あらすじ
『当代一、ヤバい社会学者』が、幼少期から結婚するまでの知られざる私生活を語り尽くした。宮台真司は、どうやって〝生きる術〟を獲得してきたのか。宮台学入門者からマニアまで、必読の一冊。
「面白いことを言おうとしたりといった意識はまるでない。このひと、どんな話題にも真正面から立ち向かっていってしまうたちなのだ。そのいちいちの〝愚直さ〟が見ていて聞いていてなんとも愛おしい! とは当代随一の社会学者にして各方面に多大なる影響力を発揮する著名な論客でもある人間をつかまえていうには失礼千万な感想だとは百も承知の上で申すが、とにかく私はそんな宮台さんの、人を警戒するということを全く知らないような隙だらけの対応に接しているうち、なんだかたまらなく可愛いく思えてきてしまったのである。
そして、「そうだ! このことをばこそ世に知らしめねば」。そう直観したのだった。そこがいわばこの企画のスタート地点/原点なのである。(中略)
今回、宮台さんには自身の今日に至るまでの人生のなかでその時々に思ったこと、感じたこと、考えたことを自在に語っていただいたのであるが、そこには何か通底する本質があるようにも思えた。それは「心の優しさ」なのかも知れない。話が進むにつれ私はそう強く確信するに至ったのである。」(中略)
宮台真司の魅力とは、結局無類のともいえるほどの誠実さの持ち主、言い替えるのならあきれるほどの正直者だということに尽きるのではあるまいか。― 近田春夫
「本書は、1960年代の幼少期から2006年頃(40歳代半ば)に結婚するまでの自伝だ。自伝を出すなど考えたこともなかった。近田春夫さんと壇上で大喧嘩をした後、僕を気に入ってくれた近田さんが楽屋で僕の自伝をプロデュースしたいとおっしゃり、偶然そこに編集者が居合わせたことで文字通り気付いたら本書を出すことになっていた。近田さんが聞き手になった対話は延べ十数時間。それを何とか一冊に収まるようにしたのが本書である。(中略)
映画批評のキーフレーズは25年間変わらず、『ここではないどこか』『どこかに行けそうで、どこへも行けない』『社会から世界へ』『世界からの訪れ』『一緒に屋上に上がって同じ世界で一つになる』。本文を読んでお分かりのように、旅も、恋も、ハイデガーを起点とする理論研究も、援助交際や色街のフィールド研究も、これらキーフレーズが指し示す通奏低音が鳴っていた。今も鳴っている。それに気付けたことが最大の収穫だったように思う。」―宮台真司
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Posted by ブクログ
宮台真司の学者としての功績は何だ。そこから考えると、こうした思想家然とした学識タレント、一種の芸能人として消費されるポジションは、例え教職や論壇であっても“パフォーマー“という枠を出ないという気がする。
だが、安全圏から発言する卑怯な人間だというつもりはない。現に宮台は暴漢に襲われ、本書はその内容にも触れるものだ。それなりの覚悟を持って露悪的に振る舞っている。
露悪的にしか、日本社会に巣食うアノミーに気付かせる術がない。
ー 日本は、残念ながら失敗した。「クズ=言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」が不安ベース・不信ベースなのに対し、クズは横に置いて幸せベース・信頼ベースで生きようよと、30年前から呼びかけました。誤算は、幸せベース・信頼ベースで生きる者が「見える化」した途端、クズの妬みと壊みを買うという日本の劣化ぶりを、軽く見ていたこと。今のX界隈を見れば分かるでしょう。
本書は自伝だ。一応聞き手として近田春夫がいるが、宮台真司は自らの主義を貫く発話者だから、対談形式の意味はない。というか、近田春夫の存在がありながら、宮台真司の自伝となるのはそのためだ。
「クズ=言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」は、宮台真司自身である。分かっていて自ら演じ、社会を煽ることで、社会の構造的問題を「不快な言葉」で公共圏に投げ込んだ。共同体の崩壊、空洞化する公共性、自己責任論の暴力性などを、テレビ・雑誌・講演を通じて繰り返し可視化した。思考の前提を揺さぶり、90年代以降の日本社会に一定の影響を与えてきた。
多くの人が言語化できなかった違和感を、汚穢な言葉で代弁し、特に、秩序や道徳を無条件に信じられなくなった層にとっては、思考の避難所となった。批評家として、時代の不安を言語化した。つまり、宮台の価値は「正しいことを言ったか」より、「考える土俵を作ったか」にある。
ー これが始まった73年には慶應義塾高など親が裕福な「お坊ちゃま学校」でも同じ動きが生じます。麻布でも慶應でもプログレじゃなくて脱価値化・脱政治化したフュージョンでテクニック競争する流れです。そもそもロックならぬプログレをコピーする時点で、幼少期から楽器を習ってきた優位性を見せびらかす営みでした。この「誰も付いてこられない営み」を集団で展開するのが、卓越主義としての「嫌なやつごっこ」です。
ー 「風流」も「好事家」も、頭が良くて勉強すれば上昇できる営みと違い、ブルデューの言う文化資本に恵まれない者には難しい。むろんそれに恵まれているのは本人の達成ではない。だからこそ「誰も付いてこられない営み」によって斜めに上昇できる。単なる上昇志向に過ぎない「教養主義」を、田舎者の営みとして嗤う「卓越主義」の本質でした。折しも「世間並みの時代」から「差別化の時代」へ。
俗は果たして煽ることでしか覚醒し得ないだろうか。諦念の理由は、伝え方が拙いからではないのか。エンタメで引きつけるためのプロレス。脚本通りの格闘技で、社会は変わるだろうか。もはや革命を起こす動機はない。それを抑え込むシステムを損得マシンに組み込む事に成功したのだ。
大澤真幸との学生時代からの交友が聞けて嬉しかった。宮台は、学者として体系を残した人物ではない。だが、日本が“恥”と“不安”を共有できていた最後の時代に、それを引き裂く役を引き受けた公共的演者だった。もう、いい歳だ。