あらすじ
「理想」という語は、明治の時代、プラトンの「イデア」の訳語として造られ、定着した。そしてプラトンの最高傑作『ポリテイア』(『国家』)が『理想国』の標題で出版され、近代国家建設をめざす多くの日本人の希望の拠りどころとなる。だが、新たな理想社会を創らんとするその熱情は、やがて全体主義に利用される運命を辿った――。かくも激しく人々の魂を突き動かしたプラトンの理想主義哲学とは、果たしていかなるものか。『ポリテイア』の核心を読み解くことで、哲学という営みが切りひらく最良の地平を描き出す。初学者への案内として「プラトン『ポリテイア』を読むために」を付した決定版。
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Posted by ブクログ
■ 納富先生が問い直そうとしているもの
○経済至上主義に基づく欲望の開放が推奨され、「正義」を社会契約と捉えて制度設計や権利調整へ縮減する現代において、「人間本性(フュシス)」と「善く生きること」を結びつけるプラトンの正義論は、意義を持ち得るか?
○戦前の全体主義において、プラトン「ポリティア」はどのように誤読され、利用されたのか?
○現代において、プラトン「ポリティア」をどのように読むべきか?
■ プラトンの根本問題
○欲望の開放により、正義やポリスの秩序が失われていくアテナイ民主制
○理性による魂の秩序化や徳の発揮より、名誉欲や金銭欲等の欲望を重視する市民の価値観
○弁論術による説得が重視され、哲学による真理の探究が軽視される社会
○欲望に支配された市民の魂を理性により秩序付け、善や真理の探究に向け変えさせる必要性
■ 中心概念
○「内なるポリティア」=ポリティアが魂、社会、宇宙という段階において類比的に成立していることを理解し、自己の魂を理性によって秩序づけ、より善く生きる魂のあり方を形づくること
○「理想」=イデアを言葉(ロゴス)によって具体的なモデルとして表現したものであり、イデアに向かうための目標(あるべき姿)として人々の間で共有され、批判的検討や対話により、より善い理想を探求する哲学的実践を促すもの。
○「向け変え(ペリアゴーゲー)」=欲望や通念に向いた政治家や市民の魂を、真理や善の探究の方向に向け変えさせること。 プラトンは、「ポリティア」を書くことで、これを読む政治家や市民の持つポリスや政治のイメージを変えさせ、長期的かつ根源的に社会を変革しようとした。
■ 『ポリティア』の再解釈
従来、『ポリティア』は魂についての「倫理学的」著作として読むか、ポリスについての「政治学的」著作として読まれてきた。納富先生は、「ポリティア」は魂とポリスを「天体・ポリス・魂」の類比構造として描いており、読者が「内なるポリティア」の必要性を理解した上で、読者自身が共有された理想(善く生きること=魂の秩序化)に基づいて批判的検討や対話を実施し、哲学的実践を行うための著作として読み替えている。
■納富先生の最重要主張
「ポリティア」とは、これを読んだ読者が、宇宙・国家・魂の類比構造における「内なるポリティア」に魂を向け変え、読者自身がより善い生への哲学的実践に移行する書である。
■この本を読んだ後に残る問い
共有可能な善とは存在するのか?
Posted by ブクログ
ちょうど最近「国家」を読んだのでタイムリーだなと思って購入。「ポリテイア(国家)」について、1章で20世紀後半に起こった議論とその検討をし、2章で日本での受容史を見て、それを受けた3章で現代にポリテイアを読む意味を提言するという内容になっている。1章は哲学に疎い自分には勉強になった(ホメイニーがプラトンの哲人政治論に影響を受けていたのは知らなかった)し、3章は内容に全面的に同意できるとは思わないが、真っ向勝負の力のある議論で意義を示していて面白かった。2章にかなり力が入っていて詳しいので、こういう内容に興味があればさらに面白く読めたかもしれない。
ただポリテイアに向けられた批判に対して擁護が過ぎると思う箇所もいくつかある。すべての民は国のために生きることを求められ、職業選択の自由もなく妻子も共有であり、一部は私有財産すらないのに、理性のある「自発的」行動だから全体主義ではない、人権もあるというのはかなり苦しいだろう。著者は書いてないがそもそもこれ以外の道を許さないがんじがらめの教育あっての制度であって(それでこのような国が実現するのかは疑問だが)、「自発的」に国に奉仕する人間だけを生み出しておいてその言い草はない。
プラトンは劣った人間の間に生まれた子供は殺さなくてはいけないとまではっきり書いてるのに優性思想ではない、ただの経験論などというのもおかしいと思う。読者はポリテイア本文は読んでいないと思っているのかもしれないが…。擁護するにしても、当時は人権という思想はありませんでしたという擁護が精一杯ではないだろうか?
ポリテイアを徹底して非政治的に読むのはこの大作を骨抜きにするようなものだと私も強く思うのだが、現代に読む意義を見出すのであれば現代から見て不都合な部分に批判があるのも避けられない。3章の議論で著者自身が力強く提言をしていて、ポリテイアに対する批判もまたディアクレティケーの一端になるという見解を示しているのは非常に良いなと思った。だからこそちょっと細かいところが気になってしまったかも。