あらすじ
なぜ2000年代後半から「上から目線」という重苦しい言葉が、社会のあらゆる場面で使われるようになったのか? その背景を目線の始まり、社会の変化、日本語の構造にまで踏み込んで解明。「コミュニケーションが困難な時代」には対立の尖鋭化が目線となって表れる。さらに、「コミュニケーションが困難な時代」の新しいコミュニケーションスタイルを提案する。「上から目線」の時代を真正面から取り上げた快著誕生!
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Posted by ブクログ
日本語の特性として元々ある非対称性、
話し手と聞き手、ボケツッコミのような関係性は完全に対等な関係では成立しない
人間は本来、対等であるべきなのだが日本語の会話は台頭ではうまく行かない。それは主導権の取り合いになって何も生まれない(平行線・論点のすり替えなど)
まずはお互いが対等であると心の中で自覚した上で自ら一歩引いて相手の話を引き出す。そこから生まれる生産的な議論をしていくべき。
なるほど面白い…思っていたより読み応えのある本
少し古い本なので、もっと早めに出会いたかった…というか積読しておくのをやめとけばよかった。。
Posted by ブクログ
共通の空気の無い、困難な感覚。
世界観のぶつかり合い。
上下を設定しないと、会話が成り立たない日本語。
それぞれがなるほどと思わせるのだが、何故か全体を通して膝を叩く感じがしない。
ちょっとしっくりしない。
Posted by ブクログ
近年は「こころの時代」ともいわれるほど、「生きにくい」社会だと思う。高度経済成長からグローバル化社会に突入し、日本経済自体も成長路線から停滞路線へ、個々の価値観も多様化している。本著ではこの価値観の多様化が、会話のテンプレートを崩壊させ、コミュニケーション不全が安易に「キレる」というコンクリフトを起こしている。こうした状況が本著でいう「上から目線」を作っている。
この「上から目線」化は日本語がもつ「上下構造」から生み出されるというのも驚きだった。関係性が言語からもつ特質というのは新たな発見ではあるが、同時にこうした新たな知見を例えば国語教育の中に位置付けるなどの社会教育的なところにつねげるべきだろう。個人的には会話だけでなく、メールやSNSなどのIT化の促進によって、言語の向こう側にある情報リテラシーやコミュニケーションの取り方、背景にある歴史・文化・思想・宗教などの幅広い知識をもつことが今後の社会では重要になってくると考える。コミュニケーションというもののもつ必然性、特殊性を改めて考えさせられた。
Posted by ブクログ
同僚の発言が上から目線だと感じるけど、では何をどうすればそうじゃなくなるのか分からなかったので、ヒントになればと。
彼は決して気持ちまで上からなのではないのは分かるんだけど、言葉の選び方が悪いのかなと思った。
だ、である調には助詞が必要だという部分は、なるほど!と腑に落ちた。
Posted by ブクログ
上から目線について知りたくて読書。
相手が上から目線だと感じる現状はよく体験する。
どうして上からだと感じるのだろうか。
自分の立場や言動を守るための心理的な表れの1つだと思う。弱い自分を悟らせないための虚勢なのかもしれない。
相手を国籍や年齢、地位、経験などで見下すことで自分を守っている。そんな風潮が強まっているのだろうか。
2003年からの大連出張で同僚の日本人トレーナーを観察しながらそんなことを考えたことを思い出す内容。
読書時間:約1時間10分
Posted by ブクログ
日本社会を取りまく「困難」の空気。そして日本語に潜在的に潜む「上下」の関係。私自身が普段の人との関係の中で近頃感じていたことがこの本には書かれていました。
なるほどーという感じであっという間に読み終わりました。
Posted by ブクログ
上から目線の現代
「上からだな」。
そんなことを言われたことが何度かある。
私自身は誠実に対応していたつもりだったが、受け取った側にとってはそうではなかったようだ。
こらえつつも、そういうあんたの方が「上から」じゃないか、そう感じたものだ。
そんなやり取りの中、一体「私」と「あなた」の間には何が起きているのだろうか。
著者はその理由を、会話のテンプレートの消滅にあるとしている。
今まではとりあえずの無難な会話で、良くも悪くも「流す」事をしていた。
それが価値観の応酬になってしまい、真っ正面からぶつかり合うようになってしまったというわけだ。
なるほど、確かにそれはあるだろう。
どうやって会話を進めたらいいかわからない、でも相手の言っていることは自分とは相容れない、相手が主張するのだから自分だって主張していいはずだ.....
それが互いに譲り合うことをしないものだから、双方何とも腹立たしい気分になる、というわけだ。
事はテンプレートの有無だけの単純な問題ではないだろうが、価値観を認め合う文化が創られる前に、多様な価値観だけが増大してしまったということだろうか。
著者が示す、何もかも対等であればいいというわけではない、この指摘は真っ当なものだ。
タテマエとしては、皆が平等で、誰も見下してはならないしその権利もない、ということになるのだろうが、それをやればやるほど人間関係がぎすぎすしたものになっていく。
私が私が!このやり過ぎはかえって不平等を生み出すのではないか?
「上から目線」に着目した点は斬新だ。
例示も多く読みやすい。
しかし、何もかも上から目線がもたらしたといってしまうのは、いささか乱暴な気がする。
多少同意できない点はあるものの、現代の人間関係を考察するものとしては面白い。
Posted by ブクログ
社会学の中のコミュニケーション論という位置づけになるでしょうか。
僕たちの会話の中から生まれる、「上から目線」や「見下された」という感覚。
それらが感情的な紛糾を生むことを解き明かすような本です。
最終章では、では、どうやってその「上から目線」による
コミュニケーションのうまくいかなさを解消するかという処方箋が出されています。
「上から目線」と言われれば、尊大な態度でものを言う人を思い浮かべるのではないかと
思うのですが、もっとデリケートなところでも無意識的に上から目線を感じたりするようです。
たとえば、本書で書かれているところでは、平和主義を唱える人が、その正しさを信じるがゆえに
平和を強く訴えると、それを聴く人の中には平和主義者のその強い口調を上から目線だととらえて嫌悪し、
平和主義自体も嫌悪するといった具合のプロセスがあるそうです。
また、他の例では、野良ネコに餌をやるタイプの人たちと、野良ネコを駆除しようとする人たちの間でも、
お互いに上から目線を感じ合うがために、対立を深めていく構図が説明されています。
「上から目線」を軸にさまざまなディスコミュニケーション事象を見ていくと、
実にいろいろなケースが該当するんですよねぇ。もう日常茶飯事です。
趣味の世界でもなんでも、「上から目線」、具体的には
「(年季の入った私は)あなたとは違うんです」という目線が、関係に不協和音をうむ。
そして、コミュニケーションにおいては価値観論争というものが危険とされてました。
その危険とは相手から嫌悪される「上から目線」を感じさせる
断言口調を連発せずにはいられなくなる点にあるそうです。
そうですよねぇ、自分の価値観が正しいですから、さらに、
いきなり自分が善であり相手が悪でありという立場にしてしまいますし。
曲のソロのところになるとステージの中央に飛び出してくるギタリストのように、
みんながなってきたのかもしれないですね。自己を尊重するのはいいことだけれど、
自己を高みにのっけるくらいまで重くとらえるのはどうかと思うところです。
「誰にも汚されないわたし」なんてありえないからです。
きっと、経済的に豊かになって、IT革命が起きて、個性の尊重と育成が行われて、
個人の主人公感っていうものが強くなったためにこういう社会の流れになったんだと
僕は思います。
本書で取り上げられた「上から目線」と、以前このブログで紹介した
槙田雄司さんの『一億総ツッコミ時代』で取り上げられた「ツッコミ過剰」を
併せて考えてみると、今の多くの日本人の心性というものがみえてくるような気がします。
はーっ、面倒くさいもんですね、人との関係性のあり方と言うものは。
そうはいっても、それはそれ、もっと良くなるための過渡期の事象だと
とらえたいですね。
Posted by ブクログ
「上から目線」に対応するコミュニケーションの方法として,[1]価値観論争をやめる,[2]個人の立場から語る,[3]利害の結節点に立つ,[4]聞き流しの術を身につける を提案している.どれも正鵠を射ている.
Posted by ブクログ
上から目線とは「現場、実態も分からないのに勝手なことを言う指導者」「分からない人に対して、偉そうにもの言う態度」に対する批判めいた言葉である。日本全体の空気が、この批判を恐れていると著者は言う。
政治の世界で、現与党の民主党を見てみると「小沢的 ビール箱演説の演出」 「鳩山的 ”国民の皆様方の・・・・・させて頂きます”口調」 確かに、視線を徹底的に下に下に落として批判を受けないようガードをしている。
しかし、そろそろその空気も終わるだろう。実行力の無いだけで、下から目線をしておけば間違いないだろう的な姿勢はスキャンダルこそ逃れるものの人気は上がらない。橋下市長に人気が集まるのように、実行力のある指導者であれば上から目線でも構わないという空気に変わりつつある。
日常生活では、「正社員- 非正社員」 、「一部上場ー非上場」、「出身大学の序列」 のような上下関係を匂わせるような発言はタブーとされると著者いう。 これは世の中の風潮以前の問題な気もするが、著者のいうことでもっともなのは、人との関係を会社名や役職、出身校等で判断する部分する下らなさをつぶやいていても非生産的であるという点。
人間の関係に上下関係ができるのは当たり前なのだから、まずは「すべての人が対等である」という精神的な意味での前提に立つ、その上で局面局面で必要な上下関係は生産的な行動を生む為にも必要である。 理解ある上司や、分かったふりの上っつらの人間関係では何も生み出さない。