あらすじ
ヘイトスピーチ、分断と対立、新たな全体主義……。誰もが表現者になれる一方で「言論の自由」の価値が揺らぐ現代。古代ギリシアから啓蒙主義、反ファシズム、インターネットの時代まで、言論の自由が果たしてきた役割を追い、その意義を問い直す。解説/森村進
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Posted by ブクログ
ソクラテスなど哲学が盛んだったの古代の時代、活版印刷が発明され、宗教改革が起きた中世、ファシズムの横行した世界大戦期、SNSが普及した現代など、さまざまな大きいイベントごとに言論の自由に対する認識や規制がどのように変化してきたのかが詳しく記されている。
こうして本書を通して歴史を振り返ると、新しい技術の登場、宗教などによる価値観の変化など要因はさまざまあるが、言論の自由の規制と緩和が繰り返されてきたことがわかる。
そして、規制が強化された先にあるのは中央集権化や独裁など社会や世界にとって悪い影響を与えてきたこともわかる。
現代はSNSで個人の発信が容易になり、真偽とわず数えきれないほどの情報があふれている。
別の書籍でも問題として挙げられていたが、SNSにおいてフェイクニュースは正しい情報より70%ほど早く拡散されることや、陰謀論の吹聴やヘイトスピーチが際限なく発信され続けてしまう。
これらの弊害によって発信を規制すべきと考える人が増えているように思うが、確実によくない方向に向かっているのだろう。
実際、世界で見て殺害されるジャーナリストの数は近年増えており、言論の自由は縮小している傾向にあるとのこと。
また、SNSを運用する企業が非常に大きく中央集権化していて言論の規制と相性がよい(容易に規制ができてしまう)状況であることもあわせて言論の自由の縮小を促進している。
本書とは別の話だが、あるyoutubeで、マリファナと言っていいのかな、言ったらBANされるのかな、といった旨の発言をしていたのが気になった。
当初はそんなことでアカウントに制限がかかるわけないと思った程度だったが、本書を読み終えて考え直すと、SNSなどのサービスでは発言した内容次第では制限されるということになんの違和感ももっていない、むしろ当然とも思っている人が多いのではないかということ。
つまり言論の自由が規制されることを無意識に賛同している人はかなり多いのではないかと思う。
本書によればより透明性がい場での自由な議論は誤情報の拡散に一定の効果があるとのことなので、もちろん言論の自由のデメリットはあるかもしれないが、個々人が意識を変えていける社会を望む。
Posted by ブクログ
ヘイトスピーチや誹謗中傷は禁止するべきものだという先入観が見事に覆された。直感的に間違っていると感じる言論まで開かれた自由が、破滅的な弾圧や粛清を防止することにつながるという歴史的実証を知れただけでも読んだ価値がある。
現代はネットにより個人があらゆる情報にアクセスでき、逆に個人の意見を全世界に発信できる歴史的にみて特異的な状態である。一部の独占的な企業による恣意的な規制は許されるのか、または正当性を真摯に受け入れられるものなのか。
今後さらに発展する情報社会での身の振り方や考え方をアップデートしながら、当事者として暮らしていこうと思わせられたのだ。
Posted by ブクログ
言論の自由は、保護されるべきだと思う。私は、どちらかというと中身の是非よりも、言論や表現に自らの意思でアクセスする場合はある程度は(年齢に応じて)何でもありで、受動的だったり遮断できない状況ならば、制限が必要という立場だ。つまり、ヘイトスピーチなんかは、通行人にも聞こえてくるからダメ。性的内容も個人で読むなら良いが、お茶の間のテレビではNGみたいな境界線。ここで微妙になるのは、インターネットのリコメンドみたいな仕組みだろうか。リコメンドでプロパガンダを垂れ流すのは、やはり無しだろう。週刊誌のゴシップや迷惑系にも制限が必要。つまり、言論は自由でありたいが、その表現手法には制限が必要だ。
と、個人でモゴモゴ上述のような事を考えるが、本書では、こうした言論の自由を巡る討論や歴史を明らかにしていく。
ー 不寛容もある程度は許容すべきと主張する人がよく論拠にするのが、オーストリアの哲学者、カール・ポパーの言う「ヴァイマルの誤認」である。そして、その理屈は受け入れやすく、直感的には正しいようにも思える。ヴァイマル共和政がもし、全体主義プロパガンダをもっと懸命に取り締まっていれば、ナチス・ドイツは生まれなかったし、ホロコーストも起きなかったのではないか、という理屈である。現代の民主主義国は同じ失敗を繰り返してはならないというわけだ。しかし、いくつかの理由から、この理屈の正しさは疑わしいと言える。まず何より重要なのは、ヒトラー本人とナチ党を沈黙させるための努力は絶えず行われたということだ。だが、その努力は、ヒトラーやナチ党への関心を高めるだけの結果になることが多かった。
ー 第二次世界大戦後、ナチのプロパガンダは絶対に禁止すべき、という強い義務感は、皮肉なことにもう一つの全体主義体制に利用されるようになる。スターリンのソビエト連邦は、ヴァイマルの誤謬を利用することで、国際的な人権法にヘイトスピーチの禁止条項を盛り込ませることに成功したのである。これは、ソ連とその支配下にあった東欧諸国で、反体制派の弾圧が合法化される助けとなった。また共産主義体制が崩壊したあとは、イスラム教徒が多数派を占める国々に、世界中の神の冒演者を罰する根拠として利用されるようになった。
言論の自由を制限するべきだった。いや、言論の制限が逆に政府からの弾圧に繋がった。どちらが正しいのか。上記箇所だけで見えるのは、工夫は必要だが、司法と行政の独立のように、言論の自由を制限すべき機能は、政治に持たせない事だ。
ー 言論の自由の歴史は極めて古い。ただ、有史以来、ほとんどの時代において、権力者に真実を語るのは賢明とは言えず、危険なことも多かった。残っている法律規範や文書から見る限り、偉大な古代文明はほぼ一貫して、支配者の権力と権威を臣民の言論から守ってきたのであり、その逆ではなかった。現在のトルコあたりに紀元前一六五〇年から前一五〇〇年頃に存在したヒッタイト帝国の法律には「もし王の裁きを拒む者がいれば、その者の家は廃墟と化すであろう」と定められている。ヘブライ語聖書には「神や王を呪った者は罰として石打ちにされる」とある。こうした法は、いわば、巨大な古代文明を秩序づけていた厳格な階級構造の反映だった。
為政者に都合の良い史書を編むならば、結局、言論には自由がなく、言論そのものが権力者のものだ。識字率も低く、印刷技術もない時代は、物理的にも言論は権力者のものだったのだ。
ー 言論の自由への最大の貢献は、偉大なジョン・スチュアート・ミルをこの世に生み出したことだろう。…一八歳の時、若きミルは「宗教的迫害について」という論文を書いた。その中では、カーライルの件を例に、神の冒涜を理由にした起訴が擁護できず、逆効果でもあることを説明している。一八二四年に複数の有罪判決が続いたあとは、扇動、神の冒資を理由とした起訴の件数は、一八二五年から一八三四年の間にわずか一六件と急減している。言論の自由の制限が厳しすぎることへの非難の声が高まったのもその一因だが、同時に、起訴が逆効果であると認識され始めたことも大きい。ライトやカーライルは裁判の場で問題の文書を読み上げ、それが宣伝にもなったし、民衆の中に彼らに同情する人たちも増えた。法務長官も後に「誹謗中傷をした者は、何よりも法廷での公判を求めている。それが貴重な宣伝の場になるからだ」と記している。
放っておくほうが目立たないし、分別のある人間しか文献は読まないし、彼らは正しく理解するはずだ、というミルの態度は、今日にも通用するやり方だと思う。
ー ドイツ首相アンゲラ・メルケルはドイツ連邦議会において、それまでにあまり例がないほどの情熱的な演説をした。「この国には表現の自由があります」。メルケルはそう断言した。「しかし、その表現の自由には限度があるのです。表現が扇動になってしまったら、表現によって憎悪が拡散されてしまったら、また表現によって他の人々の尊厳が侵されてしまったら、そこが限度ということになるでしょう」。そして彼女はこう言った。「私たちはそれに反対しなくてはなりません。さもなければ、この社会はもはやそれまでとは違った場所になってしまう」
そしてメルケル。この自由の限度も非常にわかりやすいと思った。