【感想・ネタバレ】賽の河原 ――供養の宗教学のレビュー

あらすじ

死別した、愛する人はどこにいってしまったのか。人間はその答えを求めて、死後の世界についてあれこれ考えを巡らせる。日本では、亡くなった子どもの行先として、独自の「賽の河原」が考えられた。著者は、10年以上にわたって、死者の口寄せなどで知られる津軽地方の「シャーマン」たちの調査をしてきた。本書は、「和製の地獄」とも言われる賽の河原を中心に、日本の供養を考えるものである。

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Posted by ブクログ

川倉賽の河原地蔵尊などのフィールドワークや一般の人々の供養実践の調査に裏打ちされた、供養ということの性質を論じる。イタコの口寄せはマスコミに作られたイメージとは全く異なり、聞く方にリテラシーを要するものである事、供養する側にとって死者とは何か、向き合い方やそのイメージが技術・社会の進展によって変容してきている事が興味深い。

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2025年08月24日

Posted by ブクログ

天皇が神様だなんて、本気で信じている人はいなかった。このように、「信じているフリ」という現象は、身体的かつ直感的な心霊スポットにおける〝身震い“のように、理性と切り離されて慣習的に引き継がれている。死んだらどうなるのだろう、というぼんやりとした不安に対し、ぼんやりとした答えを誰しもが持っている。宗教にも似たような所があり、唯一「死後の世界」だけが、確かめようがないからこそ信仰が問われる〝残された信仰の余地”と言えるかもしれない。その世界に数多ある「死後の世界」を利用した物語の一つが、「賽の河原」のお話だ。

さて、なんて残酷な話なんだと感じないだろうか。親より先に亡くなった子供たちは罪を背負い、河原で石を積む。しかし、積んでも積んでも鬼に崩される。そのループの中で、結果的には、地蔵菩薩の慈悲により無条件に救われていく。この話には、石積みと鬼の過程が必要だったという事なのだが、物語には意図があるので、そこを探っておく必要がある。

答えは本書を読んでも良く分からなかったが、親が悲しみを乗り越える精神的な時間の流れをメタファーのように描いたものではないか。つまり、悲しみは一朝一夕には消えぬ、その徒労のような石積みの繰り返しの中で、しかしいずれは救いがあるから強く生きよと。あるいは、子供に対する親より先に死んではいけないという教訓。

冒頭に戻ると、誰しも本気で信じきれはしないが、「死後の世界」という信仰の余地を利用した文化に「イタコ」がある。本書はこうした習俗も取り扱う。

「いち子ぞと おもふてしのび北八に 口をよせたる ことぞくやしき」(巫女だと思って忍び込んだら、間違えて喜多さんに口寄せをしてしまってなんとも悔しい)という、本書で紹介される口寄せと接吻をかけた、弥次さんの洒落た句。東海道中膝栗毛の一文だが、そもそも、イタコのように「口寄せ=死者を呼び寄せて語る」巫女に夜這いをする文化というのが、既に現代の常識には馴染みにくいが、この引用は、「口寄せ」が一つの娯楽でもあった証拠でもあると著者はいう。

ふむふむ、と思って感心するが、それより、巫女を襲おうと思ってオッサン同士キスをしてしまってなんとも悔しい、というこのセンスが面白過ぎて頭から離れない。色々と、無茶苦茶である。

まあ、本気で信じていないが、しかし、信じた事にしているもの。私が本書で面白いと感じた最大のテーマであり、本書自体のテーマでもある。著者はそれをプロレスでも見られる現象だと言い、著者の生徒はミッキーマウスもそうだという。虚構に入り込む。誰も本気でミッキーが存在すると思っていないが、信じた事にしている。宗教、金や権威、政治や教育もそうだが、つまり共同幻想として信じ込む類のものである。

その共同幻想が担う物語的役割が、安寧であったり娯楽であったり教訓であったりして、その種のコンテンツ(イタコや賽の河原、プロレスやミッキー)になっていくのだろう。イタコを襲うな。

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2025年09月06日

Posted by ブクログ

賽の河原とイタコを主題に、アカデミックな論考でしっかりと読ませてくれる良い新書。
もう戻って来ない、でも忘れられない死者への供養は、生者供養(グリーフケア)でもある。それが故に、供養のカタチが時代性に左右されるのは当然であるとしたうえで、今日の現世&忘却への恐れありきの供養に対し、「あの世」という別世界を、死者との程よい距離感に使うべきだという結論は、とてもよい着地点だと感じた。
「死」と「ケア」への民俗宗教学的アプローチを覗いてみたい方にオススメです。

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2025年08月21日

Posted by ブクログ

 宗教社会学の立場から、これまで人々がどのように死者を供養してきたかを振り返りつつ、死者と生者のこれからを展望する内容。亡くなった子どもたちが向かうとされる賽の河原の初出は室町時代であり、江戸時代に地蔵信仰とともに広まっていく。日本のあちこちの河原で石が積まれ、なかでも青森県五所川原市金木町の河原の大祭は、お酒を飲んで盆踊りではしゃいだり逢引が横行したりするような賑わいとなる。しかし時の流れとともに、2000年代頃からそうした大はしゃぎの一夜の性格は消失し、死者の供養を目的とした祭へと姿を変えていく。また、1980年代から1990年代までは、亡くなった子どもたちも成長していくという考え方から花嫁人形が奉納されたりしていたが、死者は生きていた時のままの姿で長く記憶し続けるべきである、という考え方に我々はシフトしつつある。死者に対してはお祭り騒ぎの要素は排して厳かに静かに悼むべきだ、いつまでも当時の姿を心に留めおくべきだ、という現代の感覚は、死者を忘却したり、生きている我々が日々を楽しんだり、ということがさも悪いことであるかのように、我々自身を縛ってしまう。本書の最後では、河鍋暁斎が描いた『地獄極楽めぐり図』(1869〜72年)が紹介される。亡くなった子どもたちが大はしゃぎしながら遊んでおり、その様子をお地蔵様が見守り、仏も天から眺めている。亡くなった子どもたちと、生き残った我々との関係は、これからも変化していくだろう。できれば、生者も死者も解放されていくような供養の仕方へと変わっていってほしい。

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2025年08月19日

Posted by ブクログ

ネタバレ

津軽地方の「イタコ」と各地の“賽の河原”へのフィールドワークを基に、供養(という儀式あるいは慣習)を通じて日本人ならではの死生観、宗教観まで考察。日常当然のように仏前や墓前で手を合わす行為の意味を改めて考える1冊。

現代の多様化した弔い方、供養の在り方による「彼岸の欠如」つまり“あの世”が無くなり“この世”だけになったという分析、供養の役割も死者を“死者”として彼我を分けるものから、生者側の記憶を重視するものになっているという考察は―個人的な意見は別として―興味深いものがあるが、供養の方式、そして考え方もずいぶん多様化したものだなという感想。生きている人間が行うのだから、そのニーズや都合が最優先されるのも当たり前と言えば当たり前なんだが。

位牌も祀らず納骨せずに手元に置いて(墓じまいが増えている現況だから致し方なしな面もあるか)個人の記憶を留めようとする人が増えているという現況は、正直決していいとは思えない。
※あくまでも個人的見解です

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2025年10月28日

Posted by ブクログ

<目次>
はじめに
第1章  口寄せとは何か
第2章  供養と賽の河原
第3章  津軽の地蔵と川倉賽の河原の祭り
第4章  あの世で成長する子ども
第5章  生活の中の死者
第6章  供養の現在

<内容>
「賽の河原」というより、副題の「供養の宗教学」がメインの話だね。現在の社会や世界と比較して、日本の供養は、ちょっと異端らしい。自分も含めて仏教とではないが、仏壇で位牌と写真の前で毎日拝んでいるし、水やごはん、花を供えている。春秋は墓に行くし、×回忌の時は僧侶を呼ぶ。でも「南無阿弥陀仏」を唱えるわけではないし(一応ウチは浄土真宗)、寺院に行っても神社に行っても拝むけど、本当にそこで何かを頼るわけでもない。この本は、最後まで読むと、今のそうした各自の宗教観に対して、考えさせてくれる本だと思う。

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2025年08月07日

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