既に大変な有名人になっていて、尊敬される存在にもなっていた。玉三郎がまだ20歳そこそこの頃。

歌舞伎役者の子ではなく、一般家庭から出た子だということは知られていたが、どういう経緯で登場したのかはまったく知らなかった。きっかけは、1歳のときに罹患したポリオで両足に麻痺が残り、そのリハビリで始めた日本舞踊だったという。本格的に習い始めたのは5歳で、頭角を現して6歳で初舞台を踏んだ。

「自らを語るようなものを残したくない」という本人の意志により、こうした玉三郎誕生ストーリーは伝記小説の形式にしている。本書は2部構成で、1部が本名をカタカナにした「シンイチ」が主人公の物語、2部が玉三郎と著者が過去に何度も会って話をした内容を、漢字一文字のキーワードで表現しながら綴る。

著者は、「ハゲタカ」の著者として知られる小説家。最近ではノンフィクションライターとしても活躍する、元新聞記者である。ポーランドのアンジェイ・ワイダへのインタビュー記事を読んだ玉三郎が、指名で取材を依頼してきたことが出会いだったという。その時点で著者はまだ小説家ではなく、フリーライターとして生活をしていた。歌舞伎も見たことがなく、玉三郎の(現代劇)舞台も見たことがない。一度は断ろうとしたが断れないと言われて、付け焼き刃的な勉強をすることなく、歌舞伎のことはなにも知らないと正直に言った上でインタビューをした。すると、約束の30分を超えてももっと話そうと玉三郎側から言ってきて、さらに、それ以降も何度も会って話をするようになったという。その関係は30年間続いているそうだ。

玉三郎は東京の大塚にある料亭が実家。父親がラードの販売で資金をつくり創業した。芸妓さんが出入りしているので、日本舞踊は身近なものだった。やがて、近所の歌舞伎関連の人から歌舞伎をしてみたらどうかと言われ、十四代目守田勘彌(かんや)の部屋子となっていく。家庭が裕福だったことも、シンイチ少年を歌舞伎の女形として後押ししていく条件となった。


*************
(読書メモ)

第1部

玉三郎の父は、戦後、保有していたラードの販売で富を得、大塚に料亭を開いた。その頃から豪遊が始まり、前妻は離れ、その後に結婚した母との間にシンイチが生まれた。父に3人、母に1人の連れ子。玉三郎は「四男なのに、長男、一人っ子」だった。両親はシンイチを深く愛した。

シンイチが1歳の時、体温が高いので近くの医院に母が連れて行くが、解熱剤の注射を打つのみ。熱は下がらない。総合病院へ。急性灰白髄炎(ポリオ、脊髄性小児麻痺)に感染していた。当時はワクチンがなく、ペニシリンを投与するのみ。

入院生活へ。障害が残るかも知れないと医師。約1月後、父が「おい帰るぞ。こんなところにいたらシンイチが死んじまう」と突然、言い出した。父は、障害が残るかもしれないと言われた時、「俺の遊びのせいだ」と打ちのめされ、遊びをやめて片時もシンイチから離れなくなっていた。

退院すると、主治医や療法士の往診が始まった。足は回復したため、シンイチはリハビリを拒むようになった。完全に病気前の状態に戻したい両親があれこれさせるが、どれも続かない。母親が日本舞踊だと考える。芸妓が出入りしる料亭は自宅とつながっているのでシンイチにとって日常の一部だった。外出を嫌がったシンイチだったので、先生を自宅に招いてマンツーマン稽古。シンイチはめきめき腕を上げ、5歳で本格的に始め、6歳で初舞台を踏んだ。近所に住む歌舞伎関係者が歌舞伎に進むことを奨めた。

シンイチは、以前に歌舞伎座で『籠釣瓶(かごつるべ)花街酔醒(さとのえいざめ)』を観て、当代随一の女形・六代目中村歌右衛門が演じる花魁・八ッ橋が、主人公に刺殺される場面を、自宅で何度も演じていた。芝居好きの父は大乗り気になった。母親も「一人で生きていける」手立てになるかもと期待した。

1956(昭和31)年、十四代目守田勘彌(かんや)の部屋子となった。
*師匠の楽屋に入り、行儀から舞台上での芸事までを仕込まれる見習いのこと

守田家(森田家)は森田座(江戸三座の一つ)の座元という名家。十二代目の五女の子が、十三代の叔父の養子になって十四代に。実の息子が2人いたが、資質面で見切りをつけ、跡継ぎを探していた。普通なら遠慮する座布団に堂々と座ったシンイチを「大きく化けるかも知れない原石」だと直感し、部屋子に。シンイチは、板東喜の字を名乗って初舞台に立った。シンイチの父親はそれまで片時も離れなかったが、稽古に関しては一切嘴を挟まなかった。

厳しい稽古を厭(いと)うことなくむしろ楽しみ、無邪気に振る舞い、才能を発揮していく姿は、往々にしておこる先輩俳優からの「生意気だ」の嫉みも呼ばず、さらに目指すのが女形だったことが幸いし、大名跡の俳優が警戒を解き始めた。彼らの息子たちは、立役を望む者が大半であり、むしろシンイチはその相手役という存在だったため。

1964(昭和39)年、14歳のシンイチは五代目板東玉三郎を襲名、カンヤの芸養子となった。四代目玉三郎だった養父カンヤは、五代目襲名の日から態度が一変。これまでの放任から、跡取りとしての厳しい教育を始める。教育係として、2人のベテラン俳優がつく。二代目板東弥五郎(54歳)と三代目板東田門(たもん)(50歳)、前者は立役、後者は女形。

玉三郎の人気を不動のものにしようと考えた人間の一人が三島由紀夫だった。1967(昭和42)年、16歳の玉三郎が演じる『桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)』の白菊丸を観て、「薄翅蜉蝣(うすばかげろう)のような」と評したが、3ヶ月後に舞台を観ていた客としての玉三郎と偶然隣り合わせた際には、あの美少年は誰だと劇場関係者に尋ねる。白菊丸と素顔の違いに驚き。

二年後の1969(昭和44)年、新作歌舞伎『椿説弓張月』を三島は書き下ろす。八代目幸四郎、二代目鴈治郎、八代目中車、三代目猿之助が揃い、玉三郎は為朝(ためとも)の正室・白縫姫に抜擢された。三島のたってお希望だった。演技は絶賛されたが、カンヤの躾はそれを境にさらに厳しくなる。「後ろ姿の帯の揺れ方に驕りがある」「挨拶の時にも傲慢さが出ている」など・・・

1970(昭和45)年、十代目市川海老蔵との「海老玉コンビ」
1975(昭和50)年、片岡孝夫との「孝玉コンビ」

当時、六代目中村歌右衛門は「戦後の女形の最高峰」と言われていた。玉三郎も憧れていた。玉三郎が20歳の時、歌舞伎座の廊下の角で、偶然にも歌右衛門と顔を合わせた。緊張して避けようとした彼の前に、53歳の歌右衛門がぴたりと止まり、「玉ちゃん、いくつだい?」と質問。「20歳です」「あっそう」とだけ言って去った。

1970年(昭和45)年、気鋭写真家キシンの撮ったシンイチの写真集がカンヤの逆鱗に触れた。楽屋や幕が上がる前の舞台で撮影したため。歌舞伎の撮影は幕が上がってから。見せ場でシャッターを切るものだったが、その約束事を無視していた。シンイチが容認したことに激怒したのだった。謝らないシンイチに「守田の家から出て行きなさい」。

一度は実家に。しかし、結局は守田に戻り、それ以降は実家に「里帰り」することはなかった。

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第2部

玉三郎と著者との30年間の付き合いにおいて、玉三郎に質問したり、玉三郎が語ったり、話し合ったりしたことを綴る。テーマを漢字一文字で表現。「醜」「演」「闇」「妖」「海」「情」「粋(いき)」「伝」「花」「風」「老」「桜」「夕」「食」「美」の12テーマ。

玉三郎の語りをまとめたというより、半分以上のボリュームで著者の体験や考えなどを交えて表現しているため、それほど興味深く惹きつけられる内容ではなかった。ただ、2、3は納得されられるものがあった。

「醜」
著者は頭脳明晰な優等生たちと話す機会が多いが、彼らの中で芸術や文化を語る者が増えた。知性だけでなく、感性としても「優秀」でありたいと望んでいるらしい。彼らは美を語る時、とても論理的で多弁だ。その上、何でも褒めちぎる。まるで自らがその現象に美のお墨付きを与えるかのように。そして、彼らが語れば語るほど、聞く側は美の実感から遠ざかる。美への理解が類型的で相対的に追いやられてしまうからだ。

「花」
「花がある」と称される人には、理屈では説明できないオーラのようなものがある。玉三郎はそれを「色気」と呼ぶ。ただし、それは「セクシー」とは異なる。「性的な魅力がなくても、人の魂を揺さぶる力が、色気だと思います。それは、本人が意図して振りまくのではなく、湧き上がり漂ってくるものです」

世阿弥が『風姿花伝(花伝書)』で綴ったの、目指すべき人の生き様でもあるのかも知れない。
「花のある人や物のそばに居ることが、大切だと思います」(玉三郎)

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2025年11月25日

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