【感想・ネタバレ】春色梅児誉美のレビュー

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Posted by ブクログ

あなたは、”三角関係”が好きでしょうか?

いやいや、それは好きとか嫌いとかいうものではないでしょう。二人の女性が一人の男性を取り合うという場面、どこがそんなに良いのかなあ?と第三者的に見えるような男であっても、そんな男性を好きになった二人の女性には死活問題です。相手方女性の存在がチラチラと見え隠れすればするほどに必死感は強まります。まあ、そんな風に第三者的に語れるのはあくまで他人事だからです。TVドラマでも小説の世界にだってよくある光景。自分の身の上に起こっていれば、そもそもこんなところに書いている余裕などはないでしょう。

では、そんな”三角関係”は、現代社会特有の事象なのでしょうか?それとも古の時代にもあったのでしょうか?人が人を好きになるという感情はこの世に人類が誕生した直後から変わりません。さまざまに人類が進化しようともその感情に変化はありません。そう、”三角関係”とは、古の時代から当事者になれば頭を悩まし、他人事であれば一つの娯楽になる、そういうものなのだと思います。

さてここに、200年前のお江戸な時代にベストセラーとなった作品があります。現代のベストセラー作家の一人である島本理生さんが現代語訳を手掛けたこの作品。島本さんの作品以上にカジュアルな会話に溢れるこの作品。そしてそれは、『ねえ、これからはずっと心変わりしないでね』と相手のことを思う女性が一辺を形づくる、お江戸の”三角関係”な物語です。

『五、六軒ほどの借家が立ち並んでい』る『薄氷の張った田畑の裏』に『引っ越してきたばかりと思われる一軒を見つけ』、『ごめんなさーい…お邪魔、します』と呼びかけるのは米八(よねはち)。『「はい、誰?」という声に、「やっぱり若旦那さまっ!」』と『感極まって障子を引いた』米八を『びっくりしたようにぼんやりとみつめる』のは若旦那の丹次郎。『どうして、ここが分かったの。おれ、夢じゃないかと思ったよ』と驚く丹次郎は、『よくおれのことを知って、ここまで来られたな』と『うっすら涙ぐんで言』います。それに『色々噂話を聞』く中に『粋で素敵な奥様がいるとか、だけど女のほうが年上みたい…』という人物が『若旦那さまだって気がして…』とここまで来た経緯を説明する米八は、『その奥様は今日はどこへ?』と訊きます。それに『なに言ってんだ、奥様なんて。そんな噂流したのはどこの娘だよ?』と否定する丹次郎。そんな丹次郎に『どうして養子に行った家が急に破産したの?』と今の身の上になってしまった事情を訊ねる米八。『鬼兵衛と、養子先の前の番頭の松兵衛がグルだったんだ。すぐに危なくなるのを承知で、おれを急養子にしたんだよ。そんなこととは露知らず入ってみれば借金の山…』と説明する丹次郎は、結果的に『しばらく世間から隠れる羽目になった』と事情を説明します。『ひどい!…でも、そうしたら今は誰が若旦那さまのお世話をしてるの?』と訊く米八に『長屋の衆か』、二番番頭の『久八のかみさんの妹かな…時々来てくれてるよ』と返す丹次郎。そんな丹次郎に『居場所も分かったんだから、どんなことをしても、あたしができるかぎりのことをして不自由はさせない』と言う米八。
場面は変わり、『お長』、『おにい、さま。なんで、こんなところでお目に』と街中で偶然に、おにいである丹次郎と再会したのは お長。『あそこに鰻屋があるから、ひさしぶりに飯でも食おうよ』と暖簾を括った二人は近況を語り合います。そんな中で丹次郎が一人、長屋に暮らしていることを知って『誰がおにいさまの食事や色んなお世話をしてるの?』と訊く お長は、『私が行ってお世話をしてあげたいです』、『明日すぐにでも行きたい』と詰め寄ります。『明日は留守にしてる』等お茶を濁す丹次郎は話題を変えます。そんな中に苦手な白焼きの臭いが漂ってきたところで障子を開けた丹次郎ですが、『通りを見下ろした途端、表情が固ま』ります。それを見て、『障子まで駆け寄』った お長。『あれ、若旦那さまじゃん!まだ家に帰ってなかったの?』と『見覚えのある女の人がにっこりと笑』います。『…おにいさま。今のって、米八さんだよね?』と訊く お長に『米八…だったか。おれにはちょっと分かんなかったけど』と『露骨にそわそわして立ち上が』る丹次郎。
江戸の町の片隅で繰り広げられていく米八、オ長、そして丹次郎の”三角関係”な物語が描かれていきます。

“江戸を舞台に、優柔不断な美男子と芸者たちの恋愛模様を描いた為永春水『春色梅児誉美』。たくましくキップが良い女たちの連帯をいきいきとした会話文で描く、珠玉の現代語訳!”と内容紹介にうたわれるこの作品。巻末の〈解題〉で佐藤至子さんが詳述されていらっしゃる通り、”全四編からなり、初編・二編は天保三年(一八三二)に、三編・四編はその翌年に江戸の西村屋与八と大島屋伝右衛門から出版された”為永春水さんという文政・天保期を代表する戯作者による”人情本”が元になっています。そう、表紙に”島本理生訳”とある通り、この作品は江戸期に刊行された「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」という作品を島本さんが現代語訳された作品になっています。今までに800冊以上の小説ばかりを読んできた私ですが、それは1980年代以降に刊行された作品ばかりであり、唯一の例外が紫式部さん「源氏物語」を角田光代さんが訳されたもののみです。そういう意味では、私にとって二冊目となる過去の作品になります。そんな作品の舞台は、1800年代というまさしくお江戸な世の中です。”文政・天保”という言葉からは歴史の授業で習った”文政の改革”、”天保の改革”という言葉が自然と頭に浮かびますが、一方でそんな時代の人々の暮らしというものは考えたことがありません。”人情本”というのは、市井の人びとの色恋を取り上げた風俗小説というのがその位置付けのようです。そして、この作品はそんな”人情本”の代表作にも位置付けられるもののようです。

では、そんな”お江戸の人情本”である「春色梅児誉美」を島本さんがどんな風に訳されていくのかを見ていきたいと思います。”命がけの女たち”という〈あとがき〉で、島本さんがこの作品への思いを語られています。作者の為永春水さんのことを”当時、人情本を書いて大ヒットをおさめた、いわゆるベストセラー作家だった”と書く島本さん。そんな島本さんと言えば、代表作「ファーストラヴ」で直木賞を受賞され、他にも「ナラタージュ」、「Red」など数多くのヒット作を発表され続けている紛れもない現代のベストセラー作家です。そんな島本さんが200年前に同じような立場にあった為永さんの作品を現代に蘇らせるという作業にはさまざまな思いが去来したのだと思います。そして、刊行されたこの作品を読んだ私ですが、200年前の作品とは思えないカジュアルさに包まれた雰囲気感にとても驚きました。では、そんな作品に興味を抱いた点を三つ取り上げたいと思います。

まず一つ目は、”文政・天保”という時代感を感じさせる町の情景が違和感なく描かれるところです。丹次郎と米八が家の中で交わす会話を見てみましょう。

 『「あ、そういえば火がないね」あたしは気付いて、火打ち箱を探して火をおこした』。
 『薬を煎じておくから。土瓶ってどこ?』
 『火鉢の脇だよ。生姜も盆の上にまだあるし』

『火打ち箱』を使って火を起こす必要があり、薬は土瓶で煎じる必要がある…ということがわかります。もし、”タイムスリップ”ができたとしても私たちはこのお江戸の世界では日常生活さえままならないだろうことがよく分かります。

 『ところで、食べる物はある?』
 『おれの飯は、昨夜向かいのおばさんが炊いてくれたからいいよ。米八こそ腹減ったんじゃないの…』
 『あたしはお昼まで若旦那さまの無事を祈って塩断ちしてるから、どうせなにも食べられないけど…』

願をかけるということは今の世の中でもあるとは思いますが、日常生活の中で『無事を祈って』、『塩断ちしてる』という会話が違和感なく登場するところなど、やはり時代が違うことを感じさせます。もう一点、『鰻屋』の一コマを見てみましょう。『いらっしゃいませ。お二階へどうぞ』と『鰻屋の暖簾をくぐる』丹次郎と お長という場面です。ここまでは違和感ありませんが…

 『鰻のほうですけど、いかほど』
 『じゃあ、中くらいのを三皿焼いて』

 『もう一皿大きいのを焼いて』

当時、鰻を店で食べる時にはこんな風に注文するんだ、とこれも驚きです。同じ食べ物でも食し方というものは時代によって変遷していくのだと改めて思いました。それは、この作品が”市井の人びと”を取り上げた作品だからこそなのだとも思います。また、ここで取り上げた会話を見ていただくと分かりますが、内容は別として会話自体は現代小説と何も変わらないことにも気づきます。

次に二つ目として訳というに触れたいと思います。この作品は、「源氏物語」に比べると随分と現代に近い時代の作品ではあります。とは言え、原文をそのまま読むことにはハードルが間違いなくあります。原文との比較で見てみましょう。丹次郎の住む長屋へと突然訊ねてきた米八という場面です。

 “米八じやアねへか。どふして来た。そして隠れて居る此所ここが知れるといふもふしぎなこと。マアマアこちらへ夢じやアねへか”

 “わちきやア最もふ、知れめへかと思つて胸がどきどきして、そしてもふ急ひで歩行たもんだからア、苦しい”

「源氏物語」の原文よりは間違いなくハードルが
低いのがパッと見で分かりますが、それでもこの原文で最後まで読み切る自信はとてもありません。これを島本さんはどのように訳されたのでしょうか?でも、その前に、他の作家さんの訳で見てみましょう。歴史小説家の磐城まんぢうさんによる現代語訳です。

 “お米じゃァねぇかい!どうして来た?オレはここに隠れていたのにまさか知られるたァ思わなかった。まぁまぁこっちへ来なよ、こいつは夢じゃァねえか…?”

 “わちきゃァもう知れめぇかと思って胸をドキドキさせて、そりゃもう急いで歩いたもんだから、あァ、苦しい ー”

活き活きとしたお江戸感に溢れた訳だと思います。難しい言葉が読みやすくなり、いかにも歴史小説!の雰囲気感をとても感じさせる訳で、こちらはこちらでとても面白そうです。一方で、島本さんの訳だと同じ会話がこうなります。

 『米八か。どうして、ここが分かったの。おれ、夢じゃないかと思ったよ』

 『あたしはもう会えないかと思っちゃって、急いで駆けつけたものだから、苦しい』

いかがでしょうか?”ザ☆マジック!”というくらいに200年前の人びとにとってのベストセラーな文章が現代の我々にとってのベストセラーな文章に完全に置き換わっています。磐城さんの訳ではお江戸感漂う印象が、島本さんの訳では、もう現代小説としか思えない位に別物になっているのがよくわかります。もちろん、これは好みの問題であってどちらに優劣があるわけではありません。いずれにしても、この作品では、島本さんの吹っ切れたかのような現代語訳によって、言葉が難しくて行き詰まるということはまずないと思います。それどころか、どう考えても現代小説な会話を読む中に、これがお江戸を舞台にした物語であること自体忘れてしまいそうです。さらには、こんな表現まで登場します。

 ・『さんきゅ。まだいてくれるなら、やって』

 ・『うん、またね』

 ・『拝むのは俺たちだっつうの』

島本さんの小説にも登場しなさそうなあまりにカジュアルな会話に驚きますが、この作品の雰囲気感を上手く伝えようとされる島本さんの腐心をそこかしこに感じさせもします。

そして、三つ目はこんな一文がいきなり登場するところです。

 『わたし、此糸と申します。この唐琴屋の花魁です。そんな感じがしない?たしかに外部の者や家の中の者、茶屋、船宿やお針女にも言われます』。

この一文は会話ではありません。登場人物の一人である此糸がこんな風に読者に語りかけるかのように登場するのです。また、この作品では、『あたし』と自らを語る米八、『私』と自らを語る お長、そして『おれ』と自らを語る丹次郎というように複数の人物に視点を切り替えながら物語は展開していきます。とは言え、だから?という気がします。このように複数の人物に視点を切り替えながら展開する物語など珍しくもありません。しかし、〈あとがき〉で島本さんはそのことについて強烈な仕掛けを説明されます。

 “本作は元々、各登場人物の一人称小説ではなかった。原文では、米八も、お長も、丹次郎も、好々爺のごとき作者の目線から語られている”。

 (・д・)ぇ?

 “今だからこそ当時の女たちの立場や心境をより近い距離から読者に感じてもらいたいと考えて、訳すときにそれぞれの登場人物の一人称に書き換えた”。

 (;゚д゚)エエーッ!!!

な、なんと、現代語に訳すだけではなく、一人称小説に書き換える!という荒技がこの作品には施されているのです。これにはビックリです。せっかくですので比較してみましょう。まずは、作者の目線から語られる磐城まんぢうさんの訳です。

 “だいたい丹次郎がその家から養子に出された時から、「住み替えに出たい」と願ってはいたが、そのたび鬼兵衛は「ぜったい出すめぇ!」と意固地になってけっして許さなかった。そんな話を涙をボロボロ膝にこぼしながら、やがて米八は辺りを見まわし、すがるような目付きで、「今日まで我慢してたけれど、おまはんの家も知れたし…」と小声で言い、続けて…”

次に米八の一人称となる島本さんの訳です。

 『「あたしだって、若旦那さまが養子に出たときから住み替えたいと思ってたけど、鬼兵衛さんって底意地悪いじゃない?よけいに、米八は外に出さない、なんて言っちゃって。今日までなんとか我慢してきたけれど、あなたの居所も知れたし、それに」とあたしは室内を見回してから、膝に涙を落とした』。

ずいぶんと印象が異なるのがよくわかります。米八の様子を描写した上で、米八の語りが登場する磐城さんの訳に対して、島本さんの訳では、米八の語りが先に入ります。

 “現代語訳を通り越して、改変と呼ぶほうがふさわしいかもしれない”。

そんな風にもおっしゃる島本さん。原文を何よりも重視される方には許されざる行為なのかもしれませんが、人称の書き換えなんて、誰にでもできることではないですし、島本さんにも要求されていなかったことです。しかし、上記したような理由によって、遥かに手間になることまでしてこの作品に向き合われた島本さん。この作品に対する愛着と並々ならぬ決意を感じさせます。この作品の魅力はこんなところから醸し出されている…改めてその秘密が解き明かされたように思いました。

そんなこの作品は、”人情本”らしく、三人の人物による三角関係が一つの読みどころとなっています。そんな三人は以下の関係性にあります。

 ・丹次郎(若旦那): 吉原にある『大町小見世の唐琴屋』の養子

 ・米八: 『婦多川(深川)の芸者』であり、丹次郎の恋人

 ・お長(お蝶): 『唐琴屋』の娘、『丹次郎の許嫁』

“三角関係”を描いた現代小説は、これまた数多ありますが、200年前のお江戸にあってもそんな関係性は当然にあり、またそれを読み物として楽しみたいという人びとに需要があったこともよく分かります。上記した通り物語では作品冒頭で丹次郎の隠れ家を見つけ出し再会を果たし自らがそんな丹次郎の面倒をみたいと申し出る米八の姿が描かれ、お長と鰻屋で食事をする場面では、ふとあけた障子の向こうに米八の姿を見かけ動揺する丹次郎の姿が描かれていきます。そして、そんな二人の関係性を知った お長は、

 『米八さんなんて私の家の使用人だったのに、今ではおにいさまのお金の世話をしているというだけで、あんなにわがまま放題で』。

 『おにいさまだって、仕送りをもらっている身では米八さんを捨てるなんてきっとできない』。

そんな風に悩む お長の姿が描かれていきます。男な私としては、二人の女性から慕われる丹次郎という男のどこが良いのかさっぱり分かりませんが、ハッキリと描かれはしない部分に当時の男としての魅力というものがあるのかもしれません。そして、そんな丹次郎は単に”三角関係”にとどまらず仇吉という芸者とも関係を持つなど、これぞ『色男』な側面を強く見せてもいきます。そういう意味でも、兎にも角にも物語は、江戸の世に生きる者たちの生き方がベースになっているのだと思います。そこには、私たちが生きる現代とはさまざまな点が異なる江戸という時代の風俗が、価値観の違いが、そして考え方の違いが興味深く描かれてもいきます。そして、そんな物語は、最後の最後にこの作品が現代小説ではないことを突如として晒します。結末を読者に委ねるという現代小説によくあるパターンでもなく、ドラマティックに三人の関係が結実するわけでもない、現代の小説ではとてもありえないそのバタバタと閉じるように迎えるその結末。江戸の世を生きた人たちの中でベストセラーとして捉えられたこの作品。その結末に当時の人びとが嗜好する物語のあり方をよく見せてくた物語がここにありました。

 『恋をしてる人間なんて同じようにばかで、ばかなことをして、初めて自分にも他人にも心があることに気付くのだ』。

米八の丹次郎への思い、一方でそんな米八の存在を気に病む お長の思いが”三角関係”として描かれていくお江戸のベストセラー”人情本”の現代語訳であるこの作品。そこには、現代のベストセラー作家である島本さんだからこそ描くことのできた現代の「春色梅児誉美」の姿がありました。カジュアル訳に徹した島本さんの読みやすい筆致に驚くこの作品。そんな物語に浮かび上がる200年前の恋模様に人の心の有り様が何も変わらないことにも気付くこの作品。

200年前のお江戸の人びとの気持ちに少しだけ近づいたような読後感、とてもよくできた作品だと思いました。

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2024年04月17日

Posted by ブクログ

為永春水原作の現代語訳。かなり自由に訳され、一人称で気持ちも表現しやすくなって、会話も多くして読みやすくもなっている(らしい、原作は読んでないのでわからない)。最後のご都合主義で何もかもうまく収まるのには驚いたが、木場の藤さんに免じて良しとしよう。

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2024年05月19日

Posted by ブクログ

現代語訳されているからさらさらと読めたけど、原文のままだったら読めなかっただろうな。
私が好きだったのは花魁・此糸。この本には吉原のこととか詳しくは書かれていないけれど詳しく調べてみたいなと思いました。
それにしても丹次郎はなぜモテるのか。私は読みながらこんな男性は嫌だわーと思ってました。口先ばかりで本当の気持ちはどこにあるのやら。

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2024年04月08日

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