【感想・ネタバレ】出家とその弟子のレビュー

あらすじ

1高在学中から西田幾多郎に傾倒し、宗教文学に一境地を拓いた劇作家倉田百三(1891-1943)の代表作。浄土真宗の開祖親鸞を主人公とし、生き方に悩む多くの若い人々の心を捉えた本書は、のち各国語に訳され、海外にも数多くの読者を得た。ロマン・ロランのフランス語版への序文を付す。改版。(解説=谷川徹三 注・年譜=鈴木範久)

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感情タグBEST3

Posted by ブクログ

設定は史実と合わないけれど、そして、戯曲を読むのははじめてでしたが、とても面白いです。すべてお預け申して、祈り、ですね。祈り、の概念は、浄土門系の書物では、私はここではじめて合いましたが、よかったです。

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2023年03月14日

Posted by ブクログ

信心には一切の証は無い。

面白かった。古い言葉が多いし脚本調だったのもあって、最初は中々進まなかったけど、半分くらいまでいくと一気に読めた。

親鸞がいいこと言いすぎて困る。
そして登場人物全員涙もろ過ぎる。

左衛門が改心するのではなくその息子の若松が親鸞に弟子入りする設定が良かった。

仏でも恋はするのか。

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2020年06月28日

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救い難い極悪人であると自覚して生きていく親鸞に共感。
ここまでストイックに信じることが出来るか、今、自分自身を試したい。

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2013年12月13日

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親鸞の後半生を、弟子の唯円の視点から綴った戯曲。20世紀初頭にあって、浄土真宗の教えとキリスト教的慈愛と赦しとが通ずることを見抜いていた倉田百三の慧眼に感服します。

親鸞の教えは、とても純情です。

印象的だったのは恋愛に関する箇所。親鸞と唯円とのやりとりは、現代人の感覚でいえばウブだと思われるかもしれません。でも「何人も異性と関係を持った方が、経験値が上がる」とか「童貞乙www」なんてうそぶく人間よりも、親鸞や唯円はよほど愛について真剣で本質的なのだと思います。

ほんの200ページだけど、仕事や恋愛、親子関係や死など、言及されるテーマはとても広いです。まっすぐさ、純情さに胸を打たれました。

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2013年07月19日

Posted by ブクログ

厳しい物語だ。
生きることも、残ることも逝くことも。
否とも是とも言わぬラストの言葉をどうとらえるのか。
それがすべてだろう。
キリスト教では是でなければならず、浄土真宗では・・・・ふうむ。深い。

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2013年01月05日

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非常に有名な戯曲作品だが、これまで読んだことがなかったのは、戯曲自体がさほど好きではないためと、宗教がテーマになっているのでつい敬遠してしまったためかもしれない。
しかしこれは日本文学が誇るべき傑作だった。誰もが読んでおくべき本である。
親鸞が登場し、一応浄土真宗の思想をベースにしているが、厳密に史実を追っている訳でもないし、浄土真宗を専門的に解説しているわけでもない。どうやら、この作品での親鸞の思想は、仏教とキリスト教が混ざり合ったような、一種の普遍的な「宗教」イメージである。その点、仏訳版に際しロマン・ロランが書いてある通りだ。
しかも宗教のドグマを一方的に示してくるわけではない。市井の人間のさまざまな悩みを普遍的なかたちで扱いながら、まさに「生きた」思想を生み出そうとしている。
感動的である。
最後の最後に至っても、親鸞の息子は信仰を拒否するが、そうしたすべての現実を認めつつ、親鸞は「それでよい。みな助かっておる」と微笑んで死んでゆく。意外で深みのあるラストだ。
この本は人生について考え始める若い頃に読んでおくべきだったかもしれないが、大半の人物が口をそろえて「寂しい、寂しい」とつぶやいているその心情は、私はこの年齢(42歳)にしてようやく身につまされたのかもしれない。
これを書いた作者は当時27歳。日本文学の奇跡のような作品である。

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2011年10月04日

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・・・・・書きかけ・・・・・

倉田百三は、ちょうど120年前の1891年(明治24年)2月23日に広島県の北東部にある庄原市で生まれた劇作家・評論家。

この本は、かつて教養主義的な香りたっぷりに、真剣に人生とは何かと真正面から問いかけ、悩み苦しんで感受性と思索を鍛え上げて自己を確立していこうとした若者たちが、思春期の必読本あるいは青春のバイブルみたいな感じで読んできた、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』や山本有三の『路傍の石』、阿部次郎の『三太郎の日記』などの系譜に連なる重要な著作だったのですが、教養や自己の確立よりも功利的実利的な価値観の支配する現代では、ほとんど誰も見向きもしない本かもしれません。

一高生の時から西田幾多郎に傾倒したという早熟な彼は、宗教文学のジャンルに新境地を切り開いた人ですが、これは代表作というよりこの本だけで今でも読み継がれているといっても過言ではないと思います。

浄土真宗を創出した親鸞が主人公とで、息子の善鶯生き方に悩む多くの若い人々の心を捉えた本書は,のち各国語に訳され,海外にも数多くの読者を得た.ロマン・ロランのフランス語版への序文を付す.改版.(解説=谷川徹三 注・年譜=鈴木範久)
内容(「BOOK」データベースより)
恋愛と性欲、それらと宗教との相克の問題についての親鸞とその息子善鸞、弟子の唯円の葛藤を軸に、親鸞の法語集『歎異抄』の教えを戯曲化した宗教文学の名作。本書には、青年がどうしても通らなければならない青春の一時期におけるあるゆる問題が、渾然としたまま率直に示されており、発表後一世紀近くを経た今日でも、その衝撃力は失われず、読む者に熱烈な感動を与え続けている。 --このテキ





「青春は短い 宝石の如くにして それを惜しめ  百三」

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2011年09月15日

Posted by ブクログ

「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」に有名な悪人正機説(の解釈の一つ)を理解できたような気がする。
キリスト教の価値観を織り交ぜるなどにより、普遍的な作品となっている。

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2009年12月08日

Posted by ブクログ

お も し ろ い !
え〜〜なにこれ?出家?弟子?なんか怪しい…とか思いながら読んでちょっとびっくりした
軽い!楽しい!そしておもしろ!
「他力本願」の本来の意味をこの本で知ったんだ…

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2009年10月04日

Posted by ブクログ

880円

403p

読める

★再読

1回目2026/08/17

面白い戯曲

倉田百三
くらたひゃくぞう
(1891―1943)
戯曲家、評論家。明治24年2月23日広島県生まれ。1910年(明治43)旧制第一高等学校に入学したが結核で中退。のちカリエスの併発もあって生涯の多くを闘病に過ごした。西田幾多郎の『善の研究』に傾倒、西田天香(てんこう)の一燈園生活も経験。1916年(大正5)から翌年にかけて白樺(しらかば)派の衛星誌『生命の川』に戯曲『出家とその弟子』を連載、1917年単行本となり大きな反響をよんだ。以後『歌はぬ人』『布施太子之入山』などの宗教的倫理的作品を刊行、『父の心配』『赤い霊魂』などには社会的視野の広がりを示し、1926年に『生活者』を創刊、求道的青年の知的連帯の場となった。一方『愛と認識との出発』『静思』『超克』『絶対的生活』『生活と一枚の宗教』などの論集を発刊し、情欲に身を焼く自己を対極として、キリスト教、仏教、神道(しんとう)にも及ぶ求道的遍歴に思想を深め、独自の地歩を固めた。晩年には『祖国への愛と認識』『日本主義文化宣言』などで大乗的生命主義を説き、ファシズム正当化の理論づけを果たした。書簡集『青春の息の痕(あと)』や農本主義青年を主人公とした『浄(きよ)らかな虹(にじ)』などの小説もある。昭和18年2月12日没。


「人間  (呻くように)芸術だ。たしかなものは芸術です。わたしはわたしの涙で顔料を溶します。私の画布の中に毀れないたしかなものを塗りこみます。顔 いせる者  ここまで来てはもうたしかなともたしかにないともわしはいわない。だが、お前はお前の病気のことを忘れはしまいな。」

—『出家とその弟子 (岩波文庫)』倉田 百三著

倉田百三の「出家とその弟子」で、親鸞の言葉で「誰も人を裁けない。裁けるのは仏のみ。人を許しなさい」が心に刺さる。

倉田百三の『出家とその弟子』に、ロマン・ロランが「蓮と百合の美しき融合」と賛辞を送っていた

自分は倉田百三の『出家とその弟子』を若いころに読んで、その後に西田幾多郎を読んだのだが、倉田百三が『善の研究』を激賞していたことを後から知って「そうだろうなあ」と思った。こういう繋がる瞬間がまた楽しい。そこまで深く理解している訳ではないけれども。

わしのつくったあやまちもよかったのだな。わしに加えられた傷もよかったのだな。ゆきずりにふと挨拶をかわした旅の人も、何心なく摘みとった道のべの草花もみなわしとはなれられない縁があったのだな。みなわしの運命を成し遂げるために役立ったのだな。/倉田百三「出家とその弟子」


恋が互いの運命を傷つけないことはまれなのだ。恋が罪になるのはそのためだ。/倉田百三「出家とその弟子」

倉田百三の『出家とその弟子』実は内容を全然知らずに読み始めたけど、歎異抄の戯曲バージョンでした。正信偈や歎異抄の嗜みがある人なら、法話の序盤で「今日はあの話か」って思う時と同じ感じで読み進めやすいです。浄土真宗の人は楽しめると思うし、浄土教じゃない人が読んだら、また浄土真宗か!って言いそう。大正5年の本だけど。

なぜ僕がこの本に出会ったかというと、三浦綾子の氷点シリーズの中で、主人公の陽子ちゃんが「『出家とその弟子』くらい読んだわ」みたいなことを言ってて気になっていたのです。

引き合いに出すくらいだから三浦綾子本人も当然読んでいただろうし、確かにエピソードは歎異抄だけどキリスト教っぽい書き方をするなと思って調べてみたら、倉田百三って叔母さんの影響で熱心な門徒だったけど、後にキリスト教徒と結婚したりスキャンダルがあって別れたり。やっぱり表現者ってどこかぶっ飛んでるなということを感じました。

いつの時代もみんな愛と性に悩んだんだ。

こうやって昔の人の思考を辿る読書は面白い。


「唯円  僧は恋をしてはいけないというのは真宗の信心ではありません。また遊女だからとて軽 するのはお師匠様の教えではありません。たとい遊女でも純粋な恋をすれば、その恋は無垢な清いものです。世の中には卑しい、汚れた恋をするお嬢さんがいくらあるか知れません。私はあなたを遊女としてつきあってはいません。あなたも私を客としてつきあってはいないと先刻言いましたね。私はあれは有難い気がしました。実際あなたは純潔な心を持っているのだもの。私はあなたを愛します。(手を強く握り 〆める)かえで  でも私は、私は (涙をこぼす)私のからだは汚れています。(袖で顔を うて泣く)唯円  (かえでを抱く)かえでさん。かえでさん。かえで  私を捨てて下さい。私はあなたに愛される価値がありません。私は汚れています。あなたは清い清い玉のようなお体です。私は済みません。私は泣いて耐え忍びます。これまで何もかも怺えて来たのですもの。私は一生男のなぐさみもので終るものと覚悟していました。その侮辱さえも私の運命としてあきらめる気でした。あきらめないといったとて仕方はないのですもの。私に力がないのですもの。また皆が私にそうあきらめさせるように仕向けるのですもの。どのお客も、どのお客も皆私をなぐさみものとして取扱いました。そして私に自分をそう思えよと強いました。私はそれにならされました。自分はなぐさまれる犠牲、お客は呵責する鬼ときめました。あなたは私を娘として取扱って下さった最初の方でした。私でも人間であることを教えて下さった最初の方でした。あなたは私でも仏様の子であるとまでおっしゃって下さいました。(泣く)私はあなたのように私を取り扱ってくれる人があろうとは夢にも思いませんでした。あなたは天の使のような方だと私は思いました。あなたとつきあっているうちに、私はだんだんと、失っていた娘の心を 復して来ました。娘らしいねがいが、よみがえって来ました。雨のようなあなたの情けに潤うて、私の胸に蕾のままで圧し付けられていた、娘のねがい、よろこび、いのち、おお、私の恋が一時に綻びました。私は嬉しくて夢中になりました、そして私の身の程も、境遇も忘れてしまいました。私に許されぬ世界を夢みました。今私は私の立っている地位を明らかに知りました。私はあなたの玉のような運命を傷けてはなりません。私を捨てて下さい。私はあきらめます。あなたの事は一生忘れません。私はしばらく私に許されたたのしい夢の思い出を守って生きて行きます。」

—『出家とその弟子 (岩波文庫)』倉田 百三著

「唯円  夢ではありません。夢ではありません。私は私たちの恋を何よりも確かな実在にしようと思っているのです。天地の間に厳存するところのおよそ美しきものの精として、あの空に輝く星にも比べて尊み慈しんでいるのです。二人の間に産まれたこの宝を大切にしましょう。育てて行きましょう。私は恋のためと思うと一生懸命になるのです。力が湧くのです。およそ私たちの恋を妨げる敵と勇しく闘いましょう。あなたも悲しい事を考えないで心を強く保っていて下さい。私たちの恋が成就するためには、山のような困難が横わっています。それを蹈み越えて勝利を占めねばなりません。およそ私たちの恋を夢と思うほど間違った考えはありません。かえでさん、私はそのような浮いた心ではありませんよ。私は恋の事を思うただけでも涙がこぼれるのです。(涙をこぼす)私は甘い、たのしい事を考えるよりも、むしろ難行苦行を思います。お百度参りを思います。恋は巡礼です。日参です。(かえでの顔をじっと見る。やがて強くかえでを抱き 〆める)あなたの体の汚れていることをあなたはひどく気にします。あなたの心を察します。あなたは堪らないでしょう。私もそれを思うとふらふらするような気がしました。私は夜も眠られませんでした。私は考え悶えました。けれど私はもうその苦しみに打ち克ちました。それはあなたの罪ではありません。あなたの不幸です。あなたを責めるのは無理です。他人の罪です。その他人の加えた傷害のために、あなたはそのように苦しんでいるのです。そのために自分の一生の幸福さえも諦めようとしているのです。何という事でしょう。私はこの事実を呪います。恐ろしい事です。不合理な事です。皆悪魔の仕業です。おお、私は悪魔に挑戦します。(拳を握る)」

—『出家とその弟子 (岩波文庫)』倉田 百三著

「唯円  いいえ。私はただ何といってあなたを慰めていいか、解らないのが辛いのです。どうぞ耐え忍んで下さい。私はそういうよりありません。悲しいのはあなたばかりではないのです。お師匠様でも、善鸞様でも、内容こそ違え、それはそれは堪らないような深いかなしみを持っていられます。でも耐え忍んで生きていられます。死ぬのはいけません。どんなに苦しくても死ぬのはいけません。自殺は他殺よりも深かい罪だとお師匠様がおっしゃいました。仏様から戴いたいのちに対して何よりも敬 な心を持たねばいけません。*火宅のこの世では生きる事は死ぬる事よりも苦しい場合はいくらもあります。其処を死なずに、耐え忍ぶ時に、信心が出来るようになるとお師匠さまがおっしゃいました。」

—『出家とその弟子 (岩波文庫)』倉田 百三著

「愛というようなものはこの世にはないものとあきらめていました。それがこの頃は、私をつつむ愛の温かさを待ち、望み、そして信じることが出来そうな気がしだしました。明るい光りが何処からかさし込んで来るような心地がしだしました。」

—『出家とその弟子 (岩波文庫)』倉田 百三著

「かえで  (涙ぐむ)私はあなたといつまでも離れなくてよ。墓場に行くまで。唯円  私は恋の事を思うと死にたくなくなります。いつまでも生きていたくなります。かえで  でも人は皆死ぬのね。この沢山な墓場を御覧遊ばせ。唯円  私は恋をしだしてから、変に死の事が気になりだしました。(独言の如く)恋と運命と死と、皆何処かに通じた永遠な気持があるような気がする。(考える)もしかすると私は若死にかも知れない。」

—『出家とその弟子 (岩波文庫)』倉田 百三著

「かえで  いやなことだ。彼の人に打ち明けるなんて。自分の心の内に守っている大切な恋を、軽いチョコチョコした心ない人に安っぽく話す気になれるものですか。私本当に姉さんきりよ。何もかも打ち明けるのは。また私が気が高いっていうのは本当かも知れないわ。いつか姉さんが私におっしゃったでしょう。どのような身になっても心に何かのほこりというものを持っていない女は嫌いだって。」

—『出家とその弟子 (岩波文庫)』倉田 百三著

「宗教というのは、人間の、人間として起してもいい願いを墓場に行くまで、いかなる現実の障碍にあってもあきらめずに持ちつづける、そしてそのねがいを墓場の向うの国で完成させようとするこころをいうのだって。あの小さい可憐なむすめ、淵の底に陥って泥にまみれてもがいている。もう死ぬのだとあきらめている。そこに救いの綱が下りて来た。それを握れば助かるという。でもそれを初めは拒んだほど不幸に身を任かせていたのだ。私は彼の女に助けられたいという欲望を起させるのにどんなに骨を折ったろう。とうとう綱を握った。もう明るい陸のきわまでひきあげられた。そこに幸福と希望とが眼の前に見えて来た。その時急にその綱を断切ってしまう おお。そんな残酷な事が私に出来るものか。そんなことをするのが仏様のみ心に適うものか。そんな事は考えられない。私はできない。(熱に浮かされたようになる)彼の女とともに生きたい。どこまでも、いつまでも。」

—『出家とその弟子 (岩波文庫)』倉田 百三著

「人間は皆不幸なのだからな。皆墓場に行くのだからな。あの時赦しておけばよかったと後悔するようなことのないようにしておくことだよ。悪魔が悪いのだよ。人間は皆仏の子だ。悪魔は仏の子に を見ては呪いの霊を吹きこむからな。それに打克つには赦しがあるばかりだ。裁き出すと限りがなくなる。祈ることだよ。心の平和が第一じゃ。」

—『出家とその弟子 (岩波文庫)』倉田 百三著

「 現代作品のなかで、芸術と宗教の二重の輝きがこれほど強く結びついている例はまれである。クローデルのもっとも美しいドラマにおいてさえ、芸術の側に重きが置かれ、つねに均衡は破れている。この作品にあっては、芸術の華は神の慈愛にほかならない。日本の芸術家は、それと知ることなく、ベートーヴェンが上の言葉で指し示した道を ったのである。」

—『出家とその弟子 (岩波文庫)』倉田 百三著

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2026年08月18日

Posted by ブクログ

親鸞を中心に、人々の苦しみと救いを描く。あくまでフィクション。

「知識が殖えても心の眼は明るくならぬでな。」(103頁)

「信心には証拠はありません。証拠を求むるなら信じているのではありません。」(104頁)

「しかし若い時には若い心で生きて行くよりないのだ。若さを振り翳して運命に向うのだよ。」(135頁)

「聖なる恋は他人を愛することによって深くなるようなものでなくてはならない。逢って下さいと恋人がいって来る。自分も飛んでいきたいほどに逢いたい。けれど今日は朋輩が病気で臥ていて自分が看護してやらねばならない時にはどうするか?朋輩をほって置いて夢中になって遇いに行くのが普通の恋だ。その時その朋輩を看護するために逢いたさを忍び、また逢おうといって来た恋人も、では今日来ないで看護してあげて下さいといって、その忍耐と犠牲とによって、自分らの恋はより尊いものになったと思い、後では淋しさに堪えかねて、泣いて恋人のために祈るようならば聖なる恋といってもいい。そのとき逢わなかったことは、恋を薄いものにしないで、かえって強い、たしかなものにするだろう。それが祝福というものだ。」(232頁)

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2025年11月09日

Posted by ブクログ

善悪の問題や、人生において正しく生きるとは、といった命題が、親鸞と弟子のあいだで、哲学的かつ信仰的な問答が行われます。

師である親鸞自身も悩みながら
答えを導き出そうとしている姿勢がとても良かったです。

そしてラストのラストまで
信仰とはどういう事なのか考えさせられる内容でとても面白かったです。

ただひたすら身に起こる事を受け入れ、仏(神)を信じて祈りを捧げる、他力本願の本質が少しでも理解出来た気がしました。

とても26歳の時に書いた作品とは思えない!

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2024年06月26日

Posted by ブクログ

親鸞の教えを独創的に解釈。キリスト教の味付け。ロマン・ロランが感動してフランス語版の序文を書いたという。他力本願、悪人正機、

古い本かつ戯曲で、読みにくいと思ったが、実際はスルスルと読めて面白い。

・信心に証拠はない。証拠を求めるのは信じているとは言わない。
・南無阿弥陀仏、愛しなさい、許しなさい、悲しみを耐え忍びなさい、業の催しに苦しみなさい、運命を直視しなさい。
・浄土門の信心は在家のままの信心。商人は商人、猟師は猟師のままの信心。
・学のあるなしは信仰とは関係ない。悲しみと、愛とに感ずる心さえあれば。

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2017年03月21日

Posted by ブクログ

初めて読んだのは高校生のときだった。圧倒されるような感動を覚えた本。その後も、何度か読み直しているんだけど、今回読んでみて、やはり心に食い込むものがありました。圧倒されるような・・というのとは違う印象になったんだけど、心洗われるような。それぞれの人物の想いがすごくすんなりと読者に伝わってくる。

れちゃうんだけど、ここのレビュー見てたら、カラマーゾフのゾシマ長老とアリョーシャみたいな。。というのがあって、この本を読む前に、またカラマーゾフを読み終えたところだったので、私ってこういう路線?がすごい好みなんだろうか。。とか思ってしまったー。こうなんていうか、ぐいぐいぐいぐいと突き詰めていく感じが好きなのかもー。

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2013年11月29日

Posted by ブクログ

 浄土真宗の祖である親鸞とその弟子である唯円の苦悩を軸に、人間が向き合わねばならない様々な業や哀しみやその救いを描いている。自分も読んでいて色々と考えてしまった。
 唯円は純真な心を持った遊女に恋をし、仏法と恋との間で悩み苦しむ。師である親鸞も義絶した息子に対して葛藤を抱えている。この作品の親鸞は決して完全無欠な人物ではなく、非常に多くの悩みを抱えたひとりの人間として描かれている。それがこの作品を奥深いものにしている。
 最近はビジネス書ばかり読んでいたから、たまにはこういう本も読みたい。

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2013年07月31日

Posted by ブクログ

心の葛藤の描き方が優れている。
カラマゾフの兄弟を思い起こさせる。

親鸞という人間像 そして 唯丹。
そこはかとなく人を愛することに徹する。
すべてを許すという立場は、
複雑な迷いと悩みのうえにあり、
超越しきっていないところが ステキだ。

善鸞という人間像
苦難の道を つねに 意識しているかいないのかわからないが
選び、進もうとする。

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2018年03月05日

Posted by ブクログ

「読書力」の35ページにある本…
法政大学第一中・高等学校で岩井歩教諭が実践した、定期テストに読書問題を取り入れた実践。

10冊目…高2の定期テストに

読みにくい本だった気がします。
文体が、古文?旧かな遣い?

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2012年03月27日

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