あらすじ
テレビが誕生して来年で60年。当初穏やかに語りかけていたテレビが、今や朝から晩まで声高にしゃべり続ける饒舌なメディアへ変わった。報道番組もお笑い番組も隙間なくしゃべり続けるようになったのはいつからか。ニュースのことばを中心にテレビの歴史をふりかえりながら、その要因を探り、テレビの日本語の今を考える。
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Posted by ブクログ
間断なくしゃべり続けるテレビ。
いつからそのようになったのか、テレビの歴史を振り返りつつ、日本語を考える本。
テレビから影響を受ける言葉の数々。
テレビを運営する側が考えること、それが垣間見える一冊。
受け手となる視聴者も、乱暴な言葉をテレビのせいだと言わず、一考して使うことは必要ではないのか?
日頃、何かにつけて「テレビのせいだ」という某保護者関係者にも読んで頂きたいと感じた。
Posted by ブクログ
日本語の規範たる放送における日本語(共通語)の抱える問題を、特にテレビという媒体における日本語に絞って取り上げたわかりやすい良書。まぁ、放送における日本語といえば「テレビで使われ話される日本語」をまず念頭に置くのが一般的な見方なので、タイトルからして頷ける新書である。
さて、筆者は、てれににおける日本語の問題を、話し手(アナウンサーかタレントや俳優か)、テレビ番組携帯の歴史(映像と喋りの共存のあり方の変遷)、テレビの扱う内容(ドラマなのか大災害なのか一般ニュースなのか)という3つの面から分析している。さらに、その分析に時代で変わっていく日本語自体と放送における日本語の関わりについても織り込まれている。
特に興味深かったのは、アナウンサーの日本語が大きく変わったとされる2つのポイント。動画を背景にテレビカメラ視線でニュースを読むようになった事(その原点はNHKらしい)と、ワイドショーによるアナウンサーの原稿なしのコメント発信(原点はフジレレビらしい)という指摘。
最近のアナウンサー、特に民放(さらにあえて名指しすればフジテレに)の質の日本語の低下は、ワイドショーから派生したタレント司会番組のアシスタントとしてタレントとのやりとり能力と容姿重視のアナウンサー教育、そしてアナウンサーを準タレント的な存在として扱うテレビ局にあると考える自分にとっては、まさに的を得た内容であった。