あらすじ
秤屋ではたらく小僧の仙吉は、番頭たちの噂話を聞いて、屋台の鮨屋にむかったもののお金が足りず、お鮨は食べられなかった上に恥をかく。ところが数日後。仙吉のお店にやってきた紳士が、お鮨をたらふくご馳走してくれたのだった! はたしてこの紳士の正体は……? 小僧の体験をユーモアたっぷりに描く「小僧の神様」、作者自身の経験をもとに綴られた「城の崎にて」など、作者のもっとも実りの多き時期に描かれた充実の作品集。(C)KAMAWANU CO.,LTD.All Rights Reserved
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Posted by ブクログ
死と生を内省的に見つめる、静かな物語。
読書会の今月のお題がなぜ本作かを考えながら読む。
私小説の元祖ともよばれる志賀直哉。自分を見つめ、その自分を決して大仰にしない姿勢は、昨今の集団で暴走する国家や民族の姿勢を冷ややかに見つめることになるのかもしれない。
言文一致を標榜した明治以降の文学、小説は、一人称である「私」の処理をいかに模索してきたか。(『「私」をつくる 近代小説の試み』(岩波新書 安藤宏著)の中で語られている)。 その究極ともいえる、ひとつの形が志賀直哉の私小説だという。
「私」すらも存在しない。「自分」と称する文体が特異である。
しかも、その「自分」の経験のお話であるのに、自分を主人公にしていない。大仰に感情を語れば、それは演技になる。教訓を語れば、他人を動かす、ひいては世の中が自分中心に回ることになる。体験から人生観を語るようでは、悲劇の主人公になってしまう。そうしたことをことごとく回避して成り立っている。
(逆に、太宰治は悲劇の主人公となって、大仰に人生を語る)
この「自分」を消しても文章は通じる気がする。が、それでは日記と違いがない。日記のようではあるが、そこに「自分」という一人称を嵌め込んだところに志賀直哉の真骨頂があるのだろう。
➡読書会後の気づき
「自分」の使用頻度が、あるクダリを境に急増する。そこは、主人公(=著者)が、理性的な思考から本能的な感覚の世界へと転換した場面だった。なるほど、そう思って読むと、テンションがあがっているというか、戸惑いが見て取れる。
その主人公の「自分」、すなわち著者である志賀直哉が見つめるのは「死」であり、死を通して「生」をも意識させる。
鉄道事故で生き残った「自分」は、いまのところ「生」に属する存在だ。城崎温泉の宿で見た屋根の上で死んでいる「蜂」は、生に対する「死」の存在、そして串刺しで子どもらに追われる「鼠」は、「生から死」(あるいは、死にそうな場面から生を勝ち取ろうとする姿か)、そして、石で打たれる「イモリ」は、「生」を奪われる存在。その奪ったのは「自分」であるという関係性。
ただ、どれもが偶然のことであり、そこに、なんら因果応報、必然の繋がりがないという点描。
➡読書会後の気づき
無関係のようで、石があたったイモリが吹っ飛んだ距離四寸は、体長の4倍。これは、著者が山手線の事故で跳ね飛ばされた距離、身長の4倍、5-6mに符合しているという、なかなかの深読み。恐れ入った!
生と死を分けるのは、論理、倫理、必然、偶然なのかと、読者が自問することになる(作中の「自分」はその問いを発さない)。
死に対して「理由付け」を行うことは、生をゆがめ、死者を裏切り、現実を物語で粉飾することになると言わんばかりである。
故に、この作品には、物語もストーリーもない、起承転結がない、プロットがない、伏線がない。
西欧的な、往きて還えりし物語にしない、潔さ(を通り越した凄み)がある。なにも盛らない、短歌、俳句の世界であり、まさに東洋的な作品である。 (逆に、翻訳して西欧の世に問うても受けなさそう)
➡ 読書会後の気づき
実は、往きて還りし、ではないが、黄泉の国に落ちたイザナギのように、暗黒の世界に足を踏み入れる場面はある。イモリのクダリがそう。徐々に、周りの描写も明から暗へと転じていっている。
いかにも純文学、私小説の手本とも言える。
純文学は「意味を見出せなくても良い」、「分からないことが評価される」と、小川哲の対談ラジオや、著書の中で触れられていた。小川哲はこうも言う。「答えのある問いは、小説ではない」と。
つまり、答えは読者が探すものであると。
これは、まさに、なんでも答えをすぐに求めるIT時代の現代、あるいは西欧に対するカウンターカルチャーではないか。現代の価値に照らせば、この小説は役に立たつものではない。でも、価値はある。
これは平野啓一郎が『文学は役に立つか』と著書で触れていたこと。現代的価値観で「役にたつか?」ではなく、文学はその存在に「価値はある」と。
多くの点で、現代社会へのカウンターとなっている。
先日、動物学者二人の対談本を読んだ(『動物たちは何をしゃべっているのか?』(山極寿一 鈴木俊貴著)。
霊長類の脳を調べて、それぞれの種の脳で、高度な思考を司る大脳新皮質が占める割合に違いがあり、脳での大脳新皮質の割合は、群れのサイズと比例する、と。そこから導き出された人間の脳から判断される群れの人数は150人という数だった。それが、農耕が始めり、社会が形成される前の時代の集団の人数だった。
その後、農業革命が起こり社会が発展し、集団が生まれ、民族や宗教、国家というもので、集団を束ねる必要が出て来たけど、大脳新皮質は、そんな急に1万年やそこらで進化しない。
そこで、人は言葉を使って、物語を産みだし、それによって集団の意識をひとつの価値観で束ねようとした。
今の世の中も、その延長線上で、ありもしない物語に踊らされて、未来へ突っ走っているようなもの。
ここで、足を止めて、一度、自分を見つめ直す必要があるのではないか。他人と見比べない、不必要な共感を求めない。分断も、そもそも両極への寄り添いでしかなく、「個」の思想によるものではない。
生も死も、なんの因果もない偶然の賜物。それを「個」として静かに見守る。せめて、150人以下の集団の中で、ものごとを判断する。そうすれば、モノゴトの真実が、もう少し見えてくるのではないだろうか。
そんなことを思わせてくれる作品だった。
➡読書会後の気づき
「色使い」は、あった?!
青山墓地の「青」から、蜂の虎斑にあひる(のくちばし)の「黄」、そして「赤」は、イモリの腹だ!
『注文の多い料理店』と同様に、安全圏から危険地帯へと主人公は歩を進めていた?!(深読みし過ぎか・笑)