あらすじ
<わたしは安らかな死を迎えられるだろうか>
臨床経験から導き出された15の論点から、「安楽死」「終末期医療」「緩和ケア」について問い直す。
「日本人は生きる/死ぬをどう考えるべきなのか」という社会的な問題である安楽死制度をわかりやすく、かつ、徹底的に考える。
もし、未来に安楽死制度を作るならば、考えなければならないこととは――。
安楽死制度に対する反対派も賛成派も、どちらもが納得できる議論はどのように可能か。制度の設立・実施に慎重な立場を取る現役の緩和ケア医が、臨床経験と詳細な分析により、錯綜する問題の論点を整理し誰にでもわかりやすく解説する。
いずれは死を迎える、すべての人へ。
【目次】
はじめに:苦しみのすべてをゼロにできるのか
1:「死を選ぶ生き方」は正しい生き方か?
2:安楽死制度を求めていくために必要な3つの要素
3:安楽死と余命の関係
4:安楽死を行うのは誰か
5:個人的信条を安楽死制度の議論に持ち込まない
6:逆算で考える
7:子どもの安楽死は認められるか
8:緩和的鎮静は安楽死の代替となり得るか
9:間接的安楽死と終末期の鎮静
10:人生会議をすれば患者の尊厳は守られるのか
11:認知症と安楽死
12:すべり坂は止められるのか
13:それは実質安楽死の容認なのでは
14:分母を増やすのは無駄にならない
15:安楽死報道のあり方
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Posted by ブクログ
自死する人とは、不幸の具合はグラデーションでつながっている。死を選ぶことは正しいのか。
安楽死制度の適切な運用には、緩和ケアの発展と均てん化(格差の是正)が必要。
死とはなにか=肉体的な死、精神的な死、社会的な死。
緩和ケアの到達点はないが、安楽死制度に対応したレベルはあるはず。
日本社会は安楽死制度を運用できるほど成熟していないのではないか。
患者の自己決定権は保護されているか。
オランダでは、医療契約法で、医師の行為に対する要望は拒むことができるが、医師の行為をしない要望には答えなければいけない。
余命要件と疾病要件は必要か。この制限を設けることで、対象者を少なくすることができる。諸外国では余命要件は設けていない事が多い。
安楽死ができる医師制度を設けることも一案。安楽死に反対な主治医を救うことになる。安楽死に裁判所の許可を必要とする方法もある。
終末期医療の医療費は、全体の1割り程度しかない。
生きる権利があるのと同様に死の権利もあるのではないか。幸福追求権の一種ではないか。夫婦別姓や同性婚制度の行く末が、安楽死制度の第一歩になっていいだろうか。
未成年に対する安楽死制度は、オランダ、ベルギー双方とも緩和が効かない余命が限られた患者に限る。
緩和的鎮痛は、安楽死の代替になりうるか。
「VSED」(自発的な飲食中止)を選択したうえで緩和的鎮痛を行えるか。
緩和的鎮痛は医療行為だから医師に決定権がある。安楽死は患者に専決権がある。したがって違う制度である。緩和的鎮痛は間接的安楽死だが、終末期では違法性を問われない。
判決では精神的苦痛による安楽死は許容されないが、緩和ケアでは痛みの定義の中に全人的苦痛がある。
肉体的苦痛を鎮静の条件とすると、精神的苦痛はどうなるのか。全人的苦痛を条件とするほうがいいのではないか。
人は自分が死ぬとは思っていない。その人間が安楽死のことを話すから重みがない。
オランダでは、認知症患者が意思表示ができなくなった場合でも、事前に書面があれば安楽死は合法である。
すべり坂を予防することは可能か。
精神的苦痛の場合や、子供、終末期でない人、に拡大していく現象。
その原因は、死による問題解決の甘美さ、にある。宗教は死を超越することを目的としている。一方で自死は禁じている。医療に対する怨嗟と悲嘆の声を聞くことを簡単に解決できるのが、死による問題解決。
安楽死制度に対して、議論をする人を増やす=母数を増やす、ことで、議論が深まる。