【感想・ネタバレ】カント『純粋理性批判』入門のレビュー

あらすじ

カントはおもしろい!
西洋哲学2000年の伝統を破壊した衝撃の書を、やさしく読みつくす。

すべての哲学はカントに流れ入り、カントから再び流れ出す。西洋哲学2000年の伝統を破壊した衝撃の書『純粋理性批判』。「私」「世界」「神」の考察から、「時間」「空間」の構造、形而上学の運命まで、あらゆる思考の極限を究めた哲学史上最大の金字塔を、やさしく、ヴィヴィッドに読みつくす。

...続きを読む
\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

このページにはネタバレを含むレビューが表示されています

Posted by ブクログ

ネタバレ

カント2冊目。漠然とした理解が、少しは開けたかとの実感があったりなかったり。つまるところ、人間の認識についての究極的な考察なのでは、という理解まで至りました。

本書は、カントの生涯やその他批判書をきっぱり除外することで、「純粋理性批判」の解説に焦点を当てており、かつ語り口が軽妙で少し内容で詰まったとしても何度も繰り返し説明してくれているので、何とかこんとか前に進むことができます。

どこか印象深かったところに付箋があってありましたので、未来の自分が感じ取れるかの宿題として、以下に抜き出しておきます。

P41:知識は感覚や感性を通して外部から得られるものだと考え、経験を重視する立場は経験論。逆に、もともと心に備わっている知性による認識こそ重要であり、感覚や感性による認識は程度に低いものだとする立場が、号理論。
→いわゆる経験論、合理論の立場を言語化し形式だって説明してくれているので、ピックアップしてるな。

P122:認識の材料(質料Materie)などは確かに、完成の受容性によって、世界から受け取る。形や脈略を与える(形相Form)のは、主管の側の自発性の能力なのである。つまり、ここで「感性の受容性」と「悟性の自発性」がくっきりとした二元性をなしていて、それとともに経験のに側面として、・・
→でました、経験を通しての感性と悟性の二元論。こちらが、現象を認識する、「認識に従って表像がなるのだ」的なカントの主張の核だろう。

P127:超越論的統覚(transzendentale Apperzeption)。「・・・と私は考える」が伴わざるをえない最終的・根源的な自己意識のこと。悟性の最高原則であるこの統覚が感性の側に属するとされてきた「直観」が、影響を与えこの条件に従わせる。きちんと客観として表れるためには、この統覚に預けなければならない。
→難しすぎる!つまりは、どうゆうことなのでしょうか・・・まだ違う文献でおさらいだ。

あとはちょい触れますが、構想力というワードが実は第1版にはあり、2版から除外されているのだと。カントが二元論から悟性有利の一元論へと揺れ動くさまが指摘されていますが、なるほどカントも徹頭徹尾首尾一貫とはいかず、人間臭いところがあるのだなと少し親近感。

0
2021年10月25日

Posted by ブクログ

ネタバレ

わかりやすい方なんだと思う。
・「純粋理性批判」の決定的な意義は真理成立の根拠を神から人間へと奪い取ったことと表現しうるだろう。
・素朴にありのままを認識しようとすれば、それは主観的なものとなり、逆に世界は主観による構成物だと考えることで、初めて客観的認識が成立する、というパラドキシカルな主張こそ、「純粋理性批判」の根元的なテーマなのである。
・真理は、一方でその事態、その事象に特有のことを述べるから有意義で真理でありうるのに、あらゆるものに通用するような真理は、その特有さを切り捨てなければ成立しえない。あらゆるものの根元的真理、あらゆる認識に通用する真理など、実は自己矛盾を含むものであり、はっきりいえば、インチキである、とカントは主張しているのである。
・カントの問いも、人間の都合で存在しているカテゴリーがなぜ(それとは無関係に存在しているように思われる)世界を説明認識する場合に、きちんと役に立つのだろうか?というものである。そしてカントの答えはまさに世界(カントの場合は<現象>の成立そのものに、人間の主観的原理であるカテゴリーがそもそも関与しているから、というものである。世界が人間とまったく関係のない<物自体>のことだったらなら、確かにカテゴリーは世界にアプリオリに妥当するものではないだろう。しかし
カントによれば<現象>のことであり、この現象は時間・空間という直観とカテゴリーによってそもそも初めて成立するものなのである。
・時間・空間、そして因果関係などは、人間の存在に関わらず、世界そのものが成立するための条件だと考えられている。人間がいなくとも、時間・空間はあるし、因果関係も、世界そのものの側に属する法則である、と考えられている。
カントは否!と言う。そうではないのだ。それらは、人間が世界を認識するための<主観的>条件であって、我々の認識を離れてはそれらは無なのである。しかもそれだけではない。想定される知的存在者、例えば、天使や神も、彼らが認識するために、時間・空間や因果関係などを使用することはおそらくないだろう、というのがカントの考えである。

0
2017年11月24日

Posted by ブクログ

ネタバレ

岩波の翻訳で何度か挫折していたので手に取ってみたが、序文から秀逸であった。著者曰く、解説書において大切なことは原書との距離感であるということだ。単なる目次や経歴の列挙でもなく、あるいは訓詁学のような詳細な解説書でもない。その絶妙な距離感が必要だと述べられていて、本書はその距離感を忠実に守っている。

世界の現象は客観的だが、認識は主観的。
認識は悟性(理性)と完成によって補完的な産物

などといった、現代的な感覚すれば、当たり前な気もしなくもない命題を導いたことにカントの本質があることがわかった。その時代からすれば、人間が神から心理を取り返した大事件だったのだろうと想起できる。

理性と悟性との違いなど本質的かつ詳細な解説もあり、岩波の翻訳を読んでいた時の多くの疑問が氷解した。もう一回、岩波を読めば違った世界が開けるのだろう。その意味で優れた入門書であった。

0
2013年01月08日

「学術・語学」ランキング