あらすじ
田中小実昌 生誕100年記念刊行
『ポロポロ』から『アメン父』へ――。
幼少期、従軍、復員ののち東大哲学科入学。
米軍基地のアルバイトで暮らし、翻訳家、小説家となって後も、コミさんは哲学に関心を持ち続けた。
映画館への途中で、バスの旅で。カバンに忍ばせた文庫本に、文句と注釈をつけながらも読み続ける。
そんな日々が、いつしか「小説」となる……。
「哲学」「宗教」「小説」の三位一体のかんけいの謎を追究し、著者晩年の代表的シリーズとなった「哲学小説」を初集成(全三巻)。
第Ⅰ巻は『カント節』『モナドは窓がない』。
巻末に対談を付す。
(刊行予定)
2025年1月 第Ⅱ巻(『なやまない』『ないものの存在』) *第Ⅰ巻と同時刊行
2025年3月 第Ⅲ巻(単行本未収録短篇集)
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Posted by ブクログ
哲学とは本来、水晶のような論理の塔を築くことではなく、混沌とした生の泥濘(ぬかるみ)の中で足掻く営みであったはずだ。田中小実昌が本著『哲学小説集成 (I)』において提示したのは、まさにその原点回帰であり、同時に極めて現代的な抵抗の良書である。
本著を深く読み解く鍵は、著者がカントやスピノザ、ライプニッツといった厳格な体系哲学者を、「酒場」や「ストリップ劇場」、あるいは「父の幻影」と同じ地平に引きずり下ろした点にある。通常、哲学書を読む行為は、日常から離脱し、純粋な理性の高みへ登ることを要求される。しかし、著者はその直立不動の姿勢を拒否する。彼は酒に酔い、町を徘徊し、生活の倦怠と矛盾にまみれた身体のまま、難解なテキストと対峙する。そこで行われるのは「解釈」ではなく、哲学者の思考と自分の生理的感覚との「衝突」である。
著者にとって「哲学=神(宗教)=小説」という等式は、調和的な統合ではない。それは、牧師でありながら矛盾に満ちた言動を繰り返した父の記憶と、厳密な論理を求める西洋哲学、そして虚構を紡ぐ小説という三つの異質な要素が、彼の肉体の中で軋み合う音そのものである。彼はカントの『純粋理性批判』のページをめくりながら、同時に昨夜の酒の味や、父の不可解な祈りを反芻する。この「混ぜっ返す」態度こそが、高尚な概念をリアリティのある「手触り」へと還元する唯一の方法論なのだ。
現代(2025)を生きる私たちにとって、本著が放つ光はあまりにも鋭い。現代は「過剰な可視化」と「即時的な意味付け」の時代である。AIによる最適解の提示、SNSにおける瞬時の善悪判定、タイパ(タイムパフォーマンス)という言葉に象徴される効率至上主義。私たちは「わからない時間」や「無駄な迂回」を病的なまでに恐れ、すべての事象に即座にラベルを貼ることを強いられている。論理的な整合性のないものは排除され、数値化できない感情はノイズとして処理される。
しかし、本著の「哲学小説」は、その現代的な病理に「待った」をかけている。彼は「わからない」ことを恥じない。むしろ、その「わからなさ」の中に留まり続けること、矛盾を矛盾のまま抱え込んで歩き続けることに、人間としての誠実さを見出している。本著における「受ける」という姿勢は、単なる受動ではないと推察する。それは、世界を自分の小さな理解の枠組みに押し込める傲慢さを捨て、世界がその複雑な姿のまま自分の内側へ侵入してくるのを許す、強靭な忍耐である。彼が言う「ポロポロ」という感覚は、論理のグリッドからこぼれ落ちる砂のようなリアリティであり、それこそが私たちが生きている「生」の正体なのだ。
私たちは、権威ある誰かが定めた「正解」や「体系」に従属する必要はない。本著が証明するのは、専門用語で武装した学者でなくとも、酒場の隅で、あるいは通勤電車の吊り革に捕まりながら、私たち自身の卑近な言葉で哲学することは可能だという事実である。むしろ、生活の「ずれ」や「綻び」の中にこそ、真の形而上学的な問いは宿る。
本著は、効率と正解に急き立てられる現代人への処方箋である。「論じる」高みから降り、「生きる」低地へ。そこで「わからない」と呟きながらも思考を手放さないこと。その「中腰」の姿勢こそが、2025年の複雑さを生き抜くための、最も強靭な知的態度であると私は確信する。