【感想・ネタバレ】精神分析の歩き方のレビュー

あらすじ

「つくづく、いままでになかったタイプの本。この国で精神分析への道を歩いている人が、歩こうとしている人に向けて書いた愛と連帯の書。これが最初の本だということに山崎さんの人柄を感じます」(藤山直樹)
「本当は根源的批判の書だ。自由を得るか、苛立つか。それがあなたの立っている場所を教えてくれる」(東畑開人)

「難しそう」「敷居が高い」「めんどくさそう」――。とかく近づきがたい印象を与えがちな精神分析。その印象を払拭するため、「観光客」に向けて懇切丁寧に書かれた精神分析ワールドツアーガイド。
日本精神分析の100年にわたる歴史の中で、かつてこれほどにやさしく、そしてこれほどに危険な精神分析の書があっただろうか? 精神分析をこれから学ぶ「観光客」に向けて懇切丁寧に書かれたガイドブックでありながら、精神分析を相対化するような痛烈な批判が織り込まれている。
さらには現代メンタルヘルスの大きな潮流である当事者概念・エビデンス概念と渡り合いながら、新世代の精神分析的思考を展開。他ならぬ「いま」における精神分析の存在意義を問うた一冊。

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Posted by ブクログ

これもよかった。
前半は初学者というか、はじめてこういうのを読む自分にはとても難しくなんとか気合で読んだので、ひとまず飛ばして第9章モチベーション論から読むのもありかと。
自分がケアする側として、実際にどうやって対話を進めるべきか、自分の答え方次第でどうにでもなっていってしまうなと思った時に、臨床心理士の方が実際どうやってカウンセリングを進めているのかを垣間見れる一つの貴重な例を具体的に書いてくれている。

終盤の、「他者への信頼」のところはこの本の真骨頂というかものすごく良かった。
これが大変でしんどかったのかと。
精神分析とカルトについても、真正面から考察していてとても面白かったです。
題名はなかなか敷居が高そうですが、ぜひ読んでみてほしいです。

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2023年09月08日

Posted by ブクログ

思ったほど「精神分析」独特の濃さはなく,
読者の興味本位ーいわゆる観光ーを大事にしている印象。

けれど,当たり障りがない,臨床感(現場感)がない,ということは全くない。
むしろ,(精神分析を志すかどうかに関わらず)心理職を目指す初学者が触れておくべき視点が満載。

また,現代社会における精神分析の居場所のなさについても,真っ向から述べられていて...なんというか...なかなか出会えない貴重さを感じた(大学の講義でたまに聴く教授の本音のような)。

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2022年06月02日

Posted by ブクログ

力動的なオリエンテーションにいる人もそうでない人も、公認心理師もしくは臨床心理士を志している人には一読してほしい本だった。特に修士の学生あたりに。

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2022年02月07日

Posted by ブクログ

精神分析をやっている人にも、これから始めようと思う人にも、途中で挫折した人にも、面白く読める本。初学者の時に、このような本に出合いたかった。学習初めの人が疑問に思う点にも、痒い所に手が届く。内に対する批判もありながら、外に対して開こうとする、若手分析家の意欲作と思う。

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2022年02月03日

Posted by ブクログ

まさにガイドブックでした。

私は精神分析、まったく習ったことはなく、
精神分析というものがあるということぐらいしか知りません。

実際に精神分析をこれからやっていこう
という人に向けて主に書いてあるので、

自分にはピンとこないところもありましたが、
第二部、心理臨床学の歴史は、心理学を学ぶものとして興味深かったですし、

第三部は、「専門家」として参考になりました。
第9章は、調査面接でもかなり参考にできる内容だと思います。

第四部は、コミュニティ論としても読め、
これからコミュニティを作っていきたい立場として、共感と学びがたくさんありました。

これは文庫化してもらえると、多くの人が手に取れて、
とても良いなと思います。

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2022年12月29日

Posted by ブクログ

精神分析と精神分析的心理療法は名称が違うので,別物と考えるべきで,しかも,「精神分析的心理療法は精神分析的でない」とも書いてあったりする。これは著者のせいというよりも,精神分析を専門としていると自認している人たちの間に様々な流派があるという「一枚岩の対極」の状態であるからだろう。

臨床心理学自体,様々な学派がある中,精神分析はその学派の1つでありながら,さらにその中で流派も様々なという有象無象性があるのかもしれない。(著者は「群雄割拠」という言葉を使っているが…。)

とはいえ,この著者は論調からして誠実な人であろうことは予想できる。海外観光客が日本で見たいところだけ見て,それを「日本」として堪能している様子に「そんなもので日本を分かった気になって…」と批判的に見るような上から目線ではダメなのに,これまでの精神分析コミュニティはそういう上から目線になっているのではないか。そういうつまみ食いからでも歓迎すべきなのではないか。「発信の不備にこそ精神分析コミュニティが抱える本質的な問題がひそんでいる」(p.7) のだと言う。私自身も,精神分析を専門と自認している人間の傲慢さというか,決して自分のミスを認めようとせず謝らない姿勢に辟易した経験がある。精神分析を密教のごとく「すぐに分かってたまるか!」と牙をすぐに剥き出しにするような連中に比べると,この著者は真摯な態度で精神分析を紹介しようと試みているように見受けられる。

ただ,この著者は「心理臨床コミュニティにおける精神分析の立ち位置」を中心に精神分析という学派のリスクを論じているが,本当の問題はもっと広く,「心理学コミュニティにおける精神分析の立ち位置」が問題だと思う。基礎系と親和的な臨床学派がある中で,精神分析はエビデンスに疎く,むしろ抵抗する点で,心理学内でも最も「話ができない」と思われているきらいがある。それは先人のせいであるし,未だにそれを引き継いでいるからである。

アカデミックには「心理学は科学」と基礎系に言わせて,精神分析にも触れさせる形になっているので,心理学はずっと「羊頭狗肉」状態になっている。心理学と精神分析を切り離すと(現に海外のアカデミアではそうなっている),心理学は羊頭狗肉の度合が減るし,精神分析はエビデンス嫌いの集団として確立できるので,心理学と精神分析とは一線を画すあり方を取る方が学術的には健全であると思う。

そもそも,心理学の卒論の「実証的な」テーマとして精神分析を扱えない。何しろ,当の精神分析を専門とする教員が事例研究ばかりを行い,実証研究を行わない。心理学コミュニティにいても,基礎系心理学者にすら見えないことをしている(研究成果がオープンにならない)という閉鎖性が非常に強い。著者はエビデンス主義の臨床主義者である下山氏の「(近代化から取り残された)精神分析は利用者である市民からも見放される」ということに反論したいようだが,心理学コミュニティにおいて基礎系心理学者から精神分析は見放されていることには全く触れていない。少なくとも,基礎系心理学と最も不和で,最も敬遠されているのが精神分析である。言い換えれば,基礎系心理学者に基礎が理解されないのが精神分析である。ゆえに,精神分析は心理学と分離するのが健全なのである。

臨床界隈は,もはや各学派が覇権を争う「闘争の時代」ではなく「寛容の時代」であり,時代に合うようにアップデートしなければならないらしいが,学術的心理学からすれば,精神分析は旧態依然である。将来のクライアントになるかもしれない世代は,データサイエンスの時代を生きる人間だ。精神分析が非科学的で宗教の類と捉えられるならば,学問の皮を被った精神分析よりも,最初から宗教であることが明らかな宗教や信仰の方を選ぶ方が健全と判断するのではないだろうか。

著者は概ね真摯的であるが,下山史観自体が縄張り争いとして捉えているのは,基礎系・学術的心理学から見て履き違えている。精神分析が心理学内にあるのであれば,科学としての守備範囲を科学的な方法で示すことが要請されるということだ。人文科学という価値観に立つ反論は,心理学における反論ではない。精神分析に,学術的心理学としての観点が欠落していることが大問題なのである。また,「Clinical Psychologyと日本の臨床心理学が別物であることは(下山氏も著者も)重々承知(p.133)」とのことだが,その日本の臨床心理学が海外の臨床心理学とは相違がある点を日本の大学で学生にちゃんと明示しているのだろうか。きっとそんな話を学生は教わっていない。極めて不誠実だ。下山史観が正史かどうかについて反論したとしても,アカデミックなスタンスは不遜である。旧態依然という歴史は間違いなく続いているのが精神分析だ。政治的な観点で言えば,臨床心理士会は自民党議員を会長や名誉会長のポストに引き入れているが,下山史観は政治性が足りないと指摘するのであれば,力動派と政治家の繋がり(癒着?)にも触れたらどうだろうか?

クライアントのために説明責任を備えることと,エビデンスベイストは矛盾しない。精神分析は一体誰のためにエビデンスベイストを拒んでいるのか。基礎系の専門家で精神分析家に相談する人に出会わない理由はそこにあると思われる。学術的心理学者が見向きもしないのが精神分析であるというのが実態だ。

…とここまで「著者は真摯な態度で…」と書いたが,力動に対する批判に対する反論が全くなっていないので,撤回したい気持ちも出てくる。著者は「何でも測定可能という考え方」を否定し,エビデンスベイストを拒む。測定万能主義を否定するのは同意するが,精神分析の問題は「測定しなさすぎ」が問題なのである。それなのに,「測りすぎ」という風潮を非難する。「測りすぎ」を批判するほど測定していないことが問題なのである。

例えば,p.136に『「何がどうつらいのか自分でもわからないけれど,つらい」といったことを明確にしてゆくプロセスにこそ,私たちの技術が注がれると言ってもよいほどです。』とある。であるならば,明確になった度合いやそれまでの期間やセッション,それでつらさが緩和されたのかくらいの測定はできるだろう。しかし,それをしない。「それくらい測定しろ」という指摘を「全て測定できるわけない!」というストローマン論法(言ってもいないことに対象を置き換えて交わしたつもりになる論法)を使ってくる時点で「アカデミックなレベルで話にならない精神分析」が一向に改善しないのである。そこが分かっていない。おまけに,著者が言うように,「精神分析家は悦に浸りがち」な側面もまた,他の科学者には絶対に通用しないであろう論法が体現していると思う。

さらに,「Clinical Psychologyのグローバルスタンダードにどうして合わせないといけないのか? むしろ,ローカルな目の前のクライエントの役に立つことを目指すのだ!」と吠える。グローバルスタンダードとは異なってきた事実を認め,「それなりにクライエントに役立ってきた」ことを根拠に良しとする理屈は,グローバルスタンダードの方にも当てはまるだろうし,クライエントに役立つことをちゃんと示そうとするからこそのエビデンスベイストではないか。「誰のための科学か」という問いは,確実にクライエントのためであり,基礎系心理学者に精神分析を頼る動きがまるで見られないのは,クライエントのために効果をきちんと示すことをしておらず,それどころかエビデンスを示そうとしない主張ばかりしていることが逆に「誰のための主張なのか? クライエントのためではなく,ただの自己弁護に過ぎない」と映るのである。すると,「フォナギーを筆頭に効果研究もなされている!」と反論してくるが,心理学の中の精神分析同様,科学的エビデンスの提示は一部の有志に任せっぱなしで終わっているという連中ばかりではないか。著者も次のように書いている。

“残念なことに,「実証研究は精神分析の実体を反映していない,臨床の『現場』には無意味な研究で,精神分析にまつわる実証研究は『科学ゲーム』でしかないと考えている臨床家はまれではない」のは事実でしょう。”(p.139)

また,EBMの理解もおかしい。

“科学的価値観に基づくEBMの内実を言語化すれば,「予測し,制御し,危険性を回避することが望ましい」というものになるでしょう。そこでは,予防とリスク管理が重視されます。それらが成功すれば,私たちには安全安心で快適な生活が保障される,そういう思想です。”(p.141)

“これまで私たちは「真の」心理臨床学を追い求め,「縄張り争い」を続けてきたのでしょう。各々の信奉する学派こそが「真」であり,ほかは「偽」である,という近代の世界観から抜け出せていなかったのかもしれません。しかし,ポストモダンの心理臨床でもっとも重要なのは,何が「真」かを決定することではなく,クライエントのニードに沿ったものをいかに提供するかなのです。その際,治療者の好みによって力動的なものを貶めたり,EBMを貶めたりしないことこそ,私たちに求められています。”(p.162)

EBMはクライエントの志向や価値観を無視しない思想であることは書かれていない。ここでもストローマン論法を用いていると言わざるを得ない。

心理臨床コミュニティにしか視野が及んでおらず,心理コミュニティにまで広げれば,こういう「煙に巻く」ことばかりに長けていく「ケムマキ精神分析」は全く正当化できないし,ずっとそんな状況が続いている。「棲み分け」などでは済まされない。

スポーツの分野でVARなど,チームの結果に関わる大事な要素に対して客観性を求めるようになったのは,審判の傲慢さや誤りをチェックすることであり,VARの採用は審判側にも誤りの恐れがあることへの謙虚な態度とも考えられる。VARの採用について「全てがそれで解決できるなんて!」という批判をしようものなら,バカ扱いされるのがオチであろう。エビデンスとはVARであり,一般人の「知る権利」にも通じるのである。

科学的価値観の押し付け以上に,VARやエビデンスは謙虚さにつながる。効果が認められなかったという結果が得られてもなお,「私の抱えるつらさには精神分析がいいと思う」と足を運んでくれるクライエントに対して,「効果なしエビデンスの存在」によって,精神分析家はより一層謙虚になれるのではないか。VARとエビデンスを採用しないのは「傲慢なままでいる」という宣言と同じである。残念ながら,著者の書き方が「アカデミックな心理学」のコミュニティを否定するものになっている自覚がない。「アカデミックな心理学」に対してオープンにならない以上,精神分析が心理学の一分野とするのは詐欺である。

私は勉強のために本書を読んだが,若い人にも精神分析は勉強に留め,優しい口調に騙されず,深入りして人生を棒に振ることは避けてほしいと切に願う。とはいえ,繰り返しになるが,この著者は,私がこれまで出会ってきた「謝れない精神分析家」と比べて真摯な態度であることには違いない。その意味でも,旧態依然の言い訳から脱してほしいと思う。

ちなみに,東北大学大学院は,精神分析から離れて別の臨床心理学の流派に集中できる(逆に,精神分析に集中できる)という体制になっているらしい。VARを持った臨床心理学を見る目を持って,進路選択をすべきだ。

*****
日本で「精神分析的心理療法」と呼ばれてきた実践には,「精神分析的」な《精神分析的心理療法》も,「精神分析的」でない《力動的心理療法》も含まれてきました。個々の「精神分析的心理療法」は,「精神分析的」であったり「力動的」であったり,ときには「精神分析様」であったりしました。しかし,「精神分析的心理療法」総体としては,「精神分析的」でない《力動的心理療法》が大勢を占めており,そのことは十分に意識されないできました。(p.71)

 …,この[先行世代の分析的臨床家が培ってきた精神分析に対する評価,イメージが,現役世代に色濃く影響してくるという]位置づけを知らずに自己の正当性ばかりを主張していても,逆にあなたが精神分析を実践する機会が奪われることになりかねません。最悪の場合,あなたが「オリエンテーションは精神分析です」と言っただけで,あなたは何もしていないのに,「こいつは話のできない面倒なやつだ」と思われる可能性もあることを知っておかねばなりません。もし実際にそんなことになったら,あなたはまったく納得いかないことでしょう。でも,そうなるだけの歴史が存在しており,「オリエンテーションは精神分析」と言う以上,好むと好まざるとにかかわらず,精神分析の歴史を背負うことになってしまうのです。
 ここで「それは自分のしたことではないから関係ない,自分のやることを見てください」といったスタンスを取っていては,「やっぱりイメージ通り話ができないやつだ」ということになり,実践のための場を設えられなくなってしまいます。ですから,私たちは精神分析が心理臨床コミュニティにおいてどのような位置づけにあるのかを知り,それを含みこんで動く必要があるのです。(p.102)

そこに「エビデンス」がない以上,それはカルトと呼ばれても仕方ありません。(p.148)

「それ[無意識概念を持ち込むことによって,治療者/クライエントという非対称関係に,上下関係をより強く生じさせること]は自分のしたことではないから関係ない,自分のやることを見てください」と言いたくなるかもしれません。ですが,「専門家」の立ち位置が問い直されている現在,現実には心理士に権力がなくとも,精神分析に権力のイメージが付与されている以上,「自分とは関係ない」と主張することは無益です。正の遺産だけを引き継ぎ,負の遺産相続を放棄することはできないのです。(p.156)

「私はわかっている,あなたはわかっていない」という傲慢な考えがすけて見える精神分析オリエンテーションの心理士を見かけることがよくあります[よくあるんや…]。ですが,精神分析の思想に内包されている権力性を意識しなければ,ポスト専門家の時代,私たちは世の中から取り残されてしまうことでしょう。(p.156)

[アカデミックな学問としての意識を失うほど「科学を相対化して無価値化する論法」,及び全くの?なところ]
 繰り返し述べてきたように,私たちは価値観をもたないでいることはできません。実証科学の重視もあくまでひとつの価値観にすぎません。グローバルスタンダードは多くの人が採用している基準かもしれませんが,すべての人に合致する基準ではありません。そうした理解に基づき多様性が前提となっている社会こそ,ポストモダンです。誰もが誰をも批判せず認め合う,素晴らしい世界です。[???]
 …
 しかし,(下山自身が方々で指摘していることですが)私たちの生きる世界はもはや近代ではなく,「大きな物語」=権威の失墜に特徴づけられる,絶対的なものは何もない,価値相対主義的な,ポストモダンなのです。
 そうしたポストモダン社会においては,エビデンスに象徴される実証科学も権威の役割を果たせなくなるというのが論理的帰結のはずです[??? 心理学以外の分野の科学者に言えるの?]。…
 …
 ポストモダンにおいては,前近代の価値観も,近代の価値観も,そしてポストモダンの価値観も,どれも優劣無く並列されます[?? だったら旧統一教会もオウム真理教も問題視されることはない]。ポストモダンを謳うのであれば,複数の健康や複数のあるべき人間像の存在を認めねばならないでしょう。それは,本章の文脈に引きつけて言えば,仮に精神分析が下山の言うように宗教と変わらないものだとして,臨床心理学に宗教を否定する権利があるのかという問いでもあります。「それは臨床心理学ではない」とは言えるかもしれませんが[そして心理学でもない],そもそもの人間像の複数性という前提を受け入れているのであれば,「それは間違っている」とは言えないはずです。(pp.156-158)

 大学院を出て,試験に合格し,臨床心理士や公認心理師になる,というのが大方の心理士ルートでしょう。しかし,自動車の普通免許が,運転がうまいことを保証するのではなく,「車を運転していいですよ」という証明でしかないように,それらの免許はあくまでも「やっていいですよ」という証明でしかありません。
 にもかかわらず,ここを勘違いする心理士がけっこういるようです。「自分は心理の専門家なんだ!」と。そういう心理士は……嫌われます。プライドばかり高くて,口は達者だけれど,実際には何もできない,と陰口を叩かれかねません。私たちはドラフト一位で指名された黄金ルーキーではありません。入団前に十分な実力を示していて,はじめからポジションが与えられている立場ではないのです。雇い主や同僚は,あなたの力を,あなたが何をできるかを知りません。それを知ってもらう機会をつくる必要があります。いわゆる,「アピール」です。あなたは何が得意なのでしょう。打撃でしょうか,守備でしょうか,それとも走塁でしょうか。[“そもそも何をする人だか理解されていない”のは,学術としての精神分析のアピールができていないことが大きな原因だろう。心理士個人の学術的期待を社会的に認知してもらうことに見事に失敗している点がかなり大きいと思う。](p.176)

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2025年12月15日

Posted by ブクログ

62 IPA 週3〜4精神分析 それ以外精神分析的心理療法
68
101 ヒステリー
122 当事者研究
174 心理士=テスター
199
295
305 オープンダイアローグは他者への不信をそのままにしてる 個人療法

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2023年11月29日

Posted by ブクログ

ある程度,臨床心理学の業界のことがわかった人向けの本だと思う.論旨は明快で,くどいくらいに根拠と理論が書いてある.日本語は明快なのが素晴らしい.心理学の翻訳本はほんとにひどい日本語になっているため,日本人の日本語はいいなと思います.興味があれば面白いし,興味のない人にとっては,オタクだね,なのだろう.アカデミックではなくて,業界本.私は面白く読めた.

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2021年12月19日

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