【感想・ネタバレ】散歩哲学 よく歩き、よく考えるのレビュー

あらすじ

人類史は歩行の歴史であり、カントや荷風ら古今東西の思想家・文学者も散歩を愛した。毎日が退屈なら、自由を謳歌したいなら、インスピレーションを得たいなら、ほっつき歩こう。新橋の角打ちから屋久島の超自然、ヴェネチアの魚市場まで歩き綴る徘徊エッセイ

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Posted by ブクログ

ネタバレ

本屋で見かけ、そのタイトルに惹かれて手に取った。前半部分はタイトルを表象するような哲学的な内容であるのに対し、後半はその実演編(?)としての位置付けなのか、著者自身が飲み歩く描写が多く、個人的には前半の方が馴染んだ(後半に出てくる店も是非行ってみたいとは思うが)
本書を通じて自身の中で顧みたことは、「自分はどれだけ自らの思考に自覚的であるか」ということ。以下にも引用した通り、何か特定のテーマについて思考を巡らせていることを人は「思考している(A)」と捉える傾向にある。思考が何らかの論理的帰結を導き出すための手段なのだとすると、所謂「思考している(A)」状態は、比較的長く細い論理を紡ぎ出しているイメージ。一方、散歩をしながら散漫に思いを巡らせている状態も「思考している(B)」のだとすると、こちらは比較的短い論理の束を蓄積しているイメージ(例:なぜ無人の古着屋が複数店舗あるのか)かなと。これらは互いに排他的ではなく、他者との対話などの刺激を契機に、Bが並び替えられたり接合点を見つけられたりして、面白いAの論理ができあがるのかなと考えて見たりした。仮に上記の考え方に一定の合理性があるのだとすると、物事を考える仕事をしている身として、Aを紡ぐためにBを日常的に行い、短い論理の束を蓄積することが肝要なのだと、一つ自身が散歩を行う合理的な?理由を導出できた。

特に印象に残った箇所は以下
「心にゆとりがないと、ヒトは気宇壮大なことは考えられないし、未来を設計したりもできない。一個の脳で考えられることには限界があり、他人の脳味噌を借りる必要がある。本日も初めて訪れる街や見知らぬ他人からインスピレーションをもらうために徘徊に出かける」(p.6)
「思索家は好んで、自らを異郷に置いてみたがるし、さまざまな他者と対話を試みるし、奇妙なもの、わけのわからないものを目の前にして驚きたがる(中略)学者もアーティストも自分のフットワークを鍛え、その落ち着きのなさ、挙動不審ぶりを誇るべきだろう」(p.8)
「読書も、テキストの森に踏み込み、コトバと出会い、刺激を受けるという意味では、散歩なのである。そして、散歩は街や山谷に埋め込まれた意味やイメージを発掘するという意味では、読書なのである」(p.9)
「人は何か特定のテーマについて考えている時に限って、自分は思考をしているという自覚をもつかもしれない。しかしその実はもっと不埒で、同時に並列的にいろんなことを考えている。とりわけ放心状態でボーッとしている時というのは、自分では何も考えていないと思っているかもしれないが、単に特定テーマで考えていないだけであって、同時にさまざまな想念が浮かんでいる状態にある。散歩をして適度にリラックスしている状況で、自分の五感に入ってくる外部的な刺激には逐一反応をしているのだ」(p.62)
「「初めに孤独ありき」だからこそ、新たな仲間との出会いが発生する」(p.72)
「歩くとは、誰かの後追いをするということである。道があるのは、誰かがかつてそこを歩き、踏み跡をつけてくれたお陰なのだ」(p.130)

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2024年08月11日

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