あらすじ
「絶対におもしろい」旧約聖書をわかりやすく解説した手引書。
聖書は最高の文学だといわれているが、多くの人は、とはいっても難しいものだと思いがち。しかも、「旧約」は、古い教典のことだとか、カトリック教(旧教)のためのものだとか、誤解をもっていることが多い。一見幼稚とも見える神話の中に、驚くべき永遠の真理と、人生への指針が含まれている「旧約聖書」は、絶対におもしろい、と著者はいう。「旧約聖書」をわかりやすく解説した手引書になっている。姉妹書に「新約聖書入門」がある。
「三浦綾子電子全集」付録として、発刊時の「著者のことば」を収録!
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Posted by ブクログ
わたしは短気である。
50も見えてきて恥ずかしいがすぐにキレる。1日2,3回…は言い過ぎだが、週に1,2回は切れているのではないだろうか。
キレる原因はたいていがメールやメッセンジャーだ。とにかく部外からのクソな依頼が多いのだ。あれせい、これせい、と。たいていが1, 2回仕事で絡んだことのあるシンガポール人だ。昔絡んだからちょっと依頼しちゃおっていう軽いノリで重い球を投げつける。一回電話してこいよ。英語しゃべれんだろ?担当違うから。 …仕方ないので、『私はお答えをする立場も権限もございません』とけんもほろろの返信をする。だってJD(Job Description)にもないしマジで専門外なことを聞いたりしてくるんだもん。会社の中では部下のいないヒラだぜ?『確かに部署ではハンドルできるかもしれませんが、私が担当ではないので受けかねる依頼です。私の上司に直接依頼されてはどうでしょうか』と一応返信してみるものの、まるで取り合わない。だから今度は、6つも7つも下の上司にキレる。『CC入ってたんで見てますよね?何度もやり取りありましたし。いやあね、私が『ハイハイそれでOKです』って実態知らないで返信してもいいですよ。でも最終的に失敗したらあなたが責任取るんですよ?それでいいんですか? 私がだんまり決め込んで依頼を無視してたらどうするつもりだったんですか?…仕事はしますけど、仕事捌きはヘッドがやらないと案件落っことしますよ?』
ということで、窓際で店歴の長いおっさん部下を抱えると転勤族の上司は大変です。
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話が大分それました。いや、実は私だってそんなキレる自分が嫌なのです。いつもニコニコ笑って対応してあげたいと思っています(相応の給金が出てれば)。
そんな時に思い浮かぶのが、高潔さとか寛容さとか、宗教者が備えている倫理観や道徳です。些事に動じない広くて豊かな心が欲しいと切に思います。
で、本作『旧約聖書入門』なのですが、著者の三浦さんが日常の経験や彼女独自の視点も交えて旧約聖書の内容を語るものです。そこで出てくる聖人たちのひたむきな信仰や信仰に基礎づけられた高邁な行為、逆境にへこたれない姿勢には信者ならずとも心洗われる気持ちになります。ああ、こういう素敵な心持を持てるようになりたいなあ、と。
読後、ちょっとは寛容にそして誠実に周囲に対応できた気がします。するとあらまあ、なんだかどの方の反応もスムーズで皆優しい!?という感じを受けます。普段から舌打ちと悪態の常習者からすると、本書は一抹の清涼剤のような爽やかさをもたらしてくれました。
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他方で、聖書や宗教に疑問点も出ます。十戒の解説部分があるのですが、まずは第六戒は『殺してはならない』です。いやいや、イスラエルもそうだし、旧約も聖典に数えるキリスト教徒の代表:米国は何ですの?彼ら異端ですか?と嚙みつけなくはありません(日本国憲法9条もそうですが、実態ではなく理想を条文化しただけだという解釈もできますね)。
また、三浦さんは『神は不完全な人間の愚行にこれでもかとお付き合いくださっている』という旨のくだりがあったのですが、2,000年以上続いているこの宗教からすると、人類というのはそんな高邁な教えをもってしても一歩も精神的に進歩していないのではと思えてしまう。であるのならば宗教にどういう意味があるのか(学問的・哲学的な意味です)。
あるいは、不信心な宗教者が旧約にはたくさん出てきますが、高邁な異教徒がいたとすると、旧約的には前者しか救われないのでしょうか、等と問うてみたくなりました。
…え?キレている?キレてませんよ。いやでも聖書の世界は実に興味深いしもっと勉強したいし、信者に聖書の内容についていじわるな質問もしたいなあと少し思います笑。完全にロジカルだったり完璧ではないからこそ、どのように首尾一貫性を保つのか、あるいは保たないのか、そうした解釈がどのようになっているのか気になります。また、宗教が人心の安寧のために果たしている役割については決して否定はできません。
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色々くだらないことを書きましたが、著者三浦さんの本書にあたってのスタンスがとても好きです。裏表紙にもこうあります。
“教典は経典である。そこにふくまれている宝石のような真理をみつけなければ、意味がない。だから、手引書は、どうしても必要なのだ”(まえがきより)
つまり聖書は独りよがりに理解するのではダメで「読み方」もまた学ばなければならないのです。読書人にはこの言葉は非常に重いと思いませんか。これはあらゆるテクストにも言えることですが、自分の読み方が正しいという保証はどこにもないことに気づかされます。先人の読み方に沿うことで、独りよがりでない読み方・今まで見えていなかった内容が得られるかもしれないのです。…いままでどれだけ他人の見方なぞ気に留めてこなかったことかと。
そういう点も含め、いろいろ身につまされる気分になった読書でした。
Posted by ブクログ
旧約聖書の内容を一つ一つ説明するのではなく、聖書とはこのようなものだよ、読みやすいから読んでみて、という感じの著書だ。
彼女が感銘を受けたり、影響を受けたりした聖書の言葉を分かりやすく、現実と対比させながら解説している。確かに、この本を読むと聖書を読んでみようかなと思うが、聖書を直接読むよりも、もう少し平易な入門を読んでみようかな、と言う感じ。ほんとに、聖書のとっかかりとして読むにはとてもいい本だ。読んでみて、『なんだか物足りないな』『もう少し何か聖書のことを知りたいな』と思えるような、まさに著者の思う壺のような良書である。
聖書の中に、箴言(しんげん)というのがある。箴言は、長々した文書とは違って、名言とか、ことわざのようなものだ。よい箴言をたくさん胸に蓄えておくと、生き方に大きな影響が与えられるだろう。聖書が難しいと言う人には、ぜひ箴言を読んでみて、と彼女は言うようだ。箴言はわかりやすいが、これを実行するのは難しい。例えば、「一生を終えて後に残るのは、我々が集めたものではなくて、我々が与えたものである」とか、「あなたが口を開いて語るとき、その言葉は、沈黙よりも価値があるものでなければならない」とか「若さとは成長することである。何に向って成長するか、それが若者の課題である」「地味のよい土地には雑草が生える」「我々はみな、他人の不幸は我慢して見ていられるほど、気が強いのである」など。よい言葉を胸に貯えることは、金を貯える事よりも大事なことである。聖書の箴言は、880ページから920ページまでの40ページにぎっしりとつまっている。聖書の言葉にはいのちがある。決して死んではいない。私たちの心の目を開き、励まし、慰め、あるときはグサリとえぐる。箴言の著者は、だいたいがソロモン王だといわれる。ソロモンはダビデ王の息子である。ソロモンは神に願った「私は小さな者です。しかしあなたの民は数え切れぬほど多いのです。それゆえどうか、私に聞き分ける心を与えて、民を公平に裁かせ、わたしに善悪をわきまえることを得させて下さい」。日本の大岡裁きは、このソロモンの話がネタではないかと思うほど酷似しているという。
キリストが現れたのは、人は罪を犯さずには生き得ない存在であり、その罪の責任を取り得ない存在だからである。わたしたちは罪を許されかつ罪より救い出してもらうより仕方が無いのではないか。生きているという事は、人を傷つけていると言うことだ。何人といえども、未だかつて人を傷つけることが無いといえる人はいない。心の中で始終人を裁いている存在なのだ。その心の冷え冷えと冷たく、なんと冷酷なことだろうか。ヒルティは、その著「眠られぬ夜のために」の中で、「人を愛そうと思うのなら-そしてこれこそ、どんな人間教育にも必要なことなのだが-裁くことをやめなければならない」と書いている。
旧約にせよ、新約にせよ、聖書と言うものは自分の生活の中で『自分ならどうするか』『自分はどうすべきか』を問いつつ読むべきものであろうと思う。