あらすじ
もっとも人気のある詩人の,もっとも有名な詩集.なかでも突出した人気を誇る表題作は,自分で考え続けること,自立した知性を磨き続けることの大切さをうたい,そのメッセージ性の強い言葉は,自分自身への問いかけとして多くの読者の共感をよび,やすきに流れる心を戒めてきた.現代詩の枠をこえた感動の名著.(解説=伊藤比呂美)
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Posted by ブクログ
## 感想
『自分の感受性くらい』の厳しくも優しい言葉が好きだ。
「人のせいにするな。」
そんなメッセージを感じる。
この詩を読んで、最近読んだ三宅香帆さんの『好きを言語化する技術』に書かれていたことを思い出した。
「自分が見て良い!と思ったものは、他人の感想を知る前に書き出そう」というもの。
人は他人に影響を受けやすい。
自分が映画を観て素晴らしいと思い、Xで調べてみたら、どうも否定的なレビューが目につく。
「自分のセンスが悪いのかな…」と不安になる。
それに近しいことが、色々なジャンルである。
私は幸いあまり他人を気にしない性格だから、それほどダメージは受けないが、人によっては辛いものと思う。
好きなものを好きでい続け、好きだと言えることは、案外難しいのかもしれない。
また、私は『ダンダダン』という漫画が好きなのだが、その中に坂田金太という、SFロボットが大好きなキャラクターが出てくる。
金太は「高校生にもなってロボット好きとかダセー」と同級生からからかわれるが、「好きで何が悪い!」と内心思い続け、その想いが活躍する瞬間が来る。
何かを好きだというエネルギーはとても大きい。
茨木のり子さんの言う「自分の感受性を守れ」というのは、「自分を保て」と言える。
自分をしっかり保って、流れの激しい世間に飲み込まれないように、自分の足で立つ。
そうあれるように、これからも自分の幹を太くしていきたいものと思う。
## メモ
### 自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもがひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
### 夏の声
いくじなしのむうちゃん!
という声
しぱしぱと目覚れば
時計は午前の一時である
赤ん坊の泣き声は
ひよひよ ひいひい
はかなくせつない
家の前の坂道を
行ったり来たりして
いくじなしのむうちゃん!
いくじなしのむうちゃん!
いくじなしのむうちゃん!
子守唄のように続くそれは
澄んでいて綺麗
若い母の困惑といとおしさとが
入り混っていて
へんに艶かしくもある
〈いくじなし〉と〈むうちゃん〉は
ぴったり結合
ぬきさしならず
それゆえポエチカルでもあるのだが
やがて彼
母の薫陶よろしきを得て
意気地の男になるんだろうか
熱帯夜のつづく日本の夏はおとなだって音をあげる
着て寝たものもいつのまにやらどこへやらと消えうせて
団扇一本 はたり はたり
むうちゃんや!
いくじなしはいくじなしのままでいいの
泣きたきゃ泣けよ
意気地なしの勁さを貫くことのほうが
この国でははるかに難しいんだから
Posted by ブクログ
茨木さんの詩、言葉は平易だが中身は深く鋭い。ぼぉっと生きていると喝を入れられる。が、作品を読んだ後は何故かほっこりする。有名な「自分の感受性くらい」の他、「廃屋」「癖」が好み。「詩集と刺繍」は面白い。
Posted by ブクログ
「自分の感受性くらい」
このタイトルだけで購入することを決めた。
それくらい衝撃を受けたし、実際に詩を読んで、初めて泣きそうになった。
理解するのが難しい詩もあるけど、時間をかけてゆっくり楽しみたいと思えるような本だった。
Posted by ブクログ
初めて詩集を読んだのですが、
まるで隣りで話しかけているかの様に、
時に優しく、時に厳しく
語りかけているかの様でした。
人は一人で生きてるのではない
でも自分の芯は大事に保たないと
茨木さんの詩を読んでそう感じました。
Posted by ブクログ
茨木のり子1926-2006。
現代詩の長女と称される。らしい。
戦後の日本を代表する現代詩人。との事。
自分はホント何にも知らねぇなぁ…。
名前すら知らんかった。詩の世界。
知らなすぎる。
そして、詩っておもしろいんだなぁ。
………
高校時代の古典の先生を懐かしく思い出した。
中原中也を敬愛してて、黒い服しか着ない風変わりな先生だった。
授業中、詩や文学の話しで良く脱線。
そこで、中原中也、梶井基次郎のレモンなど出てきて……井伏鱒二と会った話しもしてて、強烈に頭に残ってる。
本気で会いたいと思えば、会いたい人には必ず会えるって言ってたなぁ。残ってる。
意気込み、読んでみたものの、ピンと来なく。
文語体もイマイチ馴染めず。
結果。
詩は、わからん。なんとなくしか。
高校時分のわたしには、刺さりきらず。
フワフワと掴みきれない。掴みきれない自分を自覚したくもなく。距離をおきがちになった…
なにより、詩を読んでるってことが、小っ恥ずかしい気がした。誰に対してなのか、何に対してなのか…
若い頃の特有のアレ。カッコ悪くみられたくない的な。
あるいは逆に気取ってみられたくない的な。
なぞの羞恥心。なぞの行動。
そんなこんなで
とにかく、距離があった詩の世界。
しかしだ
カッコつける必要もないし。
恥ずかしいこともないし。
わからんものは、わからん。
でいいし。
わかるものを味わえば良いのだ。
ありもしない妙な「壁」を自ら作って、避けたりしても、なんの得にもならん。
ただ読んでみる。それだけだ。
いくつかに共感する。
こころがブルルっと震える。
指の間からスルスルとすり抜けるものもあらば
こころに残るものもある
それで良いのだ
そして、今作
1977年の初版。
2025文庫版では、伊藤比呂美さんの解説付き。
いやぁ〜茨木のり子
すげぇ
自分に言い聞かせるような叱咤激励的な作品もあったり。
ストレートでわかりやすく、ストンストンと心に来ました。
詩も読まにゃああかんのです。
詩を通ってきてない人にも、わかりやすく味わえるオススメの一冊でした。
字も大きいし、普通に読めば30分くらいで読み終わります。
中原中也、梶井基次郎…
今なら…
そうだった…とおらない訳にはいかない
あと、現代詩の次女は誰なんだろ?
Posted by ブクログ
優しくて力強く静かにそっと寄り添ってくれる詩。「癖」「知命」「青梅街道」「夏の声」「廃屋」
「波の音」「顔」「木の実」心に響く詩がたくさんあった。『人が 家に 棲む それは絶えず何者かと 果敢に闘っていることかもしれぬ』という言葉がやけに心に残った。
詩って色んな型やリズムがあって言葉を音として捉える楽しさもあるのだと気付かされた。
Posted by ブクログ
自分の感受性くらい
茨木のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難かしくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
自分に言われているような気がする。好きな詩である。はい、茨木さんの衝くとおりのばかものです。
もう一編。
底なし柄杓
ー金子光晴氏にー
天狗わざといっていいほどの
膨大な仕事を果しながら
なぜか蟇口はいつもぴいぴいしてた
それが不思議でなりませなんだが
逝かれてから少しづつ見えてきたものが
あります
身近の困ったひとたちに あいよ
やみくもにずいぶんばらまいていたのですね
それでは
底なし柄杓で営々と水を汲みあげていたようなもの
です
まったき徒労!
しかもなんと詩だけは確実に掬いあげていた柄杓でし
た
どんなに目を凝らしても
そのからくりは見抜けずに
それはもう
北斗七星の下あたり
無造作にほんなげられてしまっていますね
なんとあたたかい思いのこもった詩でしょうか。
Posted by ブクログ
当時の時代背景とはメッセージの背景にある社会は違うだろう。
しかし、今の時代は昔より他者の声や目がSNSやインターネットで透け、AI大多数の人より「頭」が良い意見をくれる。
こんな状況において、改めて我々人間に突きつけられてる、激や喝を入れるようなメッセージを私は受け取った。
一個体生命としての感受性を守り、育てる。そのための栄養を摂取する一つの手段としても読書はあると思う。
Posted by ブクログ
顔
たぶん そうでしょう
笑った。その感じで生きていったらよさそう。
自分の感受性くらい
何かのせいにするのは、わずかに光る尊厳の放棄ってところグッとくるものがあった。喝!!をありがとうございます。
Posted by ブクログ
感受性とは何か。
感受性は子どもの頃から養うことができるが、大人になっても育むことは充分に可能だ。厳しい言葉の中にも優しさと愛情を感じられる詩である。
感受性の性質は人によって十人十色だ。みんな違う感受性を持っており、それらは年齢関係なく体験を通して成長できると私は思うのだ。
本著が示唆している通り、自分の感受性を大切にし、守り、育むことを強調している。私も同意見だ。感受性は可能性の塊だ。
殺伐とした現代において、自分の感受性が弱っていると気がついたら、それは休むサインであり、質の良い刺激を補充(美術や本、音楽等)を自分の中で表現し吸収し感受性のアンテナを広げて自分が見ている世界の感度を上げることだと私は思うのだ。
強く優しい愛のある良作品である。