あらすじ
対外関係から見るビザンツ史
ギボンは『ローマ帝国衰亡史』で、彼のいう「ギリシア人」つまりビザンツ人の「臆病と内紛」を強調した。地図からビザンツが消えてしまった理由として、ビザンツ人に何かしら欠陥があったという認識は、今日でも残っている。多くの敵を打ち破るため軍団を整備すべき時に、教義論争や教会装飾にかまけて、政治・経済の現実を無視したというのだ。
だが、もし本当にビザンツ人が怠惰で無気力だったとしたら、なぜビザンツ帝国はあれほど長く存続したのだろうか。アレクサンドロス大王をはじめ、カリスマ的な開祖が死ぬとたちまち瓦解してしまった支配が歴史上にはしばしばみられる。しかもビザンツは、アジアやアラビア半島から人の波が西へと移動していく、いわば「民族のボウリング場」の端に位置していた。ある集団を軍事力で打ち破ったところで、新たに三つの集団が現れた。ここでは、まったく新しい考え方が必要だったのだ。
ゆえに問うべきは、なぜビザンツが滅びたかではない。なぜ不利な条件のもとで存続できたかなのだ――。本書は、おもな皇帝と印象的なエピソードを軸に、対外関係からビザンツ史を語る試みである。
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Posted by ブクログ
ローマの神々を捨て、キリスト教に改宗しながら、西のローマ帝国から東のビザンツ帝国に移っていく時代からスタート。コンスタンティノープルを中心に代々皇帝の周辺を眺めながら、ビザンツ帝国の盛衰を一気読みできる”教科書”。
ところどころ挿入されるエピソードが殊の外面白い。初期ビザンツ時代のコンスタンティノープルでは、競技場で行う戦車競走に緑と青の競技団体があり、彼らが頻繁に喧嘩したり、暴動や政治的反乱に発展することもあったという。不謹慎かもしれないが、現代のフーリガンを思い浮かべてしまった。
初期のキリスト教の強引さも印象的。古代の神殿を教会に変えようとするキリスト教徒の暴動をはじめ、ガザでの衝突は、まさに現代に続く衝突の根源のように見える。ローマ帝国ではたとえば同性愛も寛容に受け入れられていたが、キリスト教が広がり著名人が告発され、拷問や追放の刑になるなど”横暴”が目立つ。それでも伝統的な宗教がキリスト教にとって代わられ、戦争や政治思想から公共奉仕、表象芸術に至るまで、生活のあらゆる領域に浸透していく。
ペルシアやスラヴ、アヴァール人、アラブ人、そしてスカンジナビアのヴァイキングを源流とするキエフのロシア人、セルジュークやモンゴルなど、西、北、東からの脅威に柔軟に対応しながら存続する帝国。ビザンツは、侵入者を撃退できない場合、帝国内に住まわせ、軍役とひきかえに土地を与え、キリスト教の受容とビザンツへの同化を促してきたという。ローマ帝国が敗者にもローマ市民権を与えて共存した、そのやり方を引き継いだように見える。コンスタンティノス7世の頃に編まれた「戦術書」は、全面戦争に対する不信感を表明し、策略や不意打ちで正面戦争に誘い込まれないようにすべきだと説いているのだそうだ。「たいていの場合、勝利は勇敢さの証明ではなく運に左右されることを体験してきた」と。長い歴史のある帝国だからこそ出てくる知恵かもしれない。
時代が下ってくると、西欧のキリスト教徒、いわゆるラテン人は、皇帝軍のかなりを占めた。これが獅子身中の虫でもあり、ラテン系皇帝を生む布石になってしまうわけだが、その頃聖ソフィア教会から略奪されたものの中にあった、キリストの茨の冠が、あのパリのノートルダムにある冠なのだと、この本で初めて知った。軽い衝撃。
次々に襲う難局を切り抜けてきたビザンツ帝国の最大の遺産について著者は、「もっとも厳しい逆境にあっても、他者をなじませ統合する能力に、社会の強さがあるという教訓」と書く。現代に近づくにつれ、この知恵が失われているのではないかとふと思った。