あらすじ
辺境の地から現れた謎の戦士集団――彼らは一千年の都を滅ぼし、新時代の幕を開いた。
オスマン帝国は、なぜビザンツ帝国を滅ぼすことができたのか? 世界の今を解くカギは、すべて歴史の中にある――。誰もが一度は耳にしたことがある「歴史的事件」と、誰もが疑問を抱く一つの「問い」を軸に、各国史の第一人者が過去と現在をつないで未来を見通すシリーズの第8弾! 一千年の長きにわたって君臨したビザンツ帝国の崩壊と、そこから続くオスマン帝国の興隆は、キリスト教とイスラム教という二つの文明が交錯する、その転換点であると共に、新時代へと移行する歴史の分岐点でもあった。希代の征服者メフメト2世がもたらした重大事件の世界史的意義について考える。
【内容】
[事件の全容]
第1章 メフメト二世がいかにして、コンスタンティノープルを陥落させたのか?
[歴史的・宗教的背景]
第2章 辺境に登場した戦士集団は、宗教的混淆のなかから台頭した
[同時代へのインパクト]
第3章 メフメト二世は、オスマン帝国の礎をいかに築き上げたか?
[後世への影響]
オスマン帝国は、なぜ六百年も存続したのか?
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
表題とは異なり、1453年のコンスタンチノープル陥落は中世を終わらせたわけではないと逆説的に述べる。また、トルコではメフメット2世とコンスタンチノープル陥落は長らく評価されず、19世紀にオスマン主義(啓典の民による宗教別分離とジズヤから諸民族の国民化)の勃興とその破綻によるトルコ民族主義の台頭の中で、評価されるようになった。
(1453年の世界史の事象を挙げて、その影響を述べよという東大入試問題があったけれども(コンスタンチノープル陥落と百年戦争終結)
・メフメット2世は、中央集権化を強力に推し進めた。イスラム学院の創設によるウラマーの育成・国家公務員化とカーディ(地方の法官)への任命、伝統的ウラマー、トルコ人貴族、キリスト教徒有力者の排除とデヴシルメによる官僚・軍人育成制度の確立、封建制の解体とティマール制の拡大など。
Posted by ブクログ
今争いが絶えない中東もかつてはオスマン帝国の一部だったと知り、もっと知りたくて読んだ。せっかく多民族・多宗教の国だったのに滅亡してしまったのは、それはやっぱり(みんな違ってみんないいと考えていたからではなく)領土拡大のために多様性を利用したに過ぎなかったからなのだろうか。情(なさけ)で平和は維持できないのか。自分(自民族)は他人(他民族)と違うと自覚することは、本当に幸せな生き方なのか。今の世の中と照らし合わせて、いろいろと考えさせられる内容だった。
Posted by ブクログ
千年続いたビザンツ帝国(東ローマ帝国)をオスマン皇帝メトメフ2世が征服、徳川幕府は264年間だが、オスマン帝国は600年続く、第一次世界大戦まで継続した史実に驚愕した。その秘密は妻は奴隷とカーヌーンと言う規範書(中には「世界秩序のためには兄弟を処刑しても良い」)で築かれた歴史だ。妻は他の勢力帝国・権力者系との結婚はせず、決して兄弟、高い地位にある高官・宰相などを完全に信頼することなく、皇帝自らが妻を選び、英才教育を施した奴隷らを抜擢していくことを優先したことだ。政治における懸念材料は当初は宗教との共存、平等であり、オスマン帝国は3つの宗教、イスラム、ユダヤ、キリストを混在させ、中央集権国家としてバランスをとっていた。だが、イスラム(ムスリム)を凌ぐキリスト教徒勢力で弱体化、時代と共に周辺領土の権力者が独立、更に軍団の分裂で滅亡、トルコ共和国となる。