あらすじ
「為政者に都合の悪い政治や社会の歪みをスポーツを利用して覆い隠す行為」として、2020東京オリンピックの頃から日本でも注目され始めたスポーツウォッシング。
スポーツはなぜ“悪事の洗濯”に利用されるのか。
その歴史やメカニズムをひもとき、識者への取材を通して考察したところ、スポーツに対する我々の認識が類型的で旧態依然としていることが原因の一端だと見えてきた。
洪水のように連日報じられるスポーツニュース。
我々は知らないうちに“洗濯”の渦の中に巻き込まれている!
「なぜスポーツに政治を持ち込むなと言われるのか」「なぜ日本のアスリートは声をあげないのか」「ナショナリズムとヘテロセクシャルを基本とした現代スポーツの旧さ」「スポーツと国家の関係」「スポーツと人権・差別・ジェンダー・平和の望ましいあり方」などを考える、日本初「スポーツウォッシング」をタイトルに冠した一冊。
第一部 スポーツウォッシングとは何か
身近に潜むスポーツウォッシング
スポーツウォッシングの歴史
スポーツウォッシングのメカニズム
第二部 スポーツウォッシングについて考える
「社会にとってスポーツとは何か」を問い直す必要がある ――平尾剛
「国家によるスポーツの目的外使用」オリンピックのあり方を考える ――二宮清純
テレビがスポーツウォッシングを報道しない理由 ――本間龍
植民地主義的オリンピックは<オワコン>である ――山本敦久
スポーツをとりまく旧い考えを変えるべきとき ――山口香
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
「スポーツウォッシング」とは、日本ではまだ耳慣れない言葉ですが、欧州などでは盛んに言われているそうです。
要は、スポーツの感動によってその裏に隠されている本当の問題点が、文字通り洗い流されて見えなくなってしまうことです。
分かりやすい例では2021年の東京オリンピックは、始まる前も終わった後もあれほど問題があったにもかかわらず、全く総括されることなく「成功したね」で終わっています。
メダルの獲得数の観点からは、確かに日本のスポーツ育成の方向性は成功と言えるかもしれません。
しかし費用一つとっても、当初の目論見からは全くズレてしまったのは、皆記憶していると思います。
もちろんアスリートである選手達に罪はありません。それを利用しようとしている周囲の大人が悪いのです。
しかし黙っているままでいいのでしょうか。
欧米ではイチプレーヤーであっても発言する人はいます。特に人権問題に関しては大坂なおみさんの黒いマスクなど、誰もが知っていると思います。
一方、日本ではそれさえも許さない空気があることも事実です。
なぜでしょうか。
政治はともかくとして、人権問題については「島国だからね」では済まないのがグルーバル社会の現代です。
空気に流されないように、自ら発信して欲しいと願うようになる一冊です。
Posted by ブクログ
スポーツウォッシングという「感動の演出」と、その政治利用について、専門家5人の意見を聞きながら、まとめている本。スポーツウォッシングという観点そのものがない人にとっては、歴史的経緯に関する説明もあり、その存在に対して示唆的なものを与える本になっている。スポーツウォッシングについて興味がある人にとっては、類書もあまりないので読む価値がある本だろう。
Posted by ブクログ
スポーツウォッシング、スポーツの感動を利用して政治とか不都合な事実をかき消すどころか、悪い部分をよい印象に書き換えてしまうこと。
利用されるのは悔しいが、スポーツをしない、感動を与えないという選択肢も違うと思う。
印象に残ったのは以下2点。
スポーツとは、国、育ちとか関係なく人に平等に与えられた権利、条件のスタートから競いあうもの、という大前提に立てば、アスリート達が政治に物言うことはできなくても人権について伝えたり差別、ダイバーシティとか訴えることはできること。
また、スポーツが政治利用される背景に、スポーツはやる側、見る側、運営する側とか、役割が固定しがちだが、流動的に変わることで、課題に気づきやすくなるとのこと。
今、自分はマラソンをやってるんで、その中で社会に何か伝えられるかとか、逆に大会を支える側とかになりながらいいスポーツウォッシングにしていきたい!
Posted by ブクログ
高校野球も含めプレイヤーでなくなったときや、東京オリンピックでなんかモヤモヤしていたことがバッチリ書いてある。選手はスポーツ興行に置ける客寄せパンダ的に扱われてる感があるけど、選手は大舞台に立ち夢を叶えたい訳、それを応援したい観戦者と言った構図。解決は難しいわけだ。
Posted by ブクログ
このタイトルの言葉は初めて見聞きした。P166に紹介されている山本敦久氏の説明がすべてを物語っている。「世の中の不都合をスポーツという〈正しくて善きもの〉で彩って見えなくさせていく、 それがスポーツウォッシングの作用といえるでしょう。今はそのスポーツ自体にいろんな ほころびが生じているんですが、それが見えないように、近代がつくりあげた〈理想的〉 な状態を維持し続けようとしている。だから、『スポーツに政治を持ち込んではいけな い」という主張は、スポーツがスポーツ自体をスポーツウォッシングしようとする動きの典型例なのかもしれません」
「この言葉を新聞テレビなどのマスコミが全く封印している理由を改めて理解できた。マスコミにとっては極めて自分の首を絞める行為になるからだ。五輪の政治利用は1936年のミュンヘンから始まり、1980モスクワ、2008ペキンなども、そうであったが、2021東京も将にそうだった!それはW杯も2022カタールは多くの出稼ぎ労働者の虐待死の問題も露糊していたのだが…という指摘。しかし、問題は国際大会の国家による理由だけにとどまらない。
スポーツ選手の政治的発言への日本社会の拒否、それがたとえ人権問題だったとしても。大坂なおみ選手の「私はアスリートである前に、一人の黒人女性」との発言は重い言葉である。NIKEはこれを指示し、世界から高く評価された一方で日本の日清は無視し事なかれ主義が世界の評判を落としたという逸話も紹介されている。
私としてはこの本には全く記載されていない、不人気内閣による国民栄誉賞のスポーツ選手への授与、また高校野球甲子園大会開催期間中の新聞テレビ報道の「涙と汗と感動」「純粋な青春」の言葉のオンパレードには辟易しているので、そのことも触れてほしかった。しかし、かくゆう私自身もW杯では日本代表を熱狂的に応援している。このスポーツウォッシングを批判する資格のない存在であり、それだけその魔力が大きいのである。