あらすじ
フレーゲからラッセル,そしてウィトゲンシュタインへ――二十世紀初頭,言葉についての問いと答えが重なりあい,つながりあっていった.天才たちの挑戦は言語哲学の源流を形作っていく.その問いを引き受け,著者も根本に向かって一歩一歩考え続ける.読めばきっとあなたも一緒に考えたくなる.とびきり楽しい言葉の哲学.※この電子書籍は「固定レイアウト型」で作成されており,タブレットなど大きなディスプレイを備えた端末で読むことに適しています.また,文字だけを拡大すること,文字列のハイライト,検索,辞書の参照,引用などの機能は使用できません.
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Posted by ブクログ
思考が言語に意味を与えるのか、言語が思考に意味を与えるのか。
なぜ、わたしたちは「この机はペン立てる」を理解できないけれど、「富士山に小惑星が衝突した」は理解できるのか。
ウィトゲンシュタインの「言語が思考に意味を与える」という提唱を、「思考が言語に意味を与える」としたフレーゲやラッセルの考えと比較して、わかりやすく提示してくれている。
この哲学的に言語を思考するという本書を読みながら、わたしが考えていたこと。
それは、言語というのは、わたしたちの脳にあらかじめインストールされている機能であり、その神秘性についてだ。
文字は後天的に身につけたものなので、文字を持たない民族もいるけれど、言語をもたない民族は発見されていない。
であれば、脳領域で密接にかかわり合っている以上、言語が思考に意味を与えるのだとする説も、突拍子もない説とはいえないと感じる。
実際、心理学では、バイリンガルの子どもたちに対する敷居説という説があり、母国語も第二言語も不十分な子どもは、認知発達にもマイナスの影響を与えることが知られている。
つまり、言語発達が認知発達に影響を与えているということになる。
ウィトゲンシュタインが「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」としてこの発展を閉じてしまったのはもったいないけれど、今後、科学の分野から解明されていくのかもしれない。
Posted by ブクログ
かなりわかりやすく、言語哲学の概要をさらっと噛み砕いて、なぞってくれる本だった。ラッセル、ヴィトゲンシュタイン、フレーゲの言語哲学がおおよそどんなものか、なんとなくわかった。
Posted by ブクログ
今年読んだ中で一番面白い本かもしれない。そんなこと考えて何か良いことあるの?てな感じの重箱の隅をつつきまくる議論なのだが、素人目線に立った解りやすい解説でどんどんページが進む。ジョンロックの一般観念論の行き詰まり、フレーゲの文脈原理と合成原理によるその打開、指示と意義による言葉の定義、ラッセルによる意義の否定と確定記述の概念導入。ここまでくると何が正解なのかわからなくなる。そして極めつけはウィトゲンシュタインの『論考』。なぜそうなのか?に答えることを放棄し、実世界のありようをそのまま認めるというコペルニクス的転回で、それまでのモヤモヤがすっきり腹落ちするというオチ。『論考』の議論から何故外国語の理解が難しいのかわかった気がする。要はそれぞれの単語の論理形式、つまりその語がどんな文に結合しうるかの可能性を理解していないから、文の分節化ができないという訳だ。哲学も役に立つではないか!
Posted by ブクログ
異なる哲学者をひとまとめに調理する辺りがお見事。ウィトゲンシュタインの専門家であるだけに、彼を優位に持ち上げている感は否めないが、フレーゲ、ラッセルについても、丁寧に書いている。また、野矢さんは初心者のように考察する傾向が強いので、なるほど、とか、そういうことだったのか、とか改めて気付かされるところも多かった。飯田隆さんの『言語哲学大全Ⅰ』は既読だったので、新鮮味は少なかったかもしれないが、その差分があっても星5つやっていいと思った。
Posted by ブクログ
フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインという3人の天才哲学者の考えを、わかりやすい例えを使って記されている。
とにかく面白い。
著者と一緒に3人の哲学者の考えを、体感できたような気になる。きっと隅々までわかったわけではないと思う。
でも哲学が言葉を使ってなされる時に、どうしてもぶつかる様々な事柄を乗り越えていくことを、まるで自分自信でしている錯覚に陥るような気にさせられる。
最後のウィトゲンシュタインの言葉、
「言葉はただ生の流れの中でのみ意味をもつ。」
は、読後の興奮した心に染み入るようだった。
Posted by ブクログ
いわばウィトゲンシュタインのファンブック。
著者はフレーゲやラッセルは批判するのにウィトゲンシュタインは批判しない。
しかし、読者を言語哲学へ誘う役割は十分に果たしていると思う。読んでいてもどかしさが半端ないからだ。巻末には読書案内があるので参考になる。
Posted by ブクログ
著者は言語哲学の入門として書いておらず、面白かった話を他者にもしたくて書いた、としています。そういう意味で成功していると思う。
私はウィトゲンシュタインの論考と探求の違いに興味があったのでとても良かった。あと、全体論的言語観に興味を持った。言語習得論とのからみも面白そう。
Posted by ブクログ
対話風に書かれてあるので、考えながら、疑問を浮かべながら読むことができた。でも、議論の内容は、そこまで考えるのか…、と哲学者の頭の中を思い浮かべてしまった。
Posted by ブクログ
フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン。入門の入門、という位置付け(なんだと思う)。やっぱり哲学なので、言葉が繊細で長め。悪くも良くもくどい。それでもかなり平易に書いているのでしょうが、ついていくのに根気がいる。哲学系は、見方とか考え方とか、役に立つだろうなと思い時々読んでみるものの、ちょっと馴染みきれないというか、もっと簡潔に、と思っちゃうんですよね。
Posted by ブクログ
「ミケは猫だ」といった単純な文から「意味とは何か?」「文をいかにして生み出すのか?」といった深遠な問題に言語哲学を開拓した3人の先達の理論を参考に解明する
『論考』の冒頭の意味を「語から考えるのではなく文から考える」と解釈したのは面白かった
言語哲学(ひいては分析哲学)の基礎として、他の本を読んで勉強している時に困ったらここに帰ってくるのもいいと思う
少々スピーディなところがあると言えなくもないが、全体をさらうという意味では良いのかなと
Posted by ブクログ
ゴットロープ・フレーゲ/バートランド・ラッセル/ウィトゲンシュタインの3名から言語哲学の始まりを簡単に振り返る。
著者はウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の翻訳書を出してる。
序盤は著者の感想と自分の感想が異なっていて興味を持てなかったが中盤「言語は関数(真偽判定)と出たあたりで面白くなってきた。
言語が日常使用されているその使い方や基盤を重視し研究する立場に進んでいくようだ。
哲学は言葉(論理)の問題だ、としてウィトゲンシュタインの立場は<分析哲学>というらしい。
Posted by ブクログ
フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインまでの言語哲学の展開と転回を概観できる本。表現はカジュアルで易しいが、扱っている内容は言語哲学らしく簡単ではない。展開が特に盛り上がるところがなく、ウィトゲンシュタインの話が盛り上がってきたところであっさり終わってしまった印象。
Posted by ブクログ
本来は難解な問題が気楽に面白く読めるのは、とても良いと思う。
ただ個人的には、最初に批判されている一般観念説が何故ダメなのか、いまいち分からなかった気がする。太郎君とお父さんの会話のような事態はどの説でも起こり得て、会話を重ねることで差は埋まっていくけど完全一致したかどうかは分かりようがないのでは..? 文の意味よりも先に語の意味(心の中の一般観念)は決まらない、というのは分かる。でも語が心の中の一般観念を指すということ自体をなぜ否定できるのかは分からない。否定というより不要なんだろうけど、そうなのかな..? 言葉が心の外の対象を指せることの方が不思議で、説明が必要のようにも思える。
Posted by ブクログ
『言語学の教室』が面白かったので、わくわくしながら本を手に取りました。
言語哲学に興味はあるものの、分厚くていかにも難しそうな入門書と戦う勇気はない……でも気になる!という私の好奇心を満たしてくれる1冊でした。
難しいところもありましたが、野矢先生の優しい語り口調のおかげで、ついていきやすかったです。
あとがきで、おすすめの本を挙げてくださっているのもありがたいです。読んでいこうと思います!
Posted by ブクログ
「はじまる」とのタイトル通り、最後の部分はなんとなく尻切れトンボのような終わり方である。続きは他の文献でというところか。優しく丁寧な語り口で、理解しやそうではあるが、やはり内容が内容だけに難解な部分も多い。勉強になりました。
Posted by ブクログ
「論考」について知ることができ、よかった。だいぶ前に訳書?を呼んだが、??理解できたとは全く言えなかった。
「探究」の説明も少しあった。語り得ぬものについての沈黙も少なくできると。
Posted by ブクログ
やさしい語り口ですごく難しい話をしてくれる。「うんうん、そうだな」なんて思いながら読んでいても、読み終えて何が書かれていたかあまり思い出せない
Posted by ブクログ
言語哲学の基礎を築いたフレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインの思想をわかりやすく紹介する一冊。これらの哲学者たちの複雑な論理展開を一般読者にも楽しめるように工夫された内容。言葉の意味やその生成過程について。特に、言葉がどのようにして新たな意味を無限に生み出すのかという問題に焦点を当てる。
例えば、フレーゲのいう「認識価値」の違い。
― 「伊藤博文と伊藤博文は同一人物だ」にはなんの情報量もありません。伊藤博文のことを何も知らない人でも「伊藤博文と伊藤博文は同一人物だ」と言えます。それに対して「初代内閣総理大臣と伊藤博文は同一人物だ」には情報量があります。このことを初めて知った人は知識が増えたと言えるでしょう。このように私たちの知識を増やしてくれることをフレーゲは「認識価値」という言葉で表現します。「初代内閣総理大臣と伊藤博文は同一人物だ」には認識価値があるけれども、「伊藤博文と伊藤博文は同一人物だ」には認識価値はない。その違いを捉えるには、固有名の意味を指示対象だけで考えていたらだめだ。固有名にも意義という内包的意味の側面がある。そうフレーゲは議論するのです。
同質の指示語、固有名詞を、違う属性で置換して表現する。コリー犬は犬だ。
あの大きな動物は犬だ。あの毛玉の塊は、犬だ。「犬」という語句から我々の認識が遠ざかるほど、情報価値がある、という考えだ。一方で、「遠い昔、アメリカで事件があった」というより、「一時間前、私の住む地域で事件があった」という方が、情報価値が高い。肉体としての自分自身の射程に近い情報の価値が高く、更に、その意外性が高いほど、価値が上がると言える。
― ある主体がそう判断することによって構成され、その命題を指示することによって「ミケは猫だ」という文は意味をもつ。信念や判断という心の働きから出発して、命題の構成を経て、それが言葉に意味を与える。この順番ですから、いわば思考が言語に生命を吹き込んでいるわけです。確かに、声に出す言葉はそれ自体では音の連なりにすぎませんし、書きつける言葉はただの文字模様であり、手話はただの身体運動です。そうした音列や模様や身振りに言語としての意味を与えるのが思考なのだという考えは、むしろ常識的とも言えるでしょう。
― しかし、「論考」はこれをひっくり返します。つまり、言語が思考を成立させるのであって、言語以前の思考という考えには意味がない、と。
言語以前の思考には意味がないというのは、どうなのか。言語が思考を成立させるとしても、「三辺で囲まれた四角形」とか「午後の早朝」とか、矛盾した言葉であれば、それは思考とは言えないという。本当にそうだろうか。矛盾にも思考はある。そもそも、三辺に囲まれた内部に四角形が作図される状態はあり得るだろうし、午後の早朝という言葉も、東京とロンドンでの遠距離電話では成立する言葉だ。思考が自在である事と、言葉が自在であることは同義である。言葉はデフォルメ化した記号の組み合わせであり、絵文字もピクトグラムも記号であり言葉である。ゆえに、正しくは、記号が思考を可能にするのではなく、思考が記号を生んでいるのだ。感情表現を絵文字に置き換え、それが言語化されていく。言葉や文字が生まれる前に思考があった事、ヘレンケラーのような存在を考えれば、このことは自明かもしれない。
Posted by ブクログ
「ミケは猫だ」という言葉の意味は何か、といったところからスタートして、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインという3人の哲学者の思考をたどりつつ、言語哲学の根幹に関わる考え方に迫る。
本書は、著者いわく、言語哲学の入門書ではなく、言語哲学の「門前の小僧」と自称する著者が、自分が面白かった話を他に人に話したい、という動機で書かれた本だという。著者のノリツッコミで本書は進んでいき、著者が言語哲学の議論をすごく面白がっていることはとてもよく伝わってきた。
しかし、読んだ自分も面白く感じたかというと別問題で、何かずっと言葉遊びに言葉遊びを重ねている感じで、正直あまり面白さを感じられなかった。個人的には、最初のほうで否定された「一般観念説」が一番しっくりくるので、それを改良することでなんとかならないのだろうかと思う。
Posted by ブクログ
内容自体が難解なんだろうけど、もう少しわかりやすく説明できたのではないか…と思います。
読者に語りかけながら説明する口語文体なのは読むハードルを下げてるのだろうけど、それを意識にしすぎて全体的に余計な言葉が多いというか…。説明を丁寧にしようとしすぎてかえってまどろっこしいと感じてしまいました。
必ずしも言葉を足すことが丁寧な説明になるとは限らなくて、むしろ短く端的に説明する方が理解しやすい場合もあるということを示す良い例ですね。
書かれていること自体は面白かったです。