あらすじ
ロシア革命後の一九一九年、コミンテルン(共産主義インターナショナル)は、世界革命のために誕生。
各国共産主義政党の国際統一組織として、欧州のみならずアジアなど各地に影響を及ぼすべく、様々な介入や工作を行った。
本書は、レーニンやスターリンら指導者の思想も踏まえ、知られざる活動に光をあてる。
一九四三年の解体にいたるまで、人々を煽動する一方、自らも歴史に翻弄され続けた組織の軌跡を描き出す。
目次
まえがき
序 章 誕生まで――マルクスからレーニンへ
第1章 孤立のなかで――「ロシア化」するインターナショナル
第2章 東方へのまなざし――アジア革命の黎明
第3章 革命の終わりと始まり――ボリシェヴィズムの深層
第4章 大衆へ――労働者統一戦線の季節
第5章 スターリンのインターナショナル――独裁者の革命戦略
第6章 「大きな家」の黄昏――赤い時代のコミンテルン
第7章 夢の名残り――第二次世界大戦とその後
あとがき
主要参考文献
コミンテルン 関連年表
主要人名索引
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
共産主義の枠組みを支えるコミンテルンにフォーカスし、その歴史を追って行った本。
ソ連史、共産主義史、フォーカスすべき部分は多いがコミンテルンに焦点を合わせてつぶさに説明をしている本はなかなかないように思った。
またソ連やスターリンの立場から細かい粒度で世界大戦に向かうまでの歴史を捉えた内容も自分としては新鮮だった。1930年代から第二次世界大戦に向かう時代にコミンテルンは自己のアイデンティティを細かくアップデートしなくてはならずそのあたりの攻防は壮絶な印象だった。
またナチスやファシズムの台頭が第二インターである社会主義陣営に重なり合わさっていたという視点も自分にはなかったので勉強になったように思う。
Posted by ブクログ
国際共産運動の成り立ちから衰亡までを丁寧に描いている。理想に反してソ連ファーストのための手段として変貌を迫られる過程がわかる。当時の日本との関係をもっと詳述してくれていたら理解がさらに進むかも。
Posted by ブクログ
特に印象に残ったのは、共産主義が支持される為に、弱者の味方である演出をし、アインシュタインやロマン・ロランなど、著名で支持されている人からの応援をもらえるように画策する。これは今も変わらない。そして、多くの日本人が騙されている。
これは一部だが、本書では、コミンテルンの全貌がよくわかる。ソ連とコミンテルンの関係なども書かれており、現代史の理解が深まった。
Posted by ブクログ
佐々木太郎「コミンテルン」(中公新書)
ロシア革命で生まれ第二次大戦まで存在した国際共産主義運動体であるコミンテルンの歴史。内容は面白いが話題が盛り沢山で錯綜しており話の筋がつかみにくい。ただ左翼純化路線と統一戦線路線の間で常に揺れ続け、多くの人が振り落とされてきたのは理解できた。
0. マルクスらは1864年に第一インターナショナルを結成した。第一インターが分裂・解消しマルクスも没した後、1989年に第二インターが創立された。さまざまな主張を持つ人たちのゆるやかな集まりだった。第一次大戦前には反戦を訴えていたが、戦争が始まると各国の運動体は自国の戦争を支持するようになった。
レーニンらが1918年にロシア革命を起こす。彼は少数の前衛党による指導を強調した。第二インターの中心にいたドイツのカウツキーらは、レーニンらが選挙で憲法制定会議を実施しながら共産党が第一党になれなかったことで強引に同会議を解散して一党独裁制を引いたことを批判した。一方レーニンは自国の戦争に反対を貫けなかった第二インターこそ裏切りものと考えた。
ロシア革命当時、後進国ロシアの革命だけでは共産主義を実現できず欧州で革命が続くことが必須と想定されていた。そのために各国に共産党を、そしてそれを結ぶ第三インター(コミンテルン)を作ることとした。最終的には世界革命、世界ソヴィエト共和国樹立を目指した。
1. 設立:1919年にコミンテルン第一回大会が開催された。各国の党の代表からなる常任委員会の中にジノヴィエフをトップとする幹部会が作られ、事実上の指導機関となった。1920年の第二回大会で各国共産党に思想の純化・中央集権・鉄の規律・秘密・浸透が求められ、ロシア共産党の鋳型に合わせることが要求された。欧州では反発もあったが、第二インターが戦争に協力した負い目もあり要求が通った。ただし各国ともコミンテルンに加入する共産党と議会活動を重視する社会民主主義政党が明確に分かれる結果ともなった。
ロシアでは戦時共産主義が行き詰まり農民の反乱が頻発。弾圧の一方で穀物の徴発をやめ市場取引を認めるなどの妥協も余儀なくされた。左派は海外での革命で苦境を脱しようとドイツで騒乱を起こすが鎮圧された。そこから社会民主主義政党との協調を排除しない「労働者統一戦線」の方向に舵が切られた。
2. 東方:第一次大戦当時、米ウィルソン大統領が主張した民族自決の考えに植民地化されていた諸民族は期待したが、戦後に植民地が温存されたことで怒りが噴出、革命ロシアへの期待が高まった。そこでコミンテルンは民族解放運動にも取り組むこととした。ただし後進地域ではプロレタリアートは少なく、農民や民族主義者との協力で帝国主義に対決するとした。
1920年にバクーで東方諸民族大会を開催したが、ソ連が自国内のムスリムを抑圧していることやロシア人が指導者としてふるまうことへの反感も起きた。イランやトルコへの革命の輸出は失敗に終わった。一方で極東ではモンゴル人民共和国設立に成功、中国が新たなフロンティアとして注力される。
3. レーニンの思想:マルクスはプロレタリアートの自己解放を説いていた。また1871年のパリ・コミューンに触発され国家権力に否定的でもあった。一方レーニンは後進国ロシアでの革命には前衛党の指導が必要との考えを持ち込み、名目はソビエトを最高機関としながらも、それを共産党政治局が独裁的に牛耳る仕組みを作り上げた。しかしレーニン自身は晩年までヘーゲルの弁証法に傾倒していた。
4. 統一戦線:1923年以降、世界革命の機運が生じない中、再び統一戦線路線が模索された。アジアでは中国で国共合作が実現。欧州でも第二インターとの和解を進めようとした。ただし社会民主主義政党や労働組合に浸透して内部から共産党化しようという動きも並行している。秘密工作も行われて、ソ連や赤軍の諜報機関との連携も進んだ。公然活動ではドイツ共産党のミュンツェンベルグが知識人を糾合してロシア飢餓救援活動を繰り広げ大きな成果を上げた。イタリアで元社会主義者であったムッソリーニがファシスト政権を確立すると、コミンテルンは社会ファシズム論を唱え、社会民主主義=ファシズムとみなすようになった。中国では蒋介石の北伐成功後に国共合作が破綻した。ロシアではスターリンがトロツキーとジノヴィエフを追放し極左路線に回帰した。
5. スターリン:スターリンは欧州よりもロシアの多民族社会に親和性を持っていた。彼は民族単位の地方自治制でナショナリズムを飼いならすことを目指し、民族語の普及、民族人材の登用などを進める一方で一国社会主義論をとなえ、まずはロシア自体の国家体制の充実を志向した。
海外ではイギリスとの断交、中国での国共合作の破綻、ポーランド・ピウスツキの扇動によるウクライナ反乱など厳しい状況が起きていた。スターリンは左路線へ転換することで状況を打開しようとした。五か年計画による急激な工業化や農業集団化に着手した。コミンテルンでも少しでも忠誠を疑われるものは追放され、各国共産党を厳格に統制する組織体制も整備された。
6. 1930年代にコミンテルンは1万人を超える巨大な組織となった。厳格な人事管理や内部ヒエラルキーも確立した。一方で欧州ではミュンツェンベルグが「国際連帯デー」を盛大に盛り上げるなど巧妙な宣伝活動で知識人や大衆を引き付けた。
ドイツのナチス政権は国会放火事件以降、共産党員の迫害を強めた。さらに公然と再軍備を行ったため、従来の独ソ友好を改め、国際連盟復帰、フランス等との条約締結に踏み切った。コミンテルンは人民戦線運動をフランスで広げたが不発、スペインでは内戦に至った。一方、中国では共産党が山中への退避を余儀なくされ、ソ連との連絡も途絶えがちになり土着化が進んだ。その後、西安事件で国共合作が再開されるが、その裏には孫文の妻の宗慶齢へのコミンテルの働きかけがあった。コミンテルンの人民戦線戦術は多くの反応を引き起こし、製菓のあった地域もあった。しかしコミンテルン自体はソ連政治の深刻な嵐「スターリンの大粛清」に巻き込まれていった。ジエヴィエフ、ピャトニツキー、クンなど多くが処刑された。
7. 第二次大戦以降:1939年独ソが不可侵条約締結。ソ連はポーランド、バルト、フィンランドに侵攻した。41年にはドイツ軍がソ連に侵入。42年末からのスターリングラード攻防戦でようやく攻勢に転じる。欧米に第二戦線を開かせるためスターリンはコミンテルンを解散すると表明した。45年にベルリンが陥落し独ソ戦は終了した。
戦後は東欧各国に人民戦線方式の人民共和国を設立するが、冷戦がはじまるといずれも共産党の独裁となり、各国共産党の連携帰還としてコミンフォルムが作られた。スターリンの死後、フルシチョフは56年にコミンフォルムを解散する。